第四十二話「岩が動いた日、マリアが泣いた理由」
四十二話目です。起承転結の「転」に入ります。
岩を動かす作業が始まります。でも、この話で一番大事なのは、岩が動いたことではありません。岩が動いた後に、マリアが言った一言です。
凪が、自分の力の使い方について、一つ大切なことを学ぶ話でもあります。
では、どうぞ。
翌朝、また山に向かった。
今回は、ベルクが都の作業員を二人連れてきた。
「人手が必要だろう」とベルクが言った。
「ありがとうございます。助かります」
作業員の二人は、若い男性だった。
一人はノルといった。背が高くて、腕が太かった。
もう一人はケイといった。小柄だったが、動きが速そうだった。
「よろしくお願いします」と私は言った。
「よろしくお願いします」とノルが言った。
「よろしくお願いします」とケイが言った。
二人とも、シロを見て、少し驚いた。
「ラグル族ですか」とノルが言った。
「そうです。シロといいます」
「大きいですね」
「そうですね」
シロが尻尾を振った。
◇
マリアが、沢で待っていた。
私たちを見て、少し目を細めた。
「また来た」
「来ました。今日から、岩を動かします」
「何人いる」
「七人と一頭です」
「多いな」
「力が必要なので」
マリアが、岩を見た。
「何日かかると思う」
「分かりません。やってみないと」
「そうだな。やってみないと、分からん」
マリアが、小屋に戻ろうとした。
「マリアさん、見ていてもらえますか」と私は言った。
「なぜ」
「岩の状態を、一番よく知っているのはマリアさんだと思います。何かおかしいことがあれば、教えてほしいです」
マリアが、少し考えた。
「分かった。見ている」
◇
最初の岩は、三つのうち一番小さかった。
でも、十分に大きかった。
三人では動かせない大きさだった。
私が、岩に手を当てた。
力を送り込んだ。
昨日の確認で、岩の重心と、どの方向に動かしやすいかを感じていた。
その情報を使って、最初に岩をわずかに動かした。
「今、内側から少し動きました」と私は言った。「ノルさんとケイさんは、右側を押してください。ベルクさんは、左の支点を固定してください」
「分かった」とノルが言った。
「支点を固定、というのは」とベルクが言った。
「岩が変な方向に転がらないように、ここを押さえていてください」
「分かった」
「カナさんとミアさんは、後ろから一緒に押してください。一気にではなく、ゆっくりと」
「分かりました」とカナが言った。
全員が位置についた。
「せーので、お願いします。せー」
「の」と全員が合わせた。
岩が、ほんの少し動いた。
「もう一度。せー」
「の」
また、動いた。
「もう一度。今度は少し大きく動かします。せー」
「の」
岩が、がくりと動いた。
大きく動いた。
沢の流れが塞がれていた部分が、少し開いた。
水が、少し多く流れ始めた。
「一つ、動きました」
全員が、岩を見た。
ノルが、手を見た。
「動いた」と言った。驚いた声だった。
「動きましたね」
「こんな岩が、動くとは思わなかった」
「七人でやったから、動きました。一人では無理でした」
マリアが、沢に近づいた。
水の流れを見た。
「増えた」とマリアは言った。
「そうです。でも、まだ二つあります」
「続けてくれ」
◇
二つ目の岩は、最初より大きかった。
時間がかかった。
三回動かした後、また動かなくなった。
「詰まっています」と私は言った。
「どういう意味だ」とベルクが言った。
「岩の下に、別の石が引っかかっています。上の岩を動かすより先に、下の石を取り除いた方がいいです」
「どこにある」
「ここです」
地面を指さした。
ケイが、その場所を掘り始めた。
手で掘った。
小さな石が、出てきた。
「これですか」
「そうです。それを取ってみてください」
石を取り除いた。
「もう一度、やってみます。せー」
「の」
岩が、ずるりと動いた。
前より、大きく動いた。
水が、また増えた。
「二つ、動きました」
全員が、少し息を吐いた。
疲れていた。
ベルクが、地面に膝をついた。
「少し休もう」とベルクは言った。
「そうですね」
「お前は、疲れていないのか」
「疲れています。でも、もう少しやれます」
「無理をするな」
「無理はしていないです。力の残量が分かるので」
「力の残量」
「今日使った力の量と、残っている量が、感覚で分かります。今日は、まだ三割くらい残っています」
「三割残っているから、三つ目もできるということか」
「できますが、三つ目が一番大きいので、全員が必要です」
「休んでから、やろう」
「そうしましょう」
◇
昼食は、マリアが用意してくれた。
山菜の汁と、硬いパンだった。
「ありがとうございます」と私は言った。
「ここにあるもので作った。山には、食べ物がある」
「マリアさんは、ずっとここで食べ物を作ってきたんですね」
「そうだ。沢の近くには、山菜が多い。水があるから、育ちやすい」
「水があると、食べ物が育つ」
「当たり前のことだ」とマリアは言った。「水がないと、何も育たない。だから、水を守ることが大事なんだ」
「都の人たちは、それを分かっていなかったかもしれないですね」
「分かっていなかった。蛇口をひねれば水が出ると思っていた。水がどこから来るか、考えなかった」
「今は、考えている人が増えてきました」
「そうか」とマリアは言った。「増えてきた、というのは、良い言い方だ。全員が考えているとは言わないが、増えてきた」
「増えれば、また増える。増えていくものは、続きます」
マリアが、私を見た。
「お前、どこから来た」
「別の世界から、転生してきました」
「別の世界にも、水の問題があったか」
「ありました。あります。今も」
「直せたのか」
「直せていないです。でも、分かっている人は増えていました」
「分かっている人が増えれば、動く人が増える。動く人が増えれば、変わる」
「そうだと思っています」
マリアが、汁を一口飲んだ。
「お前みたいな人間が、向こうの世界にもいればよかった」
「いると思います。ただ、届いていないだけかもしれないです」
「届けようとしているか」
「届けようとしている人が、いると思います」
「なら、いつか届く」とマリアは言った。
◇
食事の後、三つ目の岩に取り掛かった。
一番大きかった。
私が力を送り込んだ。
今まで使った中で、一番大きな力を使った。
それでも、岩は少ししか動かなかった。
「押してください」
全員が押した。
動かなかった。
「もう一度」
また押した。
少し動いた。
「この方向に、動こうとしています。この方向を全員で押してください」
「せー」
「の」
岩が、少し動いた。
「もう一度。せー」
「の」
また動いた。
「せー」
「の」
「せー」
「の」
五回目のとき、岩が大きく動いた。
どんという音がした。
水が、一気に流れ始めた。
今まで聞いていた沢の音より、ずっと大きな音がした。
全員が、立ち止まった。
水の音だけが、響いていた。
「全部、動きました」
誰も、すぐには言葉が出なかった。
水が、勢いよく流れていた。
八十年間、塞がれていた水が、解放されたように流れていた。
ノルが、「すごい」と言った。
ケイが、水に手を入れた。
「冷たい。でも、きれい」
カナが、記録帳に書き始めた。
ミアも書いていた。
ベルクが、水を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、見ていた。
私は、マリアを見た。
マリアが、沢のそばに立っていた。
水を見ていた。
泣いていた。
声は出ていなかった。
でも、泣いていた。
「マリアさん」と私は言った。
マリアが、振り返らなかった。
しばらく、沢を見ていた。
それから、振り返った。
「父が、ここで見ていた水だ」とマリアは言った。「父と一緒に、この水を見ていた。地震で岩が落ちてから、この水が見られなくなった。今日、また見た」
「良かったです」
「良かった」とマリアは言った。「本当に、良かった」
またしばらく、沢を見た。
「父は、いつか水が戻ると言っていた。都の人間が、また来てくれると言っていた。来なかった。父は、待ちながら死んだ」
「そうだったんですね」
「私も、来てくれると思っていた。来なかった。でも、今日、来た」
「来るのが、遅れて申し訳なかったです」
「謝らなくていい」とマリアは言った。「来てくれただけで、十分だ。父が待っていたものが、今日、来た。それだけで、十分だ」
ベルクが、マリアに歩み寄った。
「都の名前で、謝らせてほしい」とベルクは言った。
「謝らなくていいと言った」
「それでも、言わせてほしい。八十年間、ここにいてくれてありがとう。水を守ってくれてありがとう。記録するのが遅れたことを、申し訳なく思っている」
マリアが、ベルクを見た。
しばらく、見ていた。
それから、短く言った。
「次は、遅れるな」
「遅れない」とベルクは言った。
◇
帰り道、一人で少し後ろを歩いた。
今日使った力が、予想より多かった。
三つ目の岩は、本当に大きかった。
力の残量が、ほとんどなかった。
疲れていた。
でも、不思議と気持ちよかった。
シロが、私の横にいた。
「疲れました」
シロが尻尾を振った。
「でも、良かったです」
また振った。
「マリアさんが泣いていた」
シロが耳を動かした。
「八十年間、水が戻るのを待っていた。それが、今日戻った。父が待っていたものが、来た。そういうことでした」
シロが、静かに歩いた。
「私の力で、水が戻ったわけではないです。七人と一頭が、一緒に岩を動かした。それで、水が戻った。力だけでは、無理でした」
シロが、少し顔を向けた。
「あと、もう一つ分かったことがあります」
シロが聞いていた。
「水路を直しても、水源がなければ意味がないと思っていました。だから、まず沢の岩を動かした。それは正しかったです」
シロが歩き続けた。
「でも、岩を動かしても、水路が直っていなければ、農地まで届かない。順番がある。根本を直して、次に伝える道を直して、最後に届く場所が整う」
シロが尻尾を振った。
「一つ直せば終わりじゃなかった。全部がつながっているから、全部が整わないと、最後まで届かない」
シロが、耳を動かした。
「まだ、仕事があります」
また振った。
「分かってますね」
シロが、前を向いた。
先に歩いた。
先に行って待っている、という感じだった。
「急がなくていいですよ」
シロが振り返らなかった。
急ぐわけではなかった。
ただ、前を向いていた。
その背中を見ながら、歩いた。
春の山道を、下った。
水の音が、後ろから聞こえた。
沢が、また流れていた。
八十年ぶりに、本来の量で流れていた。
その音が、山を下りる間中、聞こえていた。
四十二話目、書きました。
マリアが泣いた理由は、単純に水が戻ったことではありませんでした。父が待っていたものが来た、ということでした。百年以上の時間をかけた、世代をまたいだ待ちが、今日終わった。デルがセルドで「じいさんの話が役に立った」と言ったのと、構造が似ています。亡くなった人が残したものが、時間を越えて意味を持つ。
「次は、遅れるな」というマリアの一言。謝罪への返し方として、これが一番重かったと思います。過去を責めるのではなく、未来への約束を求めた。
凪が「全部がつながっているから、全部が整わないと最後まで届かない」と気づいた場面。岩を動かすことと、水路を直すことは、どちらも必要で、順番がある。魔王の力で一か所直せば終わりではない。この気づきが、このアークのテーマと重なります。
次話は「結」です。水路の修復が始まります。そして、都の農地に変化が起き始める。でも、その変化には時間がかかる、という現実も出てきます。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




