91.行き先のない札
ミラは縄の外で足を止めた。
胸の高さの縄と、膝の高さの縄。二本が通りを切っている。結び目に札が下がっていた。
《立入禁止(移送)》
《保護対象》
札の字は揃いすぎている。墨が濃い。書いた手が同じだ。
縄の向こうに馬車がいる。幌は下ろされ、車輪の泥がまだ濡れていた。夜明け前に来た。
腕章の男が二人、馬車の脇に立つ。宰相府の縫い目が新しい。
人が集まり始めていた。増えるほど、声が細くなる。
「北の線の……」
誰かが言いかけて、飲み込む。
ミラは結び目だけを見る。繊維の擦れ。縄の端の毛羽立ち。結び直した跡。
「結び直してる」
呟いた声は自分にしか届かない。
リオが遅れて来た。外套の裾を払って、いつもの軽い顔で覗き込む。
「ここ、通れないと困る人多いよ。配給の車も止まる」
「止めたいんでしょうね」
ミラは札の角を見る。
角の一つが、ほんの少しだけ欠けている。紙が欠けたのではない。印の形だ。
同じ欠けを、机の上でも見た。削除通知の紙でも見た。
ミラは喉の奥が乾くのを感じた。
馬車の幌の内側から、布が擦れる音がする。
生きている音。
でも、それを言葉にした瞬間、誰かの手が動く。
ミラは唇を閉じた。
腕章の男の一人が、縄の札を指で弾いた。
「近づかないでください。保護のためです」
その言い方が、札と同じだ。
ミラは縄の外から頭を下げた。丁寧に見える角度。逃げ道を作る角度。
「保護対象の札は、どの条文でここに出ていますか」
男の目が一瞬だけ細くなる。
「必要な手続きです」
「条文が出ないなら、札は掲示になりません」
男が言葉を探す間に、別の男が馬車の扉へ行った。鍵を回す音がした。
カタン。
扉が少し開いて、すぐ閉まる。
中を見せない動きだ。
見せないほど、周りは想像で埋まる。
人混みの奥で、声が上がった。
「死んでるんじゃないのか」
その声に、別の声が重なる。
「消されたんだ」
「公爵家が隠した」
「宰相府だろ」
指が上がる。視線が一つの方向へ寄っていく。
ミラは、指差しの先にアークがいないことを知っている。だからこそ、矛先は空を刺す。空を刺した指は、次に誰かを刺す。
リオが人混みに向けて、いつもの調子で言った。
「ねえ。死んだって、誰が見たの」
返事は出ない。
返事がないほど、紙が必要になる。
腕章の男が紙束を取り出した。薄い紙が何枚も重なっている。
一枚が掲げられる。
《閲覧記録 削除通知》
欠けた角の印。
人がざわつく。読める者が読む前に、読めない者が雰囲気で決める。
「削除だって」
「ほら、やっぱり」
ミラは紙の端を見る。紙が新しい。
作ったばかりだ。間に合うように。間に合わせるために。
男が続けて札を出す。
《保護対象 取消》
取り消す。
守っていない、という紙になる。
ミラの背中が冷える。
馬車の幌の中が、一瞬だけ静かになった。
布の音が止まる。
誰かが息を止めたのか、息が止まったのか。
ミラは数えない。数えたら、数が事実になる。
男が最後に小さな袋を掲げた。
布袋。口が紐で結ばれている。
《遺留品》
札は短い。短いほど強い。
袋の口の結び目は、急いで結んだ形だ。指が滑った跡がある。
ミラは結び目の癖を知っている。
セレナは、紐を結ぶとき、最後に一度だけ指で押さえる。ほどけないように。
その押さえの痕が、ここにある。
ミラは息を吸った。
言葉は出さない。
言葉を出した者が、次の札を呼ぶ。
ミラは縄の札から目を離さずに、男へ言った。
「遺留品は誰が管理します」
男が答える。
「宰相府です」
「控えは」
「ありません」
控えがない。後で揉めたときに、こちらが負ける。
ミラは頷いた。頷きは同意ではない。順番を取る合図だ。
「では、ここで受け取りの札を出してください」
男が眉を寄せる。
「あなたは誰です」
ミラは名を言わない。名は紙になる。
代わりに、足元の石畳を指でなぞった。
車輪の泥。靴跡。
靴跡が、馬車の踏み台で一度止まっている。
一人分。
揺れている跡だ。
ミラは指を戻した。
「あなたたちは、中を見せない。でも、外には出す」
「……」
「外に出したら、外の人は決めます」
男が紙束を胸に抱える。守る仕草だ。
守っているのは人ではない。紙だ。
ミラはリオにだけ聞こえる声で言った。
「アークに伝えて。欠けた角の印が、今日も同じ」
リオは笑いそうになって、笑わずに頷いた。
「了解。走る」
ミラは最後に、馬車の幌を見た。
音はしない。
でも、幌の内側に、布がわずかに押される形が残っている。
誰かが、そこにいる。
いるのに、行き先が紙から消えた。
ミラは縄の札を見た。
《保護対象》
その下に、男の手で新しい札が重ねられる。
《取消》
紙が重なる順番で、人の生死が決まっていく。




