第四十三話「水路が繋がった日、農民が怒った」
四十三話目です。起承転結の「結」ですが、全てが丸く収まるわけではありません。
良いことが起きたのに、怒る人がいます。なぜか。それは、良いことが起きるのが「遅すぎた」からです。
凪が、初めて正面から「怒り」と向き合う話です。
では、どうぞ。
沢の岩を動かしてから、三日が経った。
水路の修復が始まった。
ベルクが、都の工事部門を動かした。
記録に残っていた百五十年前の水路の経路を参考に、崩れた部分を直す作業が始まった。
作業員が、十人以上入った。
私は、地下を感じ取りながら、どこが崩れているかを指示した。
カナとミアが、記録した。
「感じ取れますか」とカナが聞いた。
「感じ取れます。ただ、ここは複雑です」
「複雑というのは」
「崩れている場所が、一か所ではないです。八十年の間に、水路の各所が少しずつ崩れています。一気に直せないです」
「優先順位はありますか」
「あります。水の流れの上流から順番に直さないと、下流を直しても意味がないです」
「順番を教えてください」
地図に、順番を書き込んだ。
作業員が、その通りに動いた。
三日かかった。
でも、水路の主要な部分が、繋がった。
◇
水路が繋がった日の夕方、農地に行った。
水が、水路を通って、農地に届き始めていた。
まだ細かった。
完全ではなかった。
でも、届いていた。
農地を持つ人たちが、何人か来ていた。
水が来ているのを、確認していた。
「増えていますね」と私は言った。
農民の一人が、振り返った。
五十代の、日焼けした男性だった。
「お前が、水を持ってきたのか」と言った。
「沢の岩を動かして、水路を直しました。水が増えたのは、それが原因です」
「なぜ、今まで来なかったんだ」と男性は言った。
「今まで、沢の状態を知らなかったです。今年、調べてみて、分かりました」
「知らなかった、じゃ、済まない」
男性が、少し前に出た。
怒っていた。
「俺の父親の代から、農地が痩せてきていた。水が少なかったからだ。でも、誰も直してくれなかった。父親は、水が少ないなりに作物を育てて、死んだ。俺も、二十年、このまま作ってきた。それが、今日、急に水が来たからといって、喜べるか」
「喜べないですね」と私は言った。
男性が、少し止まった。
「そうです。遅すぎました。申し訳なかったです」
「申し訳なかった、で、父親の二十年が戻るか」
「戻りません」
「俺の二十年が戻るか」
「戻りません」
男性が、また黙った。
怒りの中に、別の何かがあった。
疲れていた。
長い間、少ない水で作り続けた疲れが、全身に出ていた。
「水が来たのは、良かったです。でも、もっと早く来るべきでした。それは本当のことで、私には何も言えないです」
男性が、地面を見た。
しばらく、何も言わなかった。
「水が来た、で、良しとするつもりはない」とやっと言った。
「良しとしなくていいです」
「でも、水が来ないより、来た方がいい」
「そうですね」
「俺も、馬鹿じゃないから、それくらい分かる」
男性が、水路を見た。
水が、細く流れていた。
「もっと増えるのか」
「増えます。今は水路が直ったばかりで、まだ詰まっている部分があります。少しずつ、水が流れていくうちに、詰まりが取れます。一か月くらいで、もっと増えると思います」
「一か月か」
「もう少しかかるかもしれないですが、方向は変わりました。増えていきます」
男性が、また地面を見た。
「作物が戻るのは、いつだ」
「土の状態によりますが、今年は難しいと思います。水が増えても、土が戻るのに時間がかかります。来年の方が、良くなっている可能性が高いです」
「今年は、だめか」
「今年は、水が届いた、ということが大事です。来年に向けて、土の準備をする年だと思います」
男性が、今年の作物を見た。
まだ小さな芽だった。
「この芽は、どうなる」
「水が来たことで、前よりは育ちやすくなります。ただ、奇跡的には変わりません。少し良くなる、程度だと思います」
「正直だな」と男性は言った。
「不確かなことを、確かだと言うと、後で困ることになります」
「そうか」
男性が、また水路を見た。
「名前は」
「凪です」
「俺は、ダンだ」とダンは言った。「覚えておいてくれ」
「覚えます」
「来年、また来てくれるか。土の状態を確認してほしい」
「来ます」
ダンが、少し頷いた。
怒りは消えていなかった。
でも、少し、違う顔になっていた。
「水が来たことは、認める」とダンは言った。「来なかった二十年を、許したわけじゃない。でも、来たことは認める」
「ありがとうございます」
「礼はいい。来年、来い」
「来ます」
◇
ベルクが、その一部始終を見ていた。
私が戻ると、少し低い声で言った。
「怒られたな」
「怒られましたね」
「対応が、良かった」
「そうですか」
「言い訳しなかった。謝った。でも、水が戻ったことを否定しなかった。遅かったことと、来たことは、どちらも本当だ。その両方を、認めた」
「どちらも、本当のことなので」
ベルクが、農地を見た。
「都の行政として、謝りに来るべきだな」
「そうかもしれないです」
「お前が謝ることではない。都が謝ることだ」
「そうですね。ただ、ダンさんは都を責めているより、水が来たことを自分で受け入れようとしていた気がします」
「怒りながら、受け入れていた」
「そうだと思います。怒りと、受け入れることは、一緒に起きることがあります」
ベルクが、少し頷いた。
「お前と話すと、そういうことが分かる」
「私は何も、特別なことを言っていないですが」
「それが、特別なんだ」
◇
その日の夜、マリアが都に来た。
山から下りてきた。
ベルクが、迎えの人間を送ったらしかった。
宿に来て、私を探した。
「また会ったな」とマリアは言った。
「また会いましたね。都に来たんですか」
「来た。ベルクという人間が、迎えを送ってきた。来い、と言うから来た」
「都は、どうですか。久しぶりですか」
「久しぶりだ。どのくらいぶりか、分からないほど久しぶりだ」
「怖くないですか」
「怖いとは、思わない。ただ、多い。人も、音も、匂いも」
「山とは、全然違いますね」
「全然違う。でも、悪くない」
マリアが、窓から都の夜景を見た。
「これが、父が守っていた都か」
「そうです」
「父は、都のために水を守っていた。都の人間に、水が届くように。その都が、こうして動いている」
「マリアさんのお父さんが、守ってくれていたおかげです」
「父は、都を見ることなく死んだ。私も、来ないつもりだった。でも、来た」
「来てくれて、良かったです」
マリアが、また夜景を見た。
「ベルクが、都の記録に名前を残すと言っていた」
「そうですね。マリアさんとお父さんの名前が、記録に残ります」
「父が、聞いたら何と言うかな」
「分かりません。でも、喜ぶかもしれないです」
「喜ぶかどうか、分からない。でも、知ってほしかったとは思っていたはずだ。知られないまま終わることが、一番悔しかったと思う」
「知られました」
「知られた」とマリアは言った。「ベルクが記録する。残る」
「残ります」
マリアが、私を見た。
「お前は、何者だ」
「転生者です。気になることを直していたら、ここまで来ました」
「都の水路を直しに来たのか」
「最初は、農地の土のムラを調べに来ました。調べているうちに、地下の石が見つかって、水路があって、沢があって、マリアさんに会いました」
「気になることを追っていたら、私に辿り着いた」
「そうです」
マリアが、少し笑った。
「面白い経緯だな」
「面白いですね」
「私は、八十年間、誰かが来るのを待っていた。お前は、別のことを追いかけていて、私のところに来た。どちらも、意図しない出会いだった」
「意図しなかった出会いが、大事なことが多いですね」
「そうだな」とマリアは言った。「お前は、次にどこに行く」
「まだ、ここでやることがあります。農地の土のムラを、直す必要があります」
「それが終わったら」
「分かりません。気になることが、また出てくると思います」
「また、意図しない出会いがあるかもしれないな」
「あると思います」
マリアが、また窓の外を見た。
「私は、これからどうすればいい」
「どうしたいですか」
「山に戻るか、ここにいるか。ベルクが、都にいてもいいと言っていた」
「どちらでも、いいと思います」
「どちらでもいいとは、どういう意味だ」
「マリアさんが、どちらで生きたいかによります。山が好きなら、山にいればいい。都を見てみたいなら、ここにいればいい」
「どちらも、正解か」
「どちらも、正解だと思います」
マリアが、少し考えた。
「少し、ここにいてみる。山は、また行けばいい。都を、少し見てみたい」
「良いですね」
「父が守っていた都を、少し見てみたい」
「見てください」
「案内はしてくれるか」
「明日、少し案内します」
「頼む」
◇
翌朝、マリアと都を歩いた。
市場を通った。
果物を売る店で、トウがいた。
「凪」とトウが言った。
「いたんですか」
「もちろん。ここで働いてるから」
トウが、マリアを見た。
「誰ですか」
「マリアさんといいます。山で、沢を守っていた方です」
「沢を守っていた」
「この都に水を運んでいた沢を、守っていた方です」
トウが、マリアをちゃんと見た。
「沢が戻ったのは、この人が守っていたからですか」
「そうです」
トウが、マリアに向かって頭を下げた。
「ありがとうございます」
マリアが、少し驚いた。
「礼を言われる理由がない。俺も、沢が戻ったことを知らなかった」
「でも、守っていてくれたんでしょ」
「守っていた。でも、届いていなかった」
「届いた」とトウは言った。「今日、届いた。だから、ありがとうございます」
マリアが、また少し驚いた顔をした。
それから、短く言った。
「そうか」
果物を一つ、トウがマリアに渡した。
「これ、今日一番きれいな果物です。どうぞ」
マリアが、受け取った。
見た。
赤くて、丸かった。
「きれいだな」
「きれいですよ」
マリアが、一口食べた。
「甘い」
「そうでしょ。水が良いと、果物が甘くなる。水路が戻ったから、来年はもっと甘くなるかもしれない」
「そうか」とマリアは言った。「来年か」
「来年、また来てください。もっと甘い果物を取っておきます」
マリアが、トウを見た。
目が、鋭かったが、温かかった。
「来年、来る」
「約束ですね」
「約束だ」
マリアが、果物をまた一口食べた。
「甘いな」と、もう一度言った。
今度は、もう少し柔らかい声だった。
◇
夕方、一人で農地に行った。
水が流れていた。
昨日より、少し増えていた。
土に手を当てた。
昨日と、少し違った。
ほんの少し、柔らかくなっていた。
水が来たことで、土の中の生き物が、少し動き始めていた。
「始まっている」
誰もいなかったが、言った。
劇的な変化ではなかった。
でも、方向が変わっていた。
昨日より、今日が少し良い。
今日より、明日が少し良い。
それが続けば、来年は違う。
「ダンさんが、来年を見たがっていた」
来年、来ると約束した。
来年、また来てみれば、どうなっているか分かる。
良くなっていれば、ダンさんが少し表情を変えるかもしれない。
良くなっていなければ、また考える。
どちらでも、来ることに変わりはなかった。
「来ます」
農地に向かって、言った。
作物の芽が、夕日の中で小さく揺れていた。
水が、細く流れる音がした。
八十年ぶりに、本来の水が届いた農地だった。
父の代から、水が少なかった農地だった。
でも、今日から、少し違う。
「頑張れ」と、作物の芽に言った。
芽が、風に揺れた。
返事のような揺れ方だった。
シロが、隣に来た。
「帰りましょう」
シロが尻尾を振った。
二人で、農地を後にした。
都の明かりが、夕暮れの中に灯り始めた。
マリアが、どこかでその明かりを見ているかもしれなかった。
父が守っていた都の明かりを。
四十三話目、書きました。
ダンが怒った場面は、この物語の中でも重要な場面でした。良いことが起きたのに、怒る。遅すぎたから。でも、怒りながら受け入れていた。怒りと受け入れることは、同時に起きる。凪がそれを正面から受け止めた場面でした。言い訳せず、謝り、でも水が来たことを否定しなかった。
マリアとトウの出会いが、この話で一番書きたかった場面です。山で八十年間水を守っていた老人と、都の市場で果物を売る若者。二人が直接つながることはなかったが、凪が間に立つことで出会えた。「届いた。今日、届いた」というトウの言葉が、この物語全体のテーマと重なります。
アルド編の起承転結が、ここで一区切りつきました。ただし、全部が解決したわけではありません。土の回復には、まだ時間がかかる。ダンの怒りも、完全には解けていない。来年、また来ることになる。これが、この物語の形です。全部が丸く収まらない。でも、方向は変わった。
次話からは、このアルド編の後日談と、次の動きが見え始めます。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




