第四十四話「マリアが、都に残ることにした理由」
四十四話目です。
アルド編の後日談です。マリアが、都に残ることを決めた話と、凪が次の動きを考え始める話です。
去るということと、残るということ。どちらを選ぶかは、その人が何を大切にしているかによります。どちらが正しいということではない。ただ、選んだ方向に向かって、生きていく。
では、どうぞ。
水路の修復から、一週間が経った。
農地への水が、少しずつ安定してきていた。
土の変化は、まだわずかだった。
でも、毎日確認すると、少しずつ違った。
昨日より今日が、少し柔らかかった。
「続いていますね」と私は言った。
カナが、記録帳を見た。
「先週から毎日記録しています。確かに、少しずつ変わっています」
「全部が戻るのは、まだ先ですが」
「そうですね。でも、方向が変わった」
「方向が変われば、続きます」
ミアが、農地の端で何かを書いていた。
「ミアさん、何を書いているんですか」
「農民のダンさんの話を、聞いています」とミアが言った。
見ると、ダンが、ミアの隣にいた。
農地のことを、話しているようだった。
「ダンさんが、話してくれているんですか」
「昨日から、話してくれています。父親の代からの農地の変化を、ダンさんが覚えている限り教えてもらっています」
ダンが、私を見た。
「記録に残すんだと言うから、話している」とダンは言った。「怒ったまま、何もしないよりいいと思った」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ただ、記録が残れば、また同じことが起きたとき、参考になるかもしれない」
「なります」
「それだけだ」
ダンは、またミアに向き直った。
怒りが、形を変えていた。
行動に変わっていた。
◇
その日の昼、マリアに会った。
マリアは、宿の近くの広場にいた。
椅子に座って、都の人たちを見ていた。
「どうですか、都は」と私は言った。
「うるさい」とマリアは言った。
「そうですね」
「でも、見ていると飽きない」
「そうですか」
「色々な人間がいる。山には、私しかいなかった。ここには、たくさんいる。みんな、それぞれに動いている」
「都はそういう場所ですね」
「子どもが走っている。老人が荷物を運んでいる。売り子が声を出している。全部が、同時に動いている」
「そうです」
「山は、静かだった。沢の音だけあった。ここは、音が多い」
「どちらが好きですか」
マリアが、少し考えた。
「どちらも好きではないし、どちらも嫌いではない」
「そうですか」
「山は、好きだった。でも、八十年一人でいると、静かすぎることがある。都は、うるさい。でも、うるさいのも悪くない」
「慣れてきましたか」
「慣れるというより、見るものが多い」とマリアは言った。「見ていると、考えることが増える。考えることが増えると、疲れる。でも、眠れる」
「眠れるようになったんですか」
「山では、夜になると静かすぎて、考えすぎることがあった。ここは、昼間考えすぎるから、夜は疲れて眠れる」
「それは、良いことですね」
「良いことかどうか、分からない。ただ、眠れる」
マリアが、広場の向こうを見た。
「子どもが来た」
トウが、走ってきた。
昼休みらしかった。
「マリアさん、また来ました」とトウは言った。
「来たな」とマリアは言った。
「今日も、一緒に話していいですか」
「いいだろう」
「昨日の続きを聞かせてください。山の話を」
マリアが、少し眉を上げた。
「昨日、山の話をしたか」
「しました。父さんから教わった薬草の話。面白かったです」
「そうか」
「続き、聞かせてください」
マリアが、また少し考えた。
「座れ」
トウが、マリアの隣に座った。
私は、少し離れた場所に立っていた。
マリアが、話し始めた。
山の薬草の話だった。
どの草が、どの病に効くか。
どこで採れるか。
どう使うか。
八十年間、一人で学んだことだった。
トウが、真剣に聞いていた。
眼鏡の奥の目が、大きかった。
「全部、覚えられないから」とトウが言った。「記録してもいいですか」
「記録?」
「ミアさんみたいに、書いておきたいです」
「書けるのか」
「書けます。眼鏡をかけてから、字が書けるようになりました。前は、細かい字が書けなかったです」
マリアが、少し沈黙した。
「書いてくれ」とマリアは言った。
「ありがとうございます」
トウが、紙と筆を取り出した。
マリアが、また話し始めた。
トウが、書いた。
私は、その場を離れた。
◇
夕方、ベルクのところに行った。
「マリアさんが、都に残ることにしたそうです」とベルクが言った。
「そうですね、聞きました」
「理由を知っているか」
「トウが来るからだと思います」
「子どものトウか」
「毎日、マリアさんの話を聞きに来ています。山の薬草の話を、記録しています」
ベルクが、少し考えた。
「マリアの知識が、残るということか」
「そうです。一人で山にいたら、マリアさんが死んだとき、全部消えていました。トウが書き留めることで、残ります」
「それで、マリアが残ることにした」
「たぶん、そうです。直接は聞いていないですが」
ベルクが、手帳に何かを書いた。
「記録することが、人を動かすこともある」とベルクは言った。
「そうですね」
「記録するから、残る。残るから、伝わる。伝わるから、動く」
「全部つながっています」
「つながっている」とベルクは言った。
少し間があった。
「凪、そろそろ次のことを考えているか」
「考えています」
「どこに行く」
「ルナに、春咲きが咲いている間に帰ると言いました。春咲きが咲いているのは、今月中だと思います」
「今月中に、帰りたいということか」
「そうです。ここでやることは、ある程度終わりました。土の回復は時間がかかりますが、方向は整いました。カナさんとミアさんがいれば、続けられます」
「水路の管理は、都の工事部門が引き継いだ」
「そうですね。沢の管理は、マリアさんが残ることで続きます」
「全部、次の人間に渡した」
「渡しました。私が続けるより、それぞれの場所にいる人が続ける方が、長続きします」
ベルクが、私を見た。
「お前は、いつも次の人間に渡すな」
「私がいなくても続く状態にしてから、次に行く。それが、私のやり方だと思っています」
「魔王として、直接力を使い続ける方が、早くない場合もあるか」
「早いですが、私が去った後に続かないことが多いです。早く直しても、続かなければ、また壊れます」
「だから、続く仕組みを作ってから去る」
「そうです。私の力は一時的なきっかけに過ぎないです。その地が自分で巡らせる状態にならないと、私が去った後に元に戻ります」
ベルクが、手帳を閉じた。
「一つ、聞いていいか」
「なんですか」
「その考え方は、どこで学んだ」
少し考えた。
「ルナに教わりました」
「子どものルナに」
「ルナが、精霊と友達になって、毎日池に来ていました。最初は精霊が来たり来なかったりしていた。でも、ルナが毎日来るうちに、精霊が毎日来るようになった。私が力を使って精霊を元気にしたのではなく、ルナが関係を作って、精霊が自分で元気になった」
「子どもが、精霊との関係を作った」
「そうです。私が一時的に直すより、ルナが毎日関わることで、自然に続く関係ができた。それを見て、続く仕組みを作ることが大事だと分かりました」
ベルクが、また少し考えた。
「子どもから学んだということか」
「学びました」
「凪らしいな」
「そうですか」
「お前は、大人より子どもから学ぶことが多い」
「そうかもしれないです。子どもは、余分なものを入れずに本質を言うので」
「ルナという子に、会ってみたいな」とベルクは言った。
「いつか、来てみてください。北の池の精霊と友達の子です」
「精霊と友達の子か」
「会うと、驚くと思います」
「驚いてみたい」
「来年、来てください」と私は言った。「ダンさんの農地を確認しに来るときに」
「来年、行く」とベルクは言った。「約束だ」
「します」と私は言った。
ベルクが、少し眉を上げた。
「します、か。前はできる限り、と言っていたが」
「練習しました」
「誰に」
「ルナに」
ベルクが、また少し笑った。
「やはり、ルナという子に会いたくなった」
「来てください、来年」
「行く」
◇
翌日、マリアに会いに行った。
「少し聞いてもいいですか」と私は言った。
「なんだ」とマリアは言った。
「都に残ることにしたと、聞きました」
「そうした」
「理由を、聞いていいですか。直接」
マリアが、少し考えた。
「トウが来るからだ」
「そうですね」
「知っていたか」
「そうかな、と思っていました」
「あの子は、毎日来る。昨日も来た。今日も来ると思う」
「来ると思います」
「山の薬草の話を、全部書き留めると言っていた。全部書いたら、次は沢の話を聞きたいと言っていた。その次は、山の動物の話を聞きたいと言っていた」
「話すことが、たくさんありますね」
「たくさんある。八十年間、誰にも話さなかったことが、たくさんある。あの子に話すと、全部書いてくれる」
「残ります」
「残る。私が死んでも、残る」
マリアが、広場を見た。
今日も、色々な人が動いていた。
「父が守っていたものが、都に届いた。私が話したことが、記録に残る。それで、十分だ」
「山に戻りたい気持ちは、ないですか」
「ある」とマリアは言った。「でも、今はここにいる。山は、いつでも帰れる」
「そうですね」
「お前は、いつ発つんだ」
「今週中に、発とうと思っています。森の集落に帰ります」
「子どもが待っているか」
「そうです」
「早く帰れ」とマリアは言った。「待っている子どもは、早く帰ってやるべきだ」
「そうですね」
「私に、父が帰ってくる日が、何日かあった。それが嬉しかった。帰ってくる、ということは、大事なことだ」
「そうですね」
「早く帰れ」とマリアはもう一度言った。
「帰ります」
マリアが、また広場を見た。
トウが、向こうから走ってきた。
手に、紙と筆を持っていた。
「今日は、沢の話を聞かせてください」
「来たな」とマリアは言った。
「来ました」
「座れ」
トウが、マリアの隣に座った。
私は、その場を離れた。
二人が、話を始めていた。
マリアの声は、昨日より少し柔らかかった気がした。
◇
出発の前日、都の農地をもう一度歩いた。
カナと一緒だった。
「最後の確認です」と私は言った。
「はい」とカナが言った。
「私が去った後も、続けてもらえますか」
「続けます。ミアと一緒に、毎週確認します」
「問題が出たときは」
「凪さんに、手紙を送ります。それまでに、ベルクさんと相談します」
「ありがとうございます」
「カナさんにお礼を言うのは、違います」とカナは言った。「私の仕事ですから」
「それでも、ありがとうございます」
カナが、少し笑った。
「凪さんは、礼を言う必要がないことにも、礼を言いますね」
「当たり前のことを、当たり前にやってもらうことが、一番助かるので」
「そうですか」
「当たり前のことが、当たり前にできる状態を作るのが、一番難しいです。カナさんが記録を続けてくれることで、その状態が続きます」
「難しいことに聞こえませんが」
「難しいです。続けることが、一番難しい」
カナが、記録帳を持ちながら歩いた。
「続けます」とカナは言った。
「お願いします」
農地の端まで歩いた。
水路を確認した。
水が流れていた。
「良くなっていますね」と私は言った。
「少しずつ、変わっています」とカナが言った。
「来年、もっと変わっていると思います」
「来年、また来ますか」
「来ます。ダンさんに約束しました」
「ダンさんは、怒っていましたが」
「怒っていましたね。でも、記録に協力してくれました。怒りながら、動いていた」
「怒ることが、動くエネルギーになる場合もありますね」
「そうですね。怒りを、全部否定する必要はないかもしれないです。怒りが正しい方向を向いていれば、動く力になります」
カナが、それを書いた。
「凪さんの言葉、書き留めます」
「書き留めるほどのことじゃないですが」
「書き留めるほどのことです」
農地を後にした。
明日、発つ。
ルナが待っていた。
春咲きが、まだ咲いているといいと思った。
四十四話目、書きました。
マリアが都に残った理由は、トウが毎日来るからでした。自分の死後に知識が残ること。それが、マリアを山から都に引き留めた。八十年間誰にも話せなかったことを、話せる場所ができた。それだけで、人は動ける。
「帰ってくる、ということは、大事なことだ」というマリアの言葉。父が帰ってくる日が嬉しかった、という記憶から来ている言葉です。その言葉が、凪に早く帰れと言わせた。
「怒りが正しい方向を向いていれば、動く力になる」という凪の気づきは、ダンとの出会いから来ています。怒りをそのまま消そうとするのではなく、その方向を見ること。ダンが記録に協力してくれたのは、怒りが行動に変わった例でした。
「魔王の力は一時的なきっかけに過ぎない」「その地が自分で巡らせる状態にならないと、去った後に元に戻る」という凪の言葉が、明示的に語られた話でもありました。マスターのアドバイスで示された方向性が、凪の言葉として出た場面でした。
次話では、森の集落への帰還と、ルナとの再会があります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




