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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

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77.板札の行き先



役所の中でいちばん危ないのは、帳面の前じゃない。


帳面の手前で順番を決める机だ。

そこを見られたと気づかれた瞬間、相手は紙の置き方ごと変える。

アークは役所裏の荷入れ口で、板札だけを運ぶ小さな盆を待っていた。


朝の鐘から半刻。

窓口はもう回り始めている。


表ではリオが“港の再確認”の話をまだ引っぱっている。

長くは持たない。

だから、そのあいだに取る。


ミラが柱の陰から戻ってきた。


「旧記録庫の脇口、さっきの若い文官が二度出ました」

「灰紐の束は中です」

「でも、板札だけ先に一枚、別の盆に移してます」


アークは頷く。


「運んだのは」


「女です」

「昨日の年配の人とは別。中庭側の袖章でした」


中庭側。


役所の表窓口でも、旧記録庫でもない。

部署をまたぐ紙を通す連中の袖章だ。


アークの目が細くなる。


「板札は記録庫で終わってないな」


リオが反対側から合流して、小声で笑う。


「表はそろそろ限界」

「赤点の話、出し直し始めた」

「次の一声で切り替わる」


言いながらも、目は笑っていない。


「で、俺は何を切る」


アークは役所の中庭へ続く渡り廊下を見た。


「切らない」

「一回だけ詰まらせる」


リオの口角が上がる。


「好きだね、その言い方」


アークは短く返す。


「詰まり方で、通す机が出る」


ミラが先に動いた。


「中庭の水場に行きます」

「盆を持つ手は、濡れた床を嫌がります」


アークは目だけで返す。

いい取り方だ。


リオには短く言う。


「お前は表へ戻れ」

「切り替えの一声を半刻だけ遅らせろ」


「別件は?」


「搬入札じゃない」

「今日は“窓口の並べ替え”で引け」


リオは鼻で笑った。


「人は順番の話が好きだ」

「了解」


二人が散る。


アークは荷入れ口の木箱の影へ位置をずらした。

見張りの目線は通るが、顔までは残らない角度だ。


ほどなくして、盆を持った女が出る。


地味な衣。

袖の内側にだけ、中庭側の細い縫い印。

盆の上に紙はない。

薄い板札が三枚。紐色の札と、刻みのない札、それから黒い札。


アークの呼吸が浅くなる。


黒い札まで混ざっている。


屋敷内の進行札に似ているだけかもしれない。

だが、役所の机で同じ色を使う意味は重い。


女は渡り廊下をまっすぐ行かない。

中庭の水場の手前で一度だけ足を止め、盆を持ち替える。


床が濡れていた。


ミラが置いた水だ。


女が舌打ちして、端の乾いた板の上へ回る。

その回り方で、進行先の角度が変わる。

正面の照合机ではなく、横の小部屋の方へ盆を向けた。


アークの目が動く。


小部屋の戸口には札がない。

名のない部屋だ。

だからこそ、役所の中ではいちばん見えにくい。


女が入る直前、中から男の声が漏れた。


「先に板を」

「紙はあとでいい」


アークの指が白手袋の端を押さえる。


紙より先に板札。


やはりここだ。


次の瞬間、中庭側の通路で誰かが大きく声を上げた。


「窓口札、順番違うぞ!」


リオだ。


わざとらしすぎない大きさ。

でも、役所中の耳が一度だけ動く声量だ。


盆の女が反射で振り向く。

小部屋の戸口で一拍止まる。


中の男が苛立って言う。


「入れろ。外を見るな」


短い命令だった。

命令を出す側の声だ。


女は小部屋へ入る。

戸が閉まる。


アークはすぐには寄らない。

寄れば線が立つ。


代わりに、閉まる直前に見えた盆の端を頭の中で並べ直す。

刻みなし。

灰紐札。

黒札。


その順だった。


ミラが水場の向こうから戻る。

顔を上げずに、すれ違いざまに落とす声で言う。


「中の机、二人です」

「書く音ひとつ、印を押す音ひとつ」


アークは歩幅を変えずに答える。


「聞こえた文は」


「短く三つ」

「『仮通し』」

「『朝便へ回す』」

「『名はあと』」


その三つで十分だった。


アークの中で、昨夜からの線が一本に寄る。


旧記録庫で帳面を直す。

板札で順番を渡す。

小部屋で仮通しにして朝便へ回す。

名はあとで埋める。


人を消すんじゃない。

先に、“いない扱いで動く朝”を通している。


リオの声がもう一度、今度は少し遠くで上がる。


「だから先に並べるなって言ってるだろ!」


うまい。

怒鳴り合いにしない。

文句の形で場を持たせている。


アークは中庭の角を回り、別棟へ抜けるふりで小部屋の裏手を取った。

裏窓は高い。

覗けない。

だが、下の通気口から紙の擦れる音は拾える。


紙の束をめくる音。

板札を置く硬い音。

小さな印判の乾いた音。


続けて、男の声。


「北線は黒で置け」

「戻し先は空欄で回す」


アークの足が止まる。


黒で置け。

戻し先は空欄で回す。


胸の奥で何かが一段冷える。

《未戻》を処理印寄りへ寄せていた机の、その先の言葉だった。


ミラも同じ声を拾いたい距離まで寄ってきたが、アークは手だけで止めた。

近い。

ここで二人分の気配は残せない。


そのとき、小部屋の戸が開く音がした。


アークとミラは同時に離れる。

走らない。

別の仕事で通っている顔に戻る。


出てきたのは盆の女ではなく、若い文官だった。

旧記録庫の脇口にいた男だ。


手には紙がない。

板札もない。


代わりに、袖の内側に黒い墨が一筋ついていた。


リオが言っていた“顔の仕事”じゃない。

これは手の仕事だ。


若い文官は中庭を横切り、役所前の窓口棟へ向かう。

歩幅は急がない。

だが、もう迷いがない。


アークはミラにだけ聞こえる声で言った。


「繋がった」


ミラの喉が小さく動く。


「旧記録庫じゃなく……通す机」


アークは頷く。


「記録の改ざんだけじゃない」

「朝の運用そのものを先に通してる」


小部屋の中で、また印が鳴る。

短く、乾いた音。


誰かの名前が書かれたからじゃない。

まだ名はあとだ。


なのに、その人間を前提にした朝だけが先に進む。


アークは役所の窓口棟を見る。

表では人が列を作り、札を見て、順番を待っている。

誰も中庭の名のない小部屋を見ない。


見えない机で、

見えない朝が先に作られている。


リオが少し遅れて合流し、低く笑った。


「二声、引っぱった」

「で、取れた顔してるな」


アークは答えず、中庭の方へ顎を引く。


「次はあそこを開ける」


リオの笑いが止まる。


「名のない部屋か」


ミラが小さく言う。


「開けるなら、朝じゃだめです」

「印の音が止まる刻を見ないと、中身を消されます」


アークはミラを見る。

その拾い方は正しい。


「今夜、止まる刻を取る」


役所の鐘が鳴る。

昼へ寄る前の短い合図だ。


小部屋の戸口には札がない。

けれど、アークにはもう見えていた。


あれはただの部屋じゃない。

名前を後回しにして、人を先に朝へ送る机の口だ。

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