7.行き先
夜明け前の街は、音が少ない。
少ないのに、目だけが多い。
灯りの残る窓。戸の隙間。曲がり角。掲示板の影。
誰もが見ている。誰もが見られている。
俺は屋敷の裏口から出た。
外套の襟を立て、歩幅を揃える。
急げば目立つ。遅ければ追いつかれる。
この国では、速さより“自然さ”が強い。
路地を二つ曲がったところで、紙売りの少年がまだ立っていた。
昨日の号外の残りを束ねている。
指先が黒い。インクは落ちない。落ちないから、罪みたいに残る。
「公爵さ——」
少年が呼びかけかけて、飲み込んだ。
俺が顔を上げないからだ。
顔を上げれば、物語が始まる。
物語が始まれば、名が走る。
俺は少年の手元を見る。
束の一番上にある見出しは、もう違っていた。
——白い仮面、協力者を救出
——宰相府、秩序維持を強化
同じ夜を、違う紙が違う朝に変える。
少年の横を通り過ぎるとき、俺は小銭を一枚だけ落とした。
買わない。買わないが、渡す。
この差は小さいが大きい。
少年は拾って何も言わなかった。
言わないのが、いま一番賢い。
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北の倉は、街の端にあった。
人が集まる場所じゃない。物が集まる場所だ。
物が集まる場所には、いつだって権力が集まる。
門番が立っている。鎧の擦れる音。
だが目線は鋭くない。鋭くないふりをしている。
俺は門の影で立ち止まり、視線だけで探す。
――整備士。
昨夜、白仮面が逃がした男。
そして、セレナが現場で何度も声をかけてきた相手。
『あなたの手は、嘘をつかない。だから残して』
あの言い方を、現場の人間は忘れない。
いた。
倉の壁際に、背を丸めて座っている。
油の匂いが服に染みついている。顔色はまだ青いが、目は生きていた。
門番が俺に気づき、近づこうとする。
その瞬間、整備士が立ち上がった。
手に小さな札を握っている。刻みのある札。家紋に似て、違う形。
門番が札を見る。
目が一度だけ動く。
そして、何も言わずに道を開けた。
俺は一歩、倉の中へ入る。
空気が冷たい。紙より冷たい。
ここは嘘より先に、物が黙らせる。
整備士が俺へ頭を下げようとして、止まった。
下げたら終わる。下げたら“誰か”になる。
俺は首を振る。
「名を言うな」
整備士が唾を飲む。
「……はい」
「昨夜のことは、誰にも言うな」
「……言えません。言ったら——」
「分かってる」
俺は言葉を切る。
「セレナは?」
整備士の目が揺れた。
揺れ方が、悪い。
「……連れて行かれました。信号小屋から、宰相府の腕章が。俺は、追えなかった」
「どっちへ」
整備士は首を横に振る。
「見えませんでした。……でも、音だけは」
「音?」
整備士は息を吸って吐く。
「鉄輪の音です。馬車じゃない。石畳を急いで走る、重い音」
「それが、北じゃない方向へ曲がりました。……港のほうです」
港。
物が出入りする場所。名が消える場所。
行き先が書けなくなる場所。
胸の奥が冷たく固まる。
「……他に見たものは」
整備士は震えた声で言った。
「“保護”の紙が、先に貼られてました」
先に。
連れて行く前に、紙が完成している。
――紙が現実を追うんじゃない。
――現実が紙に合わせて動かされる。
俺は一度だけ目を閉じた。
「……分かった。戻れ。倉を出るな。目立つな」
整備士が頷く。
「……ありがとうございます」
礼は言わせない。礼は名に繋がる。
俺は背を向けた。
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屋敷へ戻ると、執事が待っていた。
「旦那様。ミラが、戻っております」
「……通せ」
小さな客間。
ミラは立っていた。座らない。座ったら崩れるからだ。
目の下に薄い影がある。泣いてはいない。泣く暇がない。
「ミラ」
俺が呼ぶと、ミラは一度だけ頭を下げた。
「申し訳ありません。……セレナの行き先が、掴めません」
「掴めないようにされてる」
俺は言った。
「だが、音が残る。港だ」
ミラの目が上がる。
「……港」
俺は頷いた。
「港の倉が、息をしてる。お前はそこを見ろ」
「中へ入るな。名を出すな。紙に食われる」
ミラが唇を噛み、頷いた。
「……はい」
俺は続けた。
「それと、頼む。街の現場の口を守れ」
「一つの言い方に、街が揃う前に散らせ」
ミラが息を呑む。
「……散らす?」
俺は、映像が出る言葉に替えた。
「掲示板の前で、同じ台詞が増えると危ない」
「“あいつが悪い”が一色になると、止まらない」
「揃った瞬間、人は考えなくなる」
「紙が差し出す“真実”を、疑わなくなる」
「そして、無罪の誰かを原因にする」
ミラの目が揺れた。理解した揺れだ。
「……分かりました。少しずつ、言い方を変えて伝えます」
「それでいい」
俺は立ち上がる。
「ミラ。最後に一つだけ」
ミラが見上げる。
ここで「俺が動く」と言えば、ミラは安心する。
安心は油断になる。油断は死ぬ。
だから、安心は渡さない。
「……セレナは、生きてる」
根拠はない。
だが根拠のない言葉が、人を支える夜もある。
ミラが一度だけ目を伏せ、頷いた。
「……はい」
ミラが部屋を出る。扉が閉まる。
俺は書庫へ向かった。
箱の前に立つ。
蓋に指を置く。冷たい。
昨夜、開けた。昨夜、被った。
その結果、紙はもう「白い仮面」という見出しを作った。
次に同じことをすれば、また“人物”として使われる。
救った、と書かれ、煽った、と書かれ、どこかで狩りの燃料にされる。
だから――次は、違う。
俺は息を吸う。
次に仮面を被るとき、
俺は“誰かを救う”ためだけに出ない。
紙が走る道の、根を折るために出る。
指を離す。
まだ、今じゃない。
だが、もう戻れない。




