行き先の札
広場の灯りは、夜明け前でも消えなかった。
火は、消えないほうがいい。
そう思ってる顔が並ぶ。
灯りがあると、人は「正しい側」に立っている気になれる。
ミラは群れの端を抜けた。
抜けるとき、背中に視線が刺さる。
「どこへ行く」
「何を知ってる」
言葉にならない疑いが、空気の温度だけを下げる。
振り向かない。
名を呼ばない。
ここで立ち止まったら、ミラの“物語”が始まってしまう。
路地へ入ると、紙の匂いが薄くなる。
代わりに、油と湿った木の匂いがする。
現場の匂いだ。
ミラは足を速めず、北の倉へ向かった。
“行き先”を隠す国では、行き先を知っているのは人じゃない。
物、札、鍵、そして音だ。
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北の倉は、朝に弱い。
朝は人が動く。
人が動けば、荷が動く。
荷が動けば、誰が触ったかが残る。
残るものは、紙にされる。
門の前には見張りがいた。
鎧の擦れる音。
だが視線は鋭くない。鋭くないふりをしている。
ミラは門を正面からは行かなかった。
荷車が通る脇道を回り、裏手の壁沿いへ出る。
そこに、男がいた。
整備士の制服。
袖は油で黒い。
立っているのに、膝が少しだけ震えている。
昨夜、壁に押しつけられていた身体だ。
男はミラを見るなり、言葉を削った声で言った。
「……セレナ様の部下か」
ミラは頷くだけで答える。
男が続けた。
「俺は……あの夜、逃がされた」
“逃がされた”と言うだけで、男の喉が痛そうに動く。
名を出せば紙になる。
名を伏せれば、生き残る。
ミラは距離を詰めずに言った。
「アーク様は?」
男の目が揺れる。
「……来た。夜明け前に。『倉を出るな』って言われた」
ミラは息をひとつだけ飲み込んだ。
当主が自分で来た。
それは救いでもあり、危うさでもある。
「港のこと、聞いたのね」
ミラが言うと、男は頷いた。
「音だけだ。馬車じゃない。鉄輪の重い音。……北じゃない方向へ曲がった」
男は一拍置き、声を落とした。
「港だと思う。港なら、荷が消える。名も消える」
ミラの背筋が硬くなる。
“保護”の札に行き先が書けない理由が、そこにある。
ミラは男の手元を見る。
男は、胸の内側から小さな札を出した。
刻みがある。
家の紋ではない。
役所の印でもない。
けれど、門番の目が一度だけ動く種類の刻みだ。
「……これ」
男が言う。
「白い仮面が渡した。『北の倉へ行け。門が開く』って」
ミラは札を受け取らない。
受け取ったら、持ち主になる。
持ち主になったら、紙にされる。
代わりに、札の刻みを目で覚えた。
「港の倉へ入る時も、これがいる?」
男は首を横に振った。
「港は……“札”より怖いものがいる」
「怖いもの?」
男は唇を噛む。
「紙だ。港には、紙が先にいる。荷より先に、紙が居座ってる」
ミラは理解した。
港にいるのは、役人だけじゃない。
新聞屋でもない。
“紙の役目をする人間”だ。
ミラは男に言った。
「ここから先は、あなたの仕事じゃない」
男が息を詰める。
「……でも、セレナ様は」
「だから」
ミラは言葉を切って、目を上げた。
「あなたは生きて。現場の口で、生きて」
男の目が揺れる。
揺れた目は、たいてい強い。
「……わかった」
男は頷いた。
「港は、北の道を下って西。朝の荷が動く前に行け。動き出したら、混じれない」
ミラは頷いた。
「ありがとう」
礼は短く。
長い礼は、繋がりになる。
繋がりは、紙にされる。
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港へ向かう道は、匂いが変わる。
魚の匂い。
濡れた縄。
湿った木箱。
そして、紙の匂い。
紙の匂いは、港にもある。
潮と油の間に、薄いインクが居座っている。
港の倉は高い塀に囲まれ、門が二つある。
表門は人が通る門。
裏は荷が通る門。
ミラは裏へ回った。
裏口の前には、木箱が積まれている。
積まれ方が綺麗すぎる。
綺麗すぎる積み方は、現場の癖じゃない。
“見せるための秩序”だ。
ミラは息を潜め、木箱の影に身を寄せた。
門の内側から、低い声が聞こえる。
「……署名は、取れるな」
別の声が返す。
「取らせます。抵抗するなら“保護”を強めるだけです」
“保護”。
耳に優しい言葉が、港の湿った空気の中で冷えて聞こえる。
ミラは一歩も動かず、聞く。
紙が作られている。
ここでは、誰かの人生が「一枚」で折られる。
木箱の隙間から、倉の中がわずかに見えた。
机がある。
椅子がある。
紙束がある。
そして――人影。
背筋がまっすぐな男が、紙の束の前に立っている。
役人の立ち方ではない。
現場の立ち方でもない。
整えた服。
汚れない指先。
“紙の側”の人間だ。
ミラは、その男の顔をまだ見ない。
見たら名が生まれる。
名が生まれたら、物語が始まる。
ミラは目を閉じた。
(港だ。ここに、セレナの時間がある)
時間を守る。
守るために、今は“見ない”。
ミラは静かに息を吐き、港の影の中へさらに溶けた。
――まずは、出入りの筋を掴む。
――紙より先に、紙の外へ回る。
そう決めた瞬間、倉の中で椅子が鳴った。
短い音。
誰かが立った。
ミラは身を固くする。
そして、港の風が一度だけ向きを変えた。
潮の匂いの中に、乾いたインクが濃く混じる。
ここから先は、紙の戦いだ。




