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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

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66.南の坂下の名簿



昼の紙が回ったあとの街は、妙に静かだ。


騒ぎが終わったからじゃない。

言うべきことを言い終えた人間が、次の場所へ散ったあとの静けさだ。


ミラは南の坂へ下る手前で、立ち止まらずに息だけ整えた。

追うのは声を上げた男じゃない。男が受け取った“次”の線だ。


昼の港前で、最初に声を置いた男は、掲示板の前を離れたあとも急がなかった。


懐には三日の通行札。

顔には何も出さない。

でも歩き方だけが、次の用事に間に合わせる歩き方だった。


ミラは通りの反対側を、荷運びの女の後ろに半歩ついて歩く。

ひとりで目立つより、人の流れに縫われるほうが消える。


男は乾物屋の前を通り過ぎる。

今朝リオが見た店だ。

戸口の年配の女は、男を見ない。見ないまま、桶の位置だけを変えた。


合図だ。


男はそのまま坂を下った。


南の坂下は、表通りの店が切れた先に、倉と作業場が混じる。

木工、油、古布、壊れた荷車の修繕。

“どこに何があってもおかしくない”顔の場所だ。


そういう場所は、隠す側に都合がいい。


男は坂下の角で一度だけ足を止め、靴先で石を鳴らした。

乾いた、小さい音。


すぐに、通りの端の商家の戸が半分だけ開く。


看板は古布問屋。

店先には干した麻布。昼の風に揺れている。

客が入っても不自然じゃない。荷が出入りしても不自然じゃない。


男は布を見ずに、中へ入った。


ミラはそのまま通り過ぎる。

通り過ぎながら、店の中を一度だけ見る。


表の間には古布の束がある。

だが、土間の奥に見えた木箱は薄い。

布を入れる厚みじゃない。紙束や札を運ぶ箱の厚みだ。


――当たり。


角を曲がってから、ミラは歩幅を落とした。

坂下の裏へ回る道は狭い。走れば音が跳ねる。


裏手には井戸と、使っていない荷台、割れた甕。

それから、帳場に使っていたらしい小窓が一つある。

木枠は古いが、蝶番だけ新しい。


最近、直した窓だ。


ミラは窓に寄らない。

まず人の数を取る。


裏口から入ったのは、さっきの男で一人。

少し遅れて、乾物屋の使いらしい若い女が小袋を持って一人。

さらに役所の若い文官が一人。右足が少し外へ逃げる歩き方。


三人。


中から出てきたのは、古布問屋の店主に見える男ひとりだけ。

客を迎える声はしない。戸の開け閉めも短い。


ミラは壁沿いにしゃがみ、戸の下の隙間を見た。

影が多い。


四人分。


入った三人と店主で四人。合う。

だが、そのあとすぐ、別の影が動いた。


杖の先みたいな細い影。

歩幅が小さい。

座っていた人間が立った影だ。


五人目。


ミラの目が細くなる。


表から五人目は入っていない。

最初から中にいた。


隠しているのは人だけじゃない。

常駐の机だ。


中で紙の擦れる音がした。

帳面をめくる、厚い音。

一枚二枚じゃない。束を指で送る音だ。


男の声が低く漏れる。

港前で最初に声を上げていた男だ。


「昼は役所前へ戻った」

「港の分は、赤点一で足りた」


別の声。乾物屋の女の声。


「北は三日札でまだ持つよ」

「明朝までなら、口は回る」


ミラは指先を膝へ押しつける。

言葉を刻むための癖だ。


港。赤点。三日札。

別々に拾ってきた線が、同じ部屋で喋っている。


そのとき、乾いた声がした。


若くも老いてもいない、喉を使わない声。

前に札屋の裏で聞いた、帳場の声と同じ種類だ。


「南の出入り、名簿に合わせろ」

「今日の分、二を一にする」


ミラの背中が冷える。


二を一にする。


人の話か、箱の話か、札の話か。

この部屋では、その区別が曖昧なまま通る。


文官が小さく言う。


「役所側の控えは?」


乾いた声が返す。


「こっちで持つ」

「剥がし紙に残るのは構わん」

「欄が埋まっていれば通る」


剥がし紙。

役所前で剥がされた紙の束のことだ。


ミラは呼吸を浅く保ったまま、目を上げた。

小窓の木枠、その隙間から灯りが線になっている。


覗ける角度ではない。

でも、机の端が見える。


見えたのは帳面そのものじゃない。

帳面の端に挟まれた、控え紙の切れ端だった。


時刻欄。

通り名の略記。

確認欄の横線。


ほんの一瞬だけ、紙をめくる手が止まる。

切れ端の上端が跳ねる。


ミラの目が止まった。


横線の引き方が、妙にまっすぐだ。

定規で引いたみたいに見えるのに、最後だけ少し右上へ逃がしてある。

時刻欄の詰め方も同じだ。数字の前に半字空ける癖。


見覚えがある。


セレナの部署で回っていた整理票だ。

本人の字じゃない。字じゃないが、書式の作り方が似ている。


“読み違えを減らすために最後を逃がす”

セレナが昔、帳場の若手に言っていたやり方だ。


ミラは目を閉じない。

閉じると、その一瞬が願望になるからだ。


――本人じゃない。

――でも、関係のない机の癖でもない。


中で椅子が引かれた。


「じゃあ次、坂上の札屋へ戻す」

乾いた声が言う。

「明朝は北を先に不安へ寄せる」

「港は遅れだけ置け。名はまだ出すな」


港の男が鼻で笑う。


「分かってる。名を出すのは最後だ」


その言い方に、ミラの喉が固くなる。


“名を出すのは最後”。


それは狩りの順番だ。

先に不安を置く。

次に窓口を置く。

最後に名前を置く。


セレナのときと、同じ順番。


裏口の外に影が差した。

見張りだ。


昼の見張りとは違う。肩幅の広い男。

歩幅が一定で、止まる場所を知っている足だ。


ミラは窓から離れない。

離れると靴音が出る。

先に体重を壁へ移し、布の擦れる場所だけずらす。


見張りの男は裏手を一周し、小窓の前で足を止めた。


ミラは視線を落とす。

見られるなら、顔より先に“何者でもない姿勢”を置く。


男の影が近づく。


そのとき、通りの方で甲高い声が上がった。


「おい、そっちの荷台、坂道に出すなって言ったろ!」


怒鳴ったのは荷車修繕の職人らしい。

続いて、木の車輪が石にぶつかる大きな音。


見張りの男が舌打ちする。


「またかよ……」


影が離れる。

裏手の戸が内側から叩かれ、誰かが「表見ろ」と小声で言った。


男は裏口から外れ、通り側へ回った。


ミラは三つ数えてから、壁沿いに下がる。

立ち上がらない。

狭い裏は、立つ高さのほうが目立つ。


角まで戻ってから、ようやく息を吐いた。


胸の中で言葉を並べる。


古布問屋。

表向き古布、奥は薄箱。

常駐の机。

二を一にする。

剥がし紙で通す。

欄が埋まっていれば通る。

書式の癖がセレナの部署に近い。


多い。

でも、持ち帰るべき順番は決まっている。


まず建物。

次に人数。

次に名簿の処理。

最後に、書式の癖。


ミラは通りへ戻った。

急がない。急ぐと“見た人間”の足になる。


坂を上がる途中、役所前へ向かう人波の中にリオを見つけた。

向こうも気づいたが、手は上げない。

視線だけで「拾ったか」と聞いてくる。


ミラは頷かず、歩幅だけ一度変えた。

“話すものがある”の合図だ。


屋敷の帳場に戻ると、アークは立ったまま待っていた。

机の上には木札が並んでいる。


《港前》

《役所前》

《南札屋》


その南側に、まだ何も書いていない札が一枚。


アークはミラの顔を見て、最初に問う。


「建物か」


ミラは結論から言った。


「南の坂下、古布問屋です」

「表は古布。奥に薄箱。常駐の机がいます」


リオが壁から離れる。


「常駐?」


ミラは頷く。


「表から入った人数は四。中の影は五」

「最初から一人、机に座ってました」


アークの目が細くなる。

札の空白に指を置く。


「名簿は」


「あります」

ミラは言い切る。

「“二を一にする”って指示が出てました」

「役所の剥がし紙に残っても、欄が埋まっていれば通る、と」


リオの笑いが消える。


「……やっぱり、数を合わせる側か」


ミラは続ける。

ここで切ると、いちばん重い部分が埋もれる。


「あと、帳面に挟んでた控え紙の書式が」

一拍置く。

願望に聞こえないように、言い方を選ぶ。

「セレナ様の部署で使っていた整理票の癖に近いです」


部屋が静かになる。


アークはすぐに口を開かなかった。

否定もしない。飛びつきもしない。


それから、低く聞く。


「本人の字か」


「違います」

ミラは即答した。

「字は見えてません。書式の作り方です」

「時刻欄の詰め方と、確認欄の横線の逃がし方が似てました」


アークの指先が、空白札を押さえる力だけ少し強くなる。


リオが先に息を吐いた。


「本人じゃなくても、同じ机の癖は残る、か」


アークはその言葉にだけ頷いた。


「十分だ」


短いが、重い返事だった。


アークは空白札に墨で書く。


《坂下古布問屋》


その下に、もう一行だけ足した。


《名簿照合》


墨が乾く前に、リオが問う。


「今夜、入るか?」


アークは首を振る。


「まだ入らない」


リオが舌で奥歯を押す。

反発の癖だ。

でも口にはしない。ミラの持ち帰った情報の重さが分かる顔だった。


アークは木札を並べ替える。

港前、役所前、南札屋、坂下古布問屋。

線ではなく、順番で置く。


「ここで入ると、名簿が消える」

「先に、役所側のどの控えと繋がってるかを取る」


ミラがすぐに言う。


「剥がし紙の束」


「それと捨て控えだ」

アークは返した。

「今日“欄が埋まっていれば通る”と言ったなら、埋めた跡が役所側に残る」


リオが口の端を上げる。

軽く見せる笑いだが、目は鋭い。


「紙のゴミ山、宝の山ってわけだ」


アークはミラを見る。


「書式の件は、まだ広げるな」


確認じゃない。守るための言い方だった。


ミラは頷く。


「はい。匂いの段階です」


アークの目元が、ほんの少しだけ緩む。


「それでいい」


外で夕方の鐘が鳴る。

昼に置かれた声が、夜の帳面へ片づけられていく時間の音だ。


アークは机の札を見たまま言う。


「明日は役所の裏だ」

「人を追わない。捨てられる紙を追う」


リオが肩を回す。


「地味だな」


「だから残る」

アークは短く返す。

「目立つ紙は、見せるための紙だ」


ミラは灯りの下の木札を見る。


《坂下古布問屋》

《名簿照合》


そこにまだ、セレナの名はない。

ないのに、いない人の仕事の癖だけが先に机へ戻ってきた。


それが、胸に刺さる。


死んだとも、生きているとも言えない。

でも、消した側の手順だけは、はっきり見える。


ミラは視線を上げた。


次に取るべきは、祈りじゃない。

欄だ。


欄を埋めた手を、順番ごと持ち帰る。


そのための夜が、もう始まっていた。

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