表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

63/157

63.細路地の朝、名前の前



南の細路地は、朝の匂いが先に立つ。


まだ日が上がり切っていないのに、焼けた粉の匂いだけが角を曲がってくる。パン屋が火を入れた匂いだ。けれど、火の強さに対して人の声が少ない。いつもの朝なら、仕込みの音と怒鳴り声がもう混ざる時間だった。


リオは歩幅を落とさず、通り過ぎる人間の顔で路地へ入った。


立ち止まらない。

見るのは横目。

数えるのは頭の中。


アークに言われた通りだ。


菓子屋の裏手を抜けると、問題のパン屋が見える。表の看板は閉じたまま。なのに裏口は半分だけ開いていた。粉袋が積まれている。多い。多すぎる。朝の仕込みの量じゃない。


リオは通り過ぎるふりで一度だけ視線を滑らせる。


男が三人。

一人は搬入口の脇で見張り。靴が新しい。

一人は中で袋を動かしている。手つきが慣れていない。重さの持ち方が雑だ。

もう一人は奥。姿ははっきり見えないが、指だけが見える。束を受けるたび、角を揃えてから次へ渡している。


ただ運ぶ人間の手じゃない。


リオは路地を抜け、そのまま角を曲がった。そこで初めて息を吐く。


「……いるな」


小さく呟いたところで、向かいの物陰からミラが出た。顔は伏せたまま、声だけ寄せる。


「裏口からまだ出てない」


「中は三人。奥に一人、手が違う」


ミラがすぐに返す。


「こっちは二人増えた。路地の入口に客のふり。さっき来た」


リオは舌で奥歯を押した。思ったより早い。

相手も見られている前提で動いている。


「アークは?」


「もう来る」


言い終わる前に、足音がひとつだけ近づいた。

急がない足音。目立たない速さで、必要なだけ進む足音だ。


アークが角を曲がってきた。白手袋。仮面なし。外套の裾も、通りの人間に紛れる長さにしてある。


アークは二人の顔を見て、まずミラに聞く。


「出入り」


「紙束はまだ出ていません。粉袋だけ二つ、中へ。客のふりの男が路地入口に二人、増えました」


次にリオへ目を向ける。


「中」


リオは見た順で言う。


「三人見えた。見張り一、運び一、奥に一。奥のやつは束の角を揃えてから渡してる。運び手じゃない」


アークの目が少しだけ細くなる。


「束の向きで数を合わせてる」


リオが肩をすくめる。


「たぶん。見えたのは指だけだが、癖がある」


アークは路地を覗かない。覗けば相手に合図になるからだ。

代わりに壁際へ半歩寄り、通りの流れを見た。


「ここで押さえると散る」


ミラが小さく頷く。


「追うなら、出るのを待つ」


アークはそのまま言った。


「違う。今日は追わない」


リオが眉を上げる。


「は?」


アークは短く説明する。


「ここは中継だ。ここで一束取っても、明日の紙は止まらない。欲しいのは受け取り先の名前だ」


ミラが息を止める。

“名前”という言葉の重さを、この数か月で覚えた顔だった。


リオは口の端を上げた。


「名前を載せる前に、載せる手を掴む。昨日の続きか」


アークは頷いた。


「そうだ」


そのとき、路地の中で木箱の擦れる音がした。

続けて、短い笛。店の合図には聞こえない。人を呼ぶための音だ。


ミラの視線が上がる。


「出ます」


三人は動かない。動かないまま、それぞれの位置をずらす。


リオは通りの端へ。買い物帰りの男に見える位置。

ミラは井戸の影へ。顔が半分隠れる位置。

アークは壁際の掲示板の前へ。貼り紙を読んでいる人間に見える位置。


裏口から最初に出てきたのは、粉袋を担いだ男だった。

本物の仕込みに見せるための荷だ。歩き方が重い。中身も多分、本当に粉だ。


次に、紙包みを抱えた若い男が出る。

包みは布で隠してあるが、角が立っている。紙だ。

男は路地入口の二人と目を合わせない。合わせないのが、逆に合図になっている。


最後に、奥にいた手の主が出た。


年配の男。地味な上着。役人にも商人にも見える顔。

目立つところがないのに、周りの動きだけがその男を中心に揃う。


リオが小さく吐く。


「……あいつだな」


アークの視線は掲示板の紙から動かない。

だが声だけ落とす。


「まだ見る」


年配の男は若い男の包みを一度だけ受け取り、紐の結び目を指で確かめた。ほどかない。確認だけして返す。

その動きで、ミラの目が変わる。


「受け取り先を知ってる人の手です」


アークが小さく答える。


「うん」


男は路地入口の二人に顎で合図し、三方向へ散らした。

広場、役所前、そして南の坂下。

昨日まで二筋だった流れに、今日だけ増えた一本がそこだ。


リオが低く言う。


「増えた筋、南の坂下か。なんで今日だけ」


アークは掲示板を見たまま返す。


「人が集まるからだ」


「何がある」


「朝の配給の遅れが出る」


ミラがはっとした顔でアークを見る。


「昨日の港の荷……」


アークは頷いた。


「遅れは紙になる。紙になれば、次は怒りの置き場が要る」


リオの軽さが消える。


「つまり、今日の三本目は“配る”ためじゃなく、“向ける”ためか」


「そうだ」


アークはそこで初めて掲示板から目を離し、二人を見た。


「ミラ、南の坂下を追え。紙を持った若い男じゃない。最後の男だ。受け取り先を知ってるのはあっちだ」


「はい」


「近づくな。顔を覚えろ。入った建物を覚えろ。名前はまだ拾わなくていい」


ミラはもう頷いている。返事より先に体が準備している。


アークはリオへ向く。


「リオは広場筋。配り手を追うんじゃない。受け取って、その場で声を上げる人間を見ろ」


リオが眉をひそめる。


「煽り役か」


「最初の一人を見つけたい」


リオは笑わずに答えた。


「了解。目立つやつじゃなく、“最初に言うやつ”だな」


アークの目元がわずかに緩む。


「そういうことだ」


最後に、アークは自分の行き先を言う。


「俺は役所前へ行く」


リオが反射で言い返す。


「一番面倒なとこだろ」


「だから行く」


アークは壁から離れた。


「今日、相手は朝を作りに来てる。なら俺たちは、どの手で朝が作られたかを持って帰る」


ミラが先に動く。影から影へ、音を立てずに消える。

続いてリオが反対側へ回り、通りの人間の顔に戻る。


別れる直前、リオが振り返らずに言った。


「アーク」


「なんだ」


「無理はするな、って言ったの、取り消すなよ」


アークは一拍だけ黙ってから返した。


「お前もだ」


リオが手を上げる。昨日と同じ軽さのはずなのに、今日は少しだけ低い。

緊張を押し込んだ合図だった。


二人が散る。


アークは役所前へ向かって歩き出す。

通りは明るくなり始めていた。店が開く。鍋の音がする。人の顔に、まだ怒りはない。


けれど、その前に紙が届く。


紙が届く前の数分だけが、いまは一番静かだ。

そして一番、形を変えられる時間でもある。


アークは歩幅を変えない。


狩りが始まる前に、

誰が獲物を選んでいるのかを見るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ