第三十八話「春が来た日、ルナが泣いた」
三十八話目です。
春が来ます。それと同時に、凪が動く時期が来ます。
別れの話です。ただし、別れには色々な形がある。悲しいだけの別れではなく、何かが確かに次に続いていく別れもある。
ルナが、この話で初めて、人前で泣きます。
では、どうぞ。
三月の初め、春が来た。
朝、外に出たら、梅に似た花が咲いていた。
白くて、小さな花だった。
昨日まで、蕾だった。
一夜で、咲いた。
「咲いた」とルナが言った。
「咲きましたね」
「この木、ずっと蕾だった。毎日、まだかなと思って見てた」
「咲きましたね」
「咲いた」
ルナが、もう一度言った。
それから、花を近くで見た。
「においがする」
「そうですね」
「甘い。でも、しつこくない」
「春の花の匂いですね」
「なんか、泣きたくなる」
「なぜですか」
「分からない。でも、この花を見てたら、泣きたくなった」
涙は出ていなかった。
でも、そういう顔をしていた。
「春になると、そういう気持ちになる人がいます」
「なんで」
「長い冬が終わって、何かが始まる感じがするから。それが嬉しいのか、惜しいのか、自分でもよく分からない。でも、何かが動く感じで、涙が出ることがある」
「ナギも、そういうことある?」
「あります」
「意外」
「そうですか」
「もっと、ずっと落ち着いてると思ってた」
「落ち着いているように見えますが、感じないわけじゃないです」
ルナが、また花を見た。
「この花、名前なんていうの」
「この世界での名前は、知らないです」
「じゃあ、名前つけていい?」
「どうぞ」
「春咲き、にする」
「そのままですね」
「そのままがいい。名前を見たら、すぐ分かる方が、いい」
「そうですね」
◇
その日の夕方、ガルが言った。
「春になりましたね」
「そうですね」
「ベルクさんから、返事が来ました」
「来ましたか」
「はい。少し早かったですね」
「ラグル族が速かったんでしょう」
ガルが、手紙を渡してくれた。
開いた。
ベルクの字だった。
几帳面な字で、内容が書いてあった。
読んだ。
都の農地で、土の硬さにムラがある問題が続いていること。カナが原因を探しているが、特定できていないこと。春になったら来てほしいこと。
あとは一行だけ、別のことが書いてあった。
都に、久しぶりにトウが来た。目が良くなったと喜んでいた、と。
「トウが来たそうです」と私は言った。
「トウというのは」
「都の市場にいた子です。眼鏡を作った子」
「ああ、その子が」
「元気そうで、良かったです」
ガルが、静かに頷いた。
「都に行きますか」
「行きます。来週あたりに出発しようかと思っています」
ガルが少し黙った。
「ルナに、話しましたか」
「まだです。今日、話そうと思っていました」
「そうですか」
「ガルさんも、一緒にいてもらえますか」
「分かりました」
◇
夜、食事が終わってから、ルナとガルと三人で話した。
「春になったので、アルドに行きます」と私は言った。
ルナが、少し止まった。
箸を持ったまま、止まった。
「いつ」
「来週」
「来週」
「そうです」
ルナが、箸を置いた。
「分かってた」とルナは言った。「春になったら、行くって言ってたから」
「そうでしたね」
「分かってたけど、来週は早い」
「早いですか」
「早い。もう少し後でいいじゃないか」
「農地の問題が、待っているので」
「それより、私の方が大事でしょ」
「ルナのことも、大事です」
「じゃあ、もう少し待って」
「ルナが大事だから、ちゃんと約束を守ります。ベルクさんに、春に行くと伝えました。守ります」
ルナが、また止まった。
「約束は守る人なんだよね、ナギは」
「そうです」
「だから、来週行く」
「そうです」
ルナが、少し俯いた。
何も言わなかった。
ガルが、ルナを見た。
私も、ルナを見た。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「また帰ってくる?」とルナは言った。俯いたまま言った。
「帰ってきます」
「ちゃんと言えた」
「言えました」
「帰ってくる、と言ったら、絶対帰ってくるんだよね」
「できる限りは、帰ってきます」
「できる限りじゃなくて、帰ってくる、にして」
「帰ってきます」
ルナが、顔を上げた。
目が、赤かった。
「泣いてる」と、ルナは自分で言った。
「そうですね」
「泣きたくなかった。我慢しようとした。でも、出てきた」
「泣いていいですよ」
「泣くのは、弱い感じがする」
「そうですか」
「ナギは、泣かないじゃないか」
「泣かないように見えますが、泣きたいことはあります」
「今は?」
少し考えた。
「今は、泣きたいかもしれないです」
ルナが、少し驚いた顔をした。
「ナギが?」
「ルナと別れるのは、惜しいです。それは、本当のことです」
ルナが、また俯いた。
「だったら、行かなくていい」
「行きます」
「矛盾してる」
「惜しくても、行きます。気になることがあるので」
ルナが、しばらく黙った。
それから、顔を上げた。
「分かった」と言った。涙が、頬にあった。「ナギは、そういう人だから」
「そうです」
「惜しくても、気になることを優先する人だから」
「そうです」
「でも、帰ってくる」
「帰ってきます」
ルナが、涙を手で拭いた。
「春咲き、咲いてる間に帰ってきて」
「来年の春咲きまでには、帰ってきます」
「来年か」とルナは言った。「長いな」
「長いですね」
「でも、待てる」とルナは言った。「待つの、得意になってきた」
「そうですか」
「精霊を、毎日待ってたから。最初は来ない日もあったけど、今は毎日来る。待ってたら、来てくれた」
「待つことで、来てくれた」
「そう。だから、ナギも、待ってたら来てくれる」
「来ます」
「よし」とルナは言った。「じゃあ、来週まで、一緒にいよう」
「そうしましょう」
ガルが、静かに言った。
「凪様、来週まで、できれば集落の外縁を一緒に歩いてほしいです」
「もちろんです」
「最後に、全部見ておきたいです」
「一緒に歩きます」
◇
来週まで、毎日歩いた。
朝、ルナと一緒に集落の周りを歩いた。
一本一本、木に触れた。
土を触った。
水の流れを確認した。
ルナも、同じことをした。
二人で、同じ木に触った。
「この木、ナギはどう感じる?」とルナが毎日聞いた。
「元気です」と毎日答えた。
「私は、こう感じる」とルナが毎日言った。
感じ方が、少しずつ違った。
でも、向いている方向は同じだった。
「ルナの感じ方と、私の感じ方は、少し違いますね」
「そうだよね。同じじゃないよね」
「でも、どちらも間違っていないと思います」
「どっちも正しいの?」
「自然の感じ方に、一つの正解はないと思います。ルナはルナの感じ方で、私は私の感じ方で、どちらも木を見ている」
「じゃあ、私が感じたことは、ちゃんとしてる」
「ちゃんとしています」
ルナが、木を見た。
「私が感じたことを、記録に書いてる。ナギの感じ方と、比べて読める記録になってる」
「そうですね。後で読み返したとき、面白いかもしれないです」
「面白いね。二人で同じ木を見て、感じ方が違う。でも、どちらも本当のことを書いてる」
「どちらも、木を見ていた証拠です」
◇
出発の前日、北の池に行った。
ルナと一緒に行った。
精霊が、水面で迎えてくれた。
「明日、出発します」と水面に向かって言った。
精霊が、水面を叩いた。
「ルナが、毎日来てくれます」
また叩いた。
「集落のこと、見ていてほしいです」
精霊が、光を強くした。
分かった、という感じだった。
ルナが、水に指を入れた。
精霊が、近づいてきた。
「ナギがいない間、ちゃんとそこにいてね」とルナが言った。
精霊が水面を叩いた。
「ルナが来るから、来てあげてね」
また叩いた。
「約束だよ」
また叩いた。
ルナが、指を抜いた。
「約束させた」と私に言った。
「そうですね」
「精霊と、ナギと、二つ約束させた」
「二つですか」
「精霊に、毎日来ること。ナギに、帰ってくること」
「そうですね」
「どちらも、来る約束」
「そうです」
ルナが、池を見た。
精霊が、水の中を泳いでいた。
「この池、きれいになったね」
「きれいになりましたね」
「来たときは、こんなじゃなかった」
「そうですね」
「でも、来たときを、私はよく覚えてない。最初から、きれいだった気がしてくる」
「人間の記憶は、上書きされることがあります。今の池の方が良くて、何度も見てきたから、今の姿に塗り替えられてきている」
「それって、いいことなの、悪いことなの」
「どちらでもあると思います。前の姿を忘れるのは、少し惜しい。でも、今の良い姿が自然に感じられるのは、良いことです」
「前の姿を忘れないためには」
「記録ですね」
「記録があれば、忘れない」
「あなたが書いた記録に、来たときの池の状態が書いてあります。読めば思い出せます」
ルナが、少し笑った。
「記録って、大事だね」
「大事です」
「だから、カナさんが記録係なんだね。だから、ミアさんも」
「そうですね」
「私も、記録係になれるかな」
「もうなっていると思います」
ルナが、また少し笑った。
「じゃあ、ナギが帰ってくるまで、ちゃんと記録する。ナギが来たとき、全部話せるように」
「楽しみにしています」
「全部話すから、覚悟して」
「覚悟します」
◇
出発の朝、集落の全員が見送りに来た。
二十三人が、集落の外まで出てきた。
シロが、先頭にいた。
クロとキョロが、私の足元にいた。
クロが、また体当たりしてきた。
「重い」
クロが低く鳴いた。
「また来ます」
ルナが、前に出た。
「ナギ」
「なんですか」
「これ、持って行って」
小さな布に包まれた、何かを渡してくれた。
開いた。
川に磨かれた石だった。
「レナさんが持たせてくれた石ですね」とシロに言った。
「違う」とルナが言った。「それは、レナさんのやつだよ。これは別」
よく見た。
確かに、違う石だった。
レナの石より、小さかった。
形が、少し丸かった。
「どこの石ですか」
「北の池で見つけた。池の底にあった」
「いつですか」
「ナギが来てすぐのころ。池がまだ濁ってたとき、見えた気がして、後で拾いに行った。ずっと持ってた」
「ずっと」
「うん。ナギが帰ってくるとき、渡そうと思って。ずっと持ってた」
「ありがとうございます」
「帰ってきたとき、返して。また返して」
「また返して」
「そう。ずっと、そのまま往復させる。ナギが行くとき私が持って、帰ってきたとき返して。また行くとき私が持って、また帰ってきたとき返して」
「往復する石ですね」
「ナギが帰ってくる証拠になる石だよ。この石を持ってる私のとこに、必ず帰ってくるから」
私は、その石を握った。
池の底にあった石だった。
水に磨かれた石だった。
「帰ってきます」
「帰ってこなかったら、許さない」
「許さないですね、絶対に」
「絶対に許さない」
ルナが、また目を赤くした。
今日は、我慢していた。
でも、限界そうだった。
「行ってきます」と私は言った。
「行ってらっしゃい」とガルが言った。
静かに、落ち着いた声で言った。
「行ってらっしゃい」とルナも言った。
声が、少し震えていた。
歩き始めた。
振り返らなかった。
振り返ったら、また話してしまう気がした。
シロが、先を歩いた。
森の道に入った。
木の間から、朝の光が差していた。
春咲きの花が、道の脇に咲いていた。
白くて、小さな花だった。
握った石が、手の中で温かかった。
池の底から来た石だった。
ルナがずっと持っていた石だった。
帰るための石だった。
「帰ります」と、声に出した。
誰もいない森に向かって、言った。
森が、静かに聞いていた。
シロが、耳を動かした。
聞こえてる、という顔だった。
「帰ります。必ず」
歩いた。
春の森を、歩いた。
三十八話目、書きました。
ルナが泣いた場面は、この物語の中で書くのが一番難しかった場面の一つでした。泣くことを「弱い感じがする」と言うルナと、「泣きたいかもしれない」と正直に言う凪。どちらも、感情を持っている。それを見せたかった場面です。
往復する石、というルナのアイデア。ナギが行くとき私が持って、帰ってきたとき返して。石が往復することで、帰ってくることが約束になる。子どもらしい発想ですが、とても力強い形の約束でした。
「振り返らなかった」という凪の行動。振り返ったら、また話してしまう。それが分かっていたから、振り返らなかった。感情はあるが、流されない凪の姿が、このひとつの行動で出ました。
第一部、第二部を通じて、凪とルナの関係がここまで育ちました。次の別れがあっても、この別れがあったから、また戻れる。
次話からは、アルドへの道と、都での新しい動きが始まります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




