8.印の窪み
朝の市は、声より札が先に動く。
札の束が机に積まれ、帳面の線が引かれ、受け取る側の手が伸びる。
手が伸びる前に、誰かが目で数える。
その目が、列を決める。
俺は市の入口で、商会の印章をぶら下げた札屋の前を見ていた。
札屋は札を作る場所じゃない。
札屋は札を“揃える”場所だ。
揃えるために、窪みがある。
机の角に付いた小さな凹み。
印が押されるたびに深くなる窪み。
窪みは、手続きが積もった跡だ。
リオが隣で言う。
「ここ、いつもより早いな」
「早くしてる」
俺は答えた。
「今日、役所が遅れた。代わりに市で回す」
「役所を待たない札が増える」
リオが笑う。
「紙で紙を追い越すってやつか」
札屋の奥で、帳面を開く音がした。
帳面の紙は新しい。
でも、書き手の手は古い。
老いた手じゃない。
“慣れた手”だ。
慣れた手は、規則より早い。
俺は札屋の脇へ回った。
裏口は半分開いている。
半分開いているのは、閉める気がないからじゃない。
“出入りがある”からだ。
木箱が一つ、裏口の足元に置かれていた。
薄箱。
役所で見た薄箱と同じ厚み。
俺は箱に触れない。
触れた瞬間、それが証拠になる。
証拠は重い。
重いものは、相手を潜らせる。
俺は箱の横の床を見る。
粉が落ちている。
白い粉じゃない。
紙の粉。
封蝋を削った粉が混ざっている。
封蝋は、紙を閉じるための赤だ。
その赤が、ここに落ちている。
俺は小さく息を吐いた。
「やっぱり、ここで“揃えてる”」
リオが顔だけ動かす。
「揃えるって、印?」
「印と、帳面」
俺は言った。
「札を役所の札に見せるための机がある」
札屋の奥から、女の声がした。
「今日は三つ。印は二つ」
印が二つで札が三つ。
余る札は、誰かの手へ滑る。
その滑り方が“狩り”を作る。
俺は裏口から一歩引いた。
今ここで踏み込むと、狩りが止まる。
止めたいのは狩りじゃない。
狩りを作る机だ。
ミラが、通りの反対側から歩いてきた。
走らない。
でも、遅くない。
「役所の裏、紙の出入りが増えています」
「通報受付の札、また掛かりました」
ミラの声は短い。
短い声は、余計な感情を削る。
「戻った?」
俺が聞くと、ミラは首を振った。
「戻った“ふり”です」
「札の掛け方が変わりました。見せる向きが違う」
それで十分だ。
相手が隠し方を変えたなら、足が出る。
俺は札屋の机の角——印の窪みをもう一度見た。
窪みは浅い。
浅いのに、周りが黒い。
新しい印じゃない。
古い印を、最近また使い始めた黒さだ。
「……カイルが見た条文の穴、ここに繋がる」
俺が呟くと、リオが眉を上げる。
「宰相府の監査のやつか」
「条文は机の上にある」
俺は言った。
「机が変わらない限り、条文は何度でも悪用される」
ミラが小さく頷いた。
「机を取りますか」
「取る」
俺は即答しない。
即答は、白仮面の仕事だ。
素の俺は、順番を見る。
「取る。だけど今日は取らない」
「今日は、机の脚を一本拾う」
リオが笑った。
「脚、何本あるんだよ」
「折れるまで」
俺は言った。
折れるまで拾う。
拾い続ければ、いつか机は立てなくなる。
札屋の奥で、印が押される音がした。
紙が鳴く音。
その音は小さいのに、市の人の足を動かす。
俺はその音を背にして、通りへ出た。
次に見るべきは、札屋じゃない。
札屋へ札を持ち込む者の足だ。
足が行く先に、机がある。




