54.広場の顔、路地の紙
広場の南は、昼より先に顔が集まる。
まだ鐘が二つしか鳴っていないのに、掲示板の前には人だまりができていた。市場へ向かう前の足。店を開ける前の手。仕事へ行く前に、まず何を信じるかを決めに来る顔だ。
リオは人垣の外を回った。
正面から読まない。読むふりをして、読む人間の顔を見る。誰が文を読み上げるか、誰が先に頷くか、誰が言葉を足すか。紙は文字だけで走らない。口が引っぱる。
掲示板の前に、役所の若い文官が立っていた。背筋だけはまっすぐで、声が少し震えている。
「北線事故に関する追加通達。流言の拡散を禁ずる。疑わしい者を見かけた場合は――」
そこで文官は一度、紙を持ち直した。
持ち直したというより、見せた。
本文の終わりに近い位置の印が、朝の光を拾う。読み終わった人間の目が、最後にそこへ落ちるような高さだ。
昨夜、アークが言っていた通りだった。
命令の紙じゃない。見せる紙だ。
リオは掲示の文面を全部は追わない。代わりに、周りの声を拾う。
「やっぱり内通者か」
「北門の整備のやつら、怪しいって聞いた」
「港もだろ。荷が消えてる」
言葉が、もう混ざっている。
紙に書いてあることと、路地で配られた紙のことと、昨夜の噂が、一つの話みたいな顔をして広がっていく。
広場で文官が読み終えるころには、もう誰も文官の声を聞いていなかった。人は紙を読むより早く、隣の口を見る。
「……ここは飾りだな」
リオは小さく言って、その場を離れた。
本当に効いているのは、さっき見た脇口の紙だ。帳場に入る紙。値段を決める人間に先に届く紙。広場は、その後で正しそうな顔をつけるだけ。
角を曲がると、朝の混雑に紛れて、あの黒い外套がまた見えた。
さっきの追手だ。
今度は距離が近い。十歩。わざと見せているような近さだった。
リオは速度を落とさない。
逃げれば追われる。振り返れば覚えられる。なら、気づいていない顔で歩かせる。
井戸端の列を抜け、布屋の軒下をくぐり、香辛料屋の前で足を止める。鼻を刺す匂いに紛れて、後ろの靴音を聞く。
黒い外套も止まった。
――やっぱり、半端だ。
宰相府の犬にしては近すぎる。町の私兵にしては、追い込みが甘い。
リオは店先の木箱を覗き込むふりで、横目に指先を見た。
黒い外套の男の右手。親指の付け根に、薄く黒い汚れが残っている。煤でも泥でもない。乾いた、粉っぽい黒だ。
リオの胸の奥で、昨夜の机の紙がつながった。
刷り場。
版を触る人間の手につく黒。
「……配り手じゃなく、刷る側か」
言葉は口の中だけで転がす。
男は視線を逸らしたまま、香辛料屋の庇の影に入る。こちらを急かさない。逃がすふりで、行き先だけを知りたがっている動きだ。
リオはそこで、わざと一度だけ迷うふりをした。
左の路地を見て、やめる。右を見て、歩き出す。追う側が「先を読める」と思うときほど、足は甘くなる。
三つ目の角で、リオは荷車の列にぶつかった。
いや、ぶつかったふりをした。
「悪い!」
声を張って荷車の脇へ体を入れる。木箱と箱の間、布の影、馬の腹の向こう。町の通りは、人より物のほうが大きい。追う目はそこで切れる。
リオは荷車の反対側へ抜けると、今度は走らずに歩いた。
走る音は残る。歩く音は混ざる。
一度だけ振り返る。
黒い外套の男は、荷車の向こうで足を止めたまま周囲を見ていた。追う目じゃない。探す目だ。つまり、見失っている。
「よし」
リオは息を整え、細い路地を市場の裏へ抜けた。
持ち帰るものが増えた。
配り手の線。印の位置。広場が飾りだという確信。そこに、刷り場へつながる手の汚れ。
名簿に届かなくても、外から切れる足がある。
アークならそう考える。
そう考える相手の顔を思い浮かべて、リオは少しだけ口元を緩めた。
その直後、胸の内ポケットの感触に指が触れる。
昨夜預かった、細い紙片。
まだ開くなと言われたもの。
リオは指を離した。
「……先に戻る」
誰に聞かせるでもなく言って、歩幅を上げる。
今日のうちに伝えるべきことがある。町が次の紙を飲み込む前に、アークの机に並べるべき情報がある。
朝の町はもう動き出していた。
店の戸が開き、値札が掛け替えられ、誰かが掲示の文句を口真似する。
その全部の下を、見えないところで紙が走っている。
なら、その足を折る。
リオは人波に紛れながら、屋敷の方角へ向かった。




