第四十一話「山の沢に、誰かが住んでいた」
四十一話目です。
北の山に向かいます。沢の状態を確認しに行ったら、予想外の人物がいました。
この物語では、問題の解決に向かうとき、いつも「知らなかった誰か」が鍵を持っています。専門家でも、権力者でもない。ただ、長くそこにいた人。
今回も、そういう出会いがあります。
では、どうぞ。
北の山への道は、都から半日ほどだった。
朝早く出発した。
ベルク、カナ、ミア、私とシロ。
春の道だった。
新しい草が、道の両側に出ていた。
鳥の声が、あちこちから聞こえた。
「春の山は、行きやすいですね」とカナが言った。
「そうですね。冬の山は、少し違いました」
「どう違いましたか」
「静かでした。全部が眠っている感じで。でも、眠っていても、中は生きていた」
「冬の山を、歩いたんですか」
「ゴルさんの集落で、少し歩きました」
「岩人の集落、一度行ってみたいです」とカナが言った。
「面白い場所ですよ。岩と、岩人と、山の精霊がいます」
「山の精霊にも、会いましたか」
「会いました。疲れた目をしていました」
「疲れた目の精霊」とミアが言った。「セルドの竜と、似ていますね」
「似ています。傷ついた自然にいる精霊は、疲れています。自然が回復すると、精霊も元気になります」
「精霊と自然がつながっている」
「全部がつながっています」
ベルクが、黙って歩いていた。
でも、聞いていた。
◇
山の入口に差し掛かったとき、道が細くなった。
人があまり来ない道だった。
草が、道の上まで伸びていた。
シロが、先頭を歩いた。
草をかき分けながら進んだ。
「ここ、最近は誰も来ていないですね」と私は言った。
「八十年前に、水路が放棄されてから、来る理由がなくなった」とベルクは言った。「沢への道も、整備されなくなった」
「八十年で、こんなに草が」
「草は、早い」
道が、さらに細くなった。
崖に近い場所を通った。
「気をつけてください」とベルクが言った。
「ありがとうございます」
一時間ほど進んだとき、水の音が聞こえてきた。
「近いですね」
シロが、耳を立てた。
水の音だけではなかった。
別の音も、聞こえた。
何かが動く音だった。
動物か、人か、分からなかった。
「何かいます」と私は言った。
「獣か」とベルクが言った。
「分かりません。シロ、分かりますか」
シロが、鼻を動かした。
それから、尻尾を振った。
驚くものではない、という感じだった。
◇
沢に出た。
細い沢だった。
八十年前には、ここから都まで水を引いていたとは思えない細さだった。
でも、水は流れていた。
そして、沢のそばに、小さな小屋があった。
古い小屋だった。
壁が、苔で覆われていた。
でも、煙が出ていた。
誰かが、ここに住んでいた。
「人がいる」とベルクが言った。
「そうですね」
「こんな山の中に、なぜ」
小屋の扉が、開いた。
中から出てきたのは、老人だった。
女性だった。
白い髪で、背が曲がっていたが、目が鋭かった。
私たちを見て、驚いた様子はなかった。
まるで、来ることを知っていたような顔だった。
「久しぶりに、人が来たな」と老人は言った。
「こんにちは」と私は言った。
「ラグル族を連れた人間が来ると、思っていた」
「私のことを、知っていましたか」
「知らない。ただ、春になると、誰かが来ると思っていた。毎年、春には、誰かが来ると思っていた。でも、来なかった。今年は、来た」
「毎年待っていたんですか」
「八十年、待っていた」
◇
老人の名前は、マリアといった。
八十年前に生まれたわけではなかった。
年齢は、九十近かった。
「九十ですか」とベルクが驚いた。
「それくらいだろう。正確には、知らない。生まれた日を、覚えていない」
小屋の中に通してもらった。
狭かったが、丁寧に暮らしていた。
道具が、きちんと並んでいた。
薬草が、束になって吊るされていた。
「一人で、ここに住んでいるんですか」
「そうだ。若い頃から、ここにいた」
「なぜ、こんな山の中に」
マリアが、少し沈黙した。
「父が、ここに住んでいた。父の父も。この沢を、ずっと守ってきた家だ」
「守ってきた」
「都の水路に、水を届ける沢だったから。守る役目があった。でも、八十年前に地震があって、水路が壊れた。都から、もう来なくていいと言われた」
「でも、ここに残った」
「沢は、まだある。役目がなくなっただけで、沢が消えたわけじゃない。だから、残った」
「八十年間、一人で」
「途中まで、父がいた。父が死んでから、一人だ」
ベルクが、マリアを見た。
「都は、あなたのことを、忘れていた」
「知っている。来なくなったから」
「申し訳なかった」
マリアが、ベルクを見た。
「謝ってほしいわけじゃない。ただ、来てくれれば良かった。一度も来なかったから、沢のことを、誰も知らないままになった」
◇
沢のことを、マリアに聞いた。
「八十年前の地震で、沢の流れが変わったと聞いています」と私は言った。
「そうだ。地震で、上の方の岩が崩れた。崩れた岩が、沢の一部を塞いだ。それで、水の量が減った」
「どのくらい減りましたか」
「地震の前は、今の三倍以上流れていた。都まで水を届けるのに、十分な量があった」
「三倍」
「今も、増やせると思っている。塞いでいる岩を動かせば、水が戻る」
「動かせなかったんですか、今まで」
「一人では、無理だ。都に頼もうとしたが、来てくれなかった」
「来てくれなかった」
「八十年前、すぐに来てほしいと伝えた。でも、水路が壊れたから、水路ごと諦める、という話になった。沢の方は、放置された」
ベルクの顔が、少し固くなった。
「都の判断が、間違っていたということだ」
「間違いとは思わない」とマリアは言った。「当時は、水路を直すより、別の水を探す方が早いと思ったのだろう。でも、別の水も、結局は十分ではなかった。だから、農地が痩せてきた」
「八十年かけて、じわじわと影響が出てきた」と私は言った。
「そうだ。一度にひどくなったわけじゃない。少しずつ、少しずつ、足りなくなっていった」
「気づくのが遅れた」
「気づいていた人は、いたかもしれない。でも、すぐには動かなかった。そういうことは、よくある」
マリアが、沢の方を見た。
「今は、動ける人が来た。動けるなら、やってほしい」
「やります」と私は言った。
「できるか」
「塞いでいる岩が、どの程度の大きさか見てから判断しますが、やってみます」
「やってみる、か」とマリアが言った。「その言い方が、好きだ。できると言い切る者より、信用できる」
◇
マリアに案内されて、塞がれている場所を見た。
沢の上流だった。
大きな岩が、三つ、沢を半分ほど塞いでいた。
水は、岩の隙間を通っていたが、量が限られていた。
「これが、地震で崩れてきた岩ですか」
「そうだ。父が若い頃の地震だから、八十年以上前になる」
三つの岩を、感じた。
大きかった。
セルドで動かした岩より、大きかった。
「一人では、難しいです」
「やっぱりか」とマリアが言った。落胆はしていなかった。ただ、分かった、という顔だった。
「でも、方法はあるかもしれない」
「どういう方法だ」
「三つを一度に動かそうとせず、一つずつ動かします。しかも、一気に動かすのではなく、少しずつ動かします。力を小出しにして、岩が動きやすい方向を探しながら」
「時間がかかるな」
「かかります。一日では無理かもしれないです。何日か通って、少しずつやります」
「何日でもいい」とマリアは言った。「八十年待ったのだから、何日でも待てる」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは、私の方だ。来てくれただけで、もう十分だ」
ベルクが、岩を見た。
「人の手で動かすのは、無理か」
「三人でも、無理だと思います。でも、私が内側から少し動かした後に、人の手を使えば、動くかもしれないです」
「協力する」とベルクが言った。
「力仕事が得意ですか」
「得意ではないが、やる」
「カナさんとミアさんは」
「やります」とカナが言った。
「やります」とミアが言った。
シロが、岩を見た。
それから、私を見た。
一緒にやる、という顔だった。
「全員でやります。今日は、まず岩の状態を確認して、明日から始めます」
◇
帰り道、ベルクが言った。
「マリアのことを、記録に残す」
「そうしてください」
「八十年間、待っていた人間がいた。都は、忘れていた。それは、記録すべきことだ」
「そうですね」
「お前が来なければ、また忘れたままだった」
「ミアさんが、知らない人の話を聞くことが大事だと言っていました。そういうことですね」
ミアが、歩きながら記録帳に書いていた。
「マリアさんの話、全部書きました。沢のこと、岩のこと、八十年前のこと、待っていたこと」
「ありがとうございます」
「マリアさんは、都に戻れますか」とカナが言った。
「戻りたいかどうか、聞かなかったですね」
「聞いてみた方がいいかもしれません」
「そうですね。明日、聞いてみます」
ベルクが、山を振り返った。
「九十近い老人が、一人で山に住んでいた。都は、知らなかった」
「知らなかっただけで、悪意はなかったと思います」
「悪意がなくても、結果は同じだ。知らなかったことが、八十年間の放置につながった」
「そうですね」
「記録が大事だと、いつも思っていたが、今日ほど思ったことはない」とベルクは言った。「記録されなければ、マリアの存在も、沢の状態も、誰にも伝わらなかった」
「だから、ミアさんが今日、全部書いた」
「書きました」とミアが言った。「残ります」
春の山道を、下った。
夕日が、都の方向に沈んでいった。
明日、また来る。
岩を、少しずつ動かす。
何日かかっても、続ける。
その先に、水が流れる沢がある。
その先に、水が届く水路がある。
その先に、豊かになる農地がある。
「つながっていますね」と私は言った。
「つながっている」とベルクが言った。
「全部、つながっています」とカナが言った。
「記録します」とミアが言った。
シロが、尻尾を振った。
四十一話目、書きました。
マリアという老人のキャラクターを作りました。デルと似た構造ですが、デルは町に住んで話を持っていた人。マリアは、山に残って八十年間待っていた人。その違いが、都から忘れられた、という重さを作っています。
「やってみる、と言う者の方が、できると言い切る者より信用できる」というマリアの言葉。凪がずっとそういう言い方をしてきた理由が、ここで別の視点から語られました。
ベルクが「今日ほど記録が大事だと思ったことはない」と言った場面。ベルクという人物が、記録することへの信念を持っている人だと分かった場面でした。物静かで、書類の人に見えていたベルクが、実は記録の価値を深く信じている。
魔王の力の限界が、岩を動かす場面でも出てきます。一人では無理、一気にはできない、少しずつやる。力があっても、使い方が大事という展開が、次話で具体的に描かれます。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




