64.最初の声
朝の役所前は、いつも少しだけ早い。
市場より先に扉が開く。役人が表を出し、木の台を拭き、掲示板の古い紙を剥がす。剥がされた紙は丸められて脇へ積まれる。読まれた紙は早い。捨てられるのも早い。
アークは石柱の陰に立ち、広場を見ていた。
白仮面は付けていない。ここはまだ、街の目を拾う場所だ。拾うのは怒りじゃない。怒りの順番だ。
列は短い。短いのに、口が先に動く。
「また通報だってさ」
「配給は?」
「遅い」
遅い、という言葉が先に出る。生活の言葉が先に出るうちは、まだ戻せる。
窓口札が掛けられる。
《配給相談》
次に《通報受付》。
順番は昨日と同じ。だから今日は、札で寄せる。
補助役が木盆を持ってくる。盆の端に、角の色が違う札が一枚混ざっている。赤点。目を凝らさなくても分かる赤だ。分かるのに、列は黙る。黙るのは、見ないふりが上手になっているからだ。
ミラが裏手から現れ、アークの横へ並ぶ。
「薄箱が一つ、戻っていません」
「役所の中に残ってる?」
「はい。奥棟です。旧記録庫の方へ」
旧記録庫。役所の“紙の底”だ。底に入る紙は、表に出た紙より強い。
リオが軒下から出てきて、盆の持ち手だけ見る。
「赤点、予備がある」
「盆の底?」
「底だ。もう一枚隠してる」
隠す札が増えたなら、机が焦っている。
アークは列へ入らない。列の真ん中で声を上げるのは、白仮面の仕事だ。素の自分がここで前に出ると、主役が自分になる。主役にするべきは、列の目だ。
窓口の文官が、赤点の札を確認しようとして止まる。止まる瞬間に、列の視線が一斉に集まる。視線が集まる先が、通報じゃなく札になった。それだけで今日は一本取れる。
アークは石柱の影へ戻り、扉の奥を見る。
扉の奥で、紙が走る音がした。足音じゃない。紙束を抱えて走る音だ。
「来た」
リオが言う。
奥棟から、使いが出てきた。薄箱は持っていない。代わりに、巻いた紙を一本だけ抱えている。
切り替えの紙。
条例の附則。運用指示。名目だけ変えて順番だけ変える紙。
アークは即座に言う。
「追うな」
「行き先だけ拾え」
リオが笑わない顔で頷き、人の流れへ溶けた。
ミラが窓口札を見る。
《通報受付》がいったん外された。外された瞬間、列の誰かが小さく息を漏らす。笑いじゃない。肩の力が抜けた音だ。
アークはその音を聞いて、目を細める。
順番は戻せる。
戻せるうちに、机へ手を伸ばす。
今日、拾うべきは赤点じゃない。赤点を作る机へ繋がる足だ。
ミラが言う。
「旧記録庫、鍵が増えています。腕章が二つ」
「役所の腕章じゃない?」
「宰相府の腕章です」
宰相府。
紙の正しさを配るところ。
アークは息を吐いた。
「……外の机を折る前に、内側の机が動き始めた」
ミラが頷く。
「黒点の門、近いです」
黒点。
門。
でも今は触れない。門に触れると閉じる。閉じたらセレナの線が遠のく。
アークは石柱から離れ、扉の奥へ向かう足を見た。
足がどこへ行くか。
それが机を教える。
「行く」
アークは言った。
「旧記録庫の前まで。見るだけでいい」
見るだけで、足は変わる。
足が変われば、机は浮く。
浮いた机から、札が落ちる。
落ちた札を拾えば、次の順番が取れる。
今日止めたのは列じゃない。
机へ続く一本の脚だ。




