92.受け取りの札
リオは走りながら笑いを飲み込んだ。
笑えば軽くなる。軽くなったものから狩りは始まる。
石畳が濡れている。夜明け前の泥が靴裏に噛む。
背中に、ミラの声がまだ残っている。
「欠けた角の印が、今日も同じ」
同じ。つまり、同じ手続きだ。
リオは裏道へ入った。通りの掲示板が見えた。紙が増えている。増えた紙は、人の目を増やす。
《閲覧記録 削除通知》
同じ字。濃い墨。欠けた角の印。
掲示板の前で、誰かが指を上げていた。
「ほら、削除だ。やっぱり死んだんだ」
「遺留品も出た」
「公爵家が隠したんだろ」
矛先が空を刺している。空を刺した指は、次に人を刺す。
リオは掲示板の前を通り抜けた。止まらない。止まれば、同じ紙を同じ角度で読むことになる。
角を変える。足で拾う。
公爵家の裏口へ回り、石段を二段飛ばしで上がった。
戸口で番の者が目を見開く。
「リオ、何だ」
「当主に、いま。紙が先に来てる」
通される。廊下の空気は乾いている。紙の匂いが薄い。ここはまだ、紙に食われていない。
帳場の扉の前で、リオは息を整えた。整えた瞬間に、別の息が聞こえた。
中にいる。
扉が開く。アークは机に手を置いていた。普段の顔だ。目だけが、先に紙を読んでいる。
ミラはいない。外にいる。現場を見ている。
「来たか」
「来た。移送の現場」
リオは言葉を短く削った。削るほど、残るものが重くなる。
「幌の中、音がした。生きてる音。でも、外に出たのは紙」
「削除通知?」
「それ。あと《保護対象 取消》、それから《遺留品》」
アークの指が、机の端を一度だけ叩いた。音が小さい。だけど順番を作る音だ。
「遺留品の管理は」
「宰相府。控えなし」
アークは頷かない。頷けば同意になる。
「印は」
「欠けてた。同じ欠け。ミラが見た」
アークの目が少しだけ細くなる。笑いではない。計算だ。
「……同じ手続きが、外で“死”を作っている」
リオは肩をすくめた。
「みんな、もう決め始めてるよ。誰が悪いか」
アークは机の上の配置札を見る。机の札は屋敷の中だけで使う。地図の代わりの配置札だ。
札の一つを、指で少しだけずらした。
「受け取りの札を作る」
「え」
「宰相府が遺留品を出した。なら、こちらは“受け取らない”を紙にする」
受け取らないを紙にする。リオは口の端が上がりそうになって、堪えた。
「受け取らないって、強い?」
「強い。受け取れば順番が向こうになる。受け取らない札を出せば、順番を止められる」
アークは引き出しから紙を出した。新しい紙ではない。古い紙だ。繊維が立っている。
「紙を新しくすると、向こうの紙と同じになる」
リオは頷きそうになって、やめた。
アークは印を押さない。押せば欠けで繋がる。繋がれば、同じ手になる。
代わりに、机の下から木札を一枚出した。薄い木。軽い札。現場印の類だ。
《受領拒否》
《控え要求》
木札の字は、わざと揃えない。人の手で書いた字だと分かるように。
「これを、どこに出す」
「役所の受け取り窓口だ。掲示板は狩りの場所。窓口は順番の場所」
順番。紙になる前に止める。
「リオ、運ぶ」
「はいはい」
リオは札を受け取らない。受け取った瞬間、こちらが順番を持つ。
だから、掌を開いたまま、札の端だけを指で挟んだ。落とさない程度。持ったと言われない程度。
「ミラには」
「現場から離れるな。結び目と靴跡を見てろ」
アークは最後に、紙束を一枚だけ抜いた。
《移送予定》
そこに、細い線で追記する。
《行き先 未記入》
未記入。空白の紙は、人を狂わせる。だからこそ、先に順番を取る。
リオが扉へ向かう背中に、アークの声が落ちる。
「見つけるな。作るな。順番だけ取れ」
リオは振り返らずに言った。
「任せて。足で拾う」
廊下を抜けるとき、外のざわめきが少しだけ大きくなった。
札が貼られ始めている。
リオは走った。受け取りの札を、順番の場所へ置きに行く。
置いた瞬間に、狩りの指が止まるか。
それとも、別の紙が上から降ってくるか。




