53.配り手の靴
朝の町は、紙より先に足で目が覚める。
店を開ける音。
水を運ぶ音。
掃き出す音。
その間を、同じ速さの靴音が抜けていく。
リオはパン屋の角で立ち止まらず、窓ガラスの反射だけで通りの奥を見た。
灰色の上着。腕章なし。革鞄は薄い。だが歩き方が役所だ。急がない。迷わない。人の流れを邪魔しない位置だけを通る。
配り手だった。
リオは追わない。
一度、逆へ折れる。路地を一本ずらして、先回りする。
こういう足は、後ろにつくとすぐ気づく。
前に出て、待つほうが見失わない。
角を曲がると、魚屋の前にもう一人いた。
同じ鞄。同じ歩幅。今度は若い。指先にインクがついている。
二人は言葉を交わさない。
すれ違うとき、鞄の口を一度だけ押さえた。
合図だ、とリオは思った。
数を確認する手つきだ。中身じゃない。残りの束の厚さを指で読む手つき。
「……名簿どおりか」
独り言は喉の中で止める。
通りの向こうで、子どもが叫ぶ。
「新しい掲示だって! 広場の南!」
人がそっちへ流れる。
配り手は逆へ曲がった。
リオの口元がわずかに動く。
「そっちじゃないよな」
広場に貼る紙は見せる紙だ。
本当に効く紙は、先に路地へ入る。
店主、荷運び、井戸端、朝いちばんで口が回る場所へ置かれる。
リオは魚屋の裏を抜け、洗い場の脇を通った。濡れた石に足を取られそうになって、壁へ手をつく。
その手に、古い貼り紙の切れ端が触れた。
はがされた跡の上に、新しい紙。
新しい紙の上に、また別の紙。
この国は、壁でも争っている。
配り手の若いほうが、薬問屋の脇口に入っていくのが見えた。
正面じゃない。脇口だ。店の客ではなく、奥の帳場へ回る入り方。
リオは少し待った。
数を数える。五つ。六つ。七つ。
出てきた若い配り手の鞄は、目に見えて薄くなっていた。
「当たりか」
リオは通り過ぎるふりで脇口の前を横切る。中では帳場の男が紙を広げていた。客に見せる前の顔だ。眉間に皺を寄せて、まず自分で飲み込む顔。
文は見えない。だが、紙の端に押された印の位置だけ見えた。
右下ではない。
本文の終わりに近い位置。
昨夜、アークが言っていた通りだ。
読ませる押し方。
見せる紙。
リオは足を止めずに曲がった。
胸の奥で、少しだけ熱が上がる。
当たったからじゃない。
アークの読みが、また先にいたからだ。
その熱を冷ますように、次の角で水売りの桶の音が鳴る。
人が増える。配り手を追うには悪い時間帯だ。
リオは追跡を切り替えた。
配り手ではなく、受け取る側を見る。
朝の一刻で紙が入った店を、頭の中で並べる。
薬問屋。油屋。干し肉屋。質屋の裏口。
どれも人が集まる。どれも言葉が広がる。どれも、今日の不安を明日の値段に変えられる場所だ。
「……広場じゃない。市場の奥から燃やしてる」
口に出した瞬間、背中に視線を感じた。
リオは振り返らない。
窓の反射で確認する。
黒い外套の男。二十歩後ろ。
視線は通りに向いているふりをして、ずっとこちらの肩口を見ている。
つけられた。
リオは歩幅を変えないまま、果物屋の前で止まった。
木箱の上に赤い実が並んでいる。朝の冷えた空気の中で、そこだけ柔らかい色だ。
「甘い匂いだな」
店主が笑う。
「見るだけかよ、兄ちゃん」
「今はな」
リオは赤い実を見たまま、反射で後ろを見た。
黒い外套の男も、足を止めて別の店を見るふりをしている。
下手ではない。
でも、上手すぎもしない。
宰相府の追手なら、もっと遠い。
現場の犬なら、もっと近い。
「半端だな……」
リオは小さく言って、果物屋に銅貨を一枚置いた。
「いちばん傷のあるやつ、ひとつくれ」
店主が目を丸くする。
「傷のでいいのか?」
「いい。今日はそれでいい」
受け取った赤い実を、リオはその場で食べない。
手の中で一度だけ重さを確かめて、通りの子どもに投げた。
「落とすなよ」
子どもが慌てて受け止める。
その笑い声に、通りの目が一瞬そっちへ向く。
リオはその一瞬で路地へ滑り込んだ。
洗い場の裏。干し布の影。木箱の隙間。
三つ曲がって、壁を越える。着地の音を殺す。
追ってきた足音は、二つ目の角で止まった。
見失ったらしい。
リオは息を整え、壁に背をつけたまま考える。
配り手の線は取れた。
印の位置も見た。
だが、名簿そのものはまだ遠い。
それでも、持って帰るには十分だ。
「……足から入れる」
昨夜のアークの声を思い出す。
文より先に、足だ。
リオは内ポケットに手を入れかけて、止めた。
昨夜預かった細い紙片がある。まだ開かない。開くのは、言われたときだけだ。
「戻るか」
言ったあと、リオは首を振った。
まだ一つ、見ておくべき場所がある。
広場の南の掲示板だ。
見せる紙は、路地に回ったあとで何を書くのか。
表でどんな顔をして立つのか。
そこまで見て、初めて一枚になる。
リオは壁から離れ、遠回りで広場へ向かった。
鐘が鳴る。
人が集まりはじめる。
誰かを指すための朝が、また始まる前に。
どこからその指を作っているのか、今日のうちに掴むために。




