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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
手続きが正義を作る

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50.戻り先を決める手


箱を持つ手は、力がある。


だが、この国で本当に厄介なのは——

箱を「どこへ戻すか」を決める手だ。


港の朝はまだ暗かった。


夜明け前の灯りは、仕事の場所だけを照らす。

顔は照らさない。表情が見えないほうが、揉めにくいからだ。


ミラは濡れた袖口を気にしながら、裏通路を抜けた。

袖の内側には、折った紙の切れ端がある。

黒点の位置。樽の番号。運び先の記号。


全部じゃない。

全部を持てば、持った人間ごと紙になる。


だから、これでいい。

——いや、これしか持てない。


角を曲がる前に、ミラは一度だけ立ち止まった。


足音を聞くためだ。


港は音で分かる。

急ぐ足音、隠す足音、見回る足音。

今日はその全部が混ざっている。


遠くで荷車の軋む音。

近くで帳簿を閉じる音。

その間に、革靴の硬い音がひとつ。


腕章だ。


ミラは顔を上げず、桶を持ち直した。

中身はもう半分も入っていない。ただの水だ。

だが、桶を持っていれば「運んでいる人」に見える。

運んでいる人は、まだ紙になりにくい。


「そこの者」


背後から声が飛んだ。


ミラはすぐには振り向かない。

振り向く速さで、後ろめたさは分かる。


一拍置いてから、桶を少し下げ、肩だけで振り向く。


腕章の男が二人いた。

港の入口で見る見回りではない。紙を持つ側の顔だ。


「どこから来た」


短い問い。


ミラは桶の縁を指で押さえた。

指先が滑らないようにする動きに見せる。


「裏の水場です。床が滑るって言われて」


片方の男が桶を覗く。

水しかない。汚れた布も見える。

“仕事”に見える。


もう一人が言った。


「見なかったか。帳簿係が一人、監督所へ走った」


ミラは眉を寄せた。

困った下働きの顔を作る。これは演技じゃない。半分は本音だ。

本当に困っている。


「さあ……。こっちは水場と洗い場の往復なので」


男は舌打ちしかけて、やめた。

人の目があるからだ。港では怒鳴るだけで目立つ。

目立てば、逆に記憶に残る。


「行け」


ミラは小さく頭を下げ、歩き出した。

早足にはしない。遅すぎもしない。


角を曲がって、ようやく息を吐く。


袖の内側の紙が、皮膚に張りついていた。


——まだ渡せる。

——まだ紙にされていない。


港を出る道は一つじゃない。

だが、今日は「安全な道」より「理由のある道」を選ぶ。


理由のない移動は目立つ。

理由のある移動は、仕事に見える。


ミラは洗い場へ桶を戻し、空になった手で麻袋を一つ持った。

中身は古布。軽い。

軽いものを重そうに持つのは難しいが、朝の疲れを顔に乗せれば誤魔化せる。


裏門を抜けると、街はもう起き始めていた。


焼けた小麦の匂い。

昨夜の雨が残る石の匂い。

そこへ、紙の匂いが混じる。


新しい貼り紙が増えている。


ミラは見ない。

立ち止まって読むと、それだけで「関心がある人」になる。

関心がある人は、誰かに覚えられる。


覚えられたくない朝だ。


ただ、視界の端で分かる。

紙の枚数が増えている。

枚数が増える日は、言葉も増える。


「通報」

「確認」

「協力」

「保護」


耳にやさしい言葉ほど、あとで首に巻きつく。


公爵家の裏手に着いたとき、空は少し白んでいた。


表門は使わない。

裏に回る。台所の荷受け口へ行く。

ここなら、麻袋を持っていても不自然じゃない。


戸口の脇に、木箱が三つ積んである。

上から、乾物。石鹸。紙束。

紙束だけ紐の色が違う。屋敷の帳場に回す分だ。


ミラはその紙束を見て、一瞬だけ喉が詰まった。


同じ紙だ。

港で人を消す紙も、屋敷で食費を記す紙も、同じ紙だ。


違うのは、何を書くかだけ。


戸が開いた。


古参の使用人が顔を出す。驚かない。

驚かないのは、ここ数日の出入りでミラの顔を覚えたからだ。

だが、覚えたことを口にはしない。


「朝からどうした」


「港から、伝言……じゃなくて、確認してほしいものが」


“伝言”と言いかけて止めたのは正解だった。

この国では、伝言はすぐ紙になる。


使用人はミラの手の麻袋を見て、顎で中を示した。


「それだけか」


「はい」


「待ちな」


戸が半分閉じる。


少しして、別の足音が来た。

軽くない。慌てもない。屋敷の中を急がず歩ける人間の足音だ。


リオだった。


ミラは思わず背筋を伸ばした。


リオは朝の光の中でも顔色を変えない。

眠っていない顔だ。けれど疲れを見せない。

そういう人間は、周りを先に疲れさせる。


「ミラ」


名を呼ぶ声が低い。

確認の呼び方だ。親しさを見せる呼び方じゃない。


「港か」


ミラは頷いた。


「はい。港の帳場から……戻り先の記号が載っている切れ端です」


言いながら、袖口に指を入れる。

手を入れる角度まで、見られている気がした。


リオの視線は紙じゃなく、先にミラの手首を見る。

震えていないか。隠し方に癖がないか。

そういう見方だ。


ミラは紙を出し、直接は渡さない。

掌に置いたまま見せる。


リオの目が黒点の並びに止まった。


ほんの一瞬だけ、目の奥の温度が消える。


「……これを、どこで」


「港の係です。名前は聞いてません。聞かないほうがいいと思って」


リオはすぐに頷いた。


「正しい」


即答だった。


正しい、と言われて安心する場面なのに、ミラは少しだけ寒くなる。

この人は、正しさを迷わず使う。


リオは紙に触れないまま言った。


「旦那様に上げる」


“旦那様”。

屋敷の中の言い方だ。外の政治をここへ持ち込まないための言い方。


ミラは紙を引っ込めなかった。


リオの目が上がる。


「……何だ」


ミラは喉を鳴らしてから言った。


「これ、誰に見せるかで意味が変わります」


言ってから、自分で驚いた。

前なら言えなかった。

だが港で見た。帳簿の線一本で、人の行き先が変わるのを。


リオは黙ってミラを見る。

怒ってはいない。計っている。


「続けろ」


「帳場の人は、“全部じゃなくていい”って言いました。

 “場所”が分かればいいって。

 ……この紙、先に紙にした側へ戻ったら、たぶん消えます」


リオの目が細くなる。


「分かってる」


短い返事。


ミラは一歩だけ踏み込んだ。


「なら、旦那様に直接」


屋敷の空気が止まった気がした。


使用人が奥で息を殺す音まで聞こえる。


リオはしばらく何も言わなかった。

その沈黙の間に、ミラは自分の言葉の重さを知る。

相手は側近だ。屋敷を仕切る人間の一人だ。

下の者が差し出口を挟んでいい相手じゃない。


それでも、引けなかった。


セレナの名が紙で決められた時、みんな引いた。

引いた結果、取り返しがつかなくなった。


リオが口を開く。


「……いい度胸だな」


笑ってはいない。

だが、声にわずかな熱が戻っている。


「その言い方は、嫌いじゃない」


そう言って、初めてミラの掌から紙を取った。

取る時、端だけをつまむ。

文字をこすらない持ち方だった。


リオは紙を一度見て、すぐに折る。


「ここで待て」


「はい」


リオは屋敷の奥へ向かう。

歩幅が変わらない。急いでいるように見せない歩き方だ。

だが、速い。


ミラは戸口の脇で立ったまま、朝の匂いを吸った。

石鹸。湿った木。炊き始めた鍋の湯気。


港の油と違う匂いだ。

同じ王国の朝なのに、匂いが違う。


しばらくして、足音が戻る。


リオではない。


アークだった。


ミラは反射で頭を下げる。

顔を上げるのが一拍遅れる。


アークは外套を羽織ったまま、まだ留め具を留めていない。

急いで出てきたのが分かる。

けれど顔は静かだった。静かすぎるくらいに。


「紙を見せてくれ」


声は低い。

命令の形だが、急かしてはいない。


ミラはさっきリオに渡したはずの紙を、と思って一瞬迷う。

その迷いを見て、アークが言った。


「写しでいい。見た形を言えるか」


ミラは息を吸う。


「はい。

 黒点が、欄外の同じ角に並んでました。

 樽の番号と、運び先の記号の横です。

 港の係は、『配る前につける印だ』って。

 あとで“正しかった”と書くための印だって」


アークの目が動く。


怒りではない。

計算が合う時の目だ。


「……戻り先を先に決めている」


独り言に近い声だった。


リオが横で言う。


「配り先だけじゃなく、回収先も、ですね」


“回収先”。


その言葉で、ミラの背中が粟立つ。


配った紙がどこへ戻るか。

どの机に集まり、誰が「使える」「使えない」を決めるか。

そこで人の名も決まる。


アークはミラを見た。


「港の係は、まだいるか」


「います。でも、長くは……。あの人、自分でも『ここに長くいると俺も紙になる』って」


アークの目元がわずかに動く。

ほんの少しだけ、優しくなる時の動きだ。

それを見てしまうと、逆に苦しくなる。


「そうだろうな」


アークは短く言って、留め具を留めた。


金属が小さく鳴る。


「リオ。港の帳場じゃない。

 “戻り片が集まる机”を先に探す」


リオが即座に返す。


「候補は三つあります。

 監督所の裏、港の会計詰所、宰相府の出納写場」


「一つ減らせ」


「会計詰所は現場が近すぎる。戻り片の整理には向きません」


アークは頷く。


「残り二つだ」


会話が速い。

速いのに、何をしているかが分かる。

“どこへ殴るか”じゃない。

“どこを見れば紙になる前を止められるか”を選んでいる。


ミラはその場で、やっと分かった。


箱を持つ手より厄介なのは、

戻り先を決める手。


そして——


それを止めるには、

まず「どの机で決まっているか」を当てなきゃいけない。


アークが戸口を出る前に、足を止めた。


振り向かないまま言う。


「ミラ」


「はい」


「よく持ってきた」


それだけだった。


褒めるでもない。

慰めるでもない。

だが、仕事として受け取った言い方だった。


ミラの喉が熱くなる。


アークは続ける。


「今日は屋敷に入るな。帰りも裏を使え。

 誰かに呼び止められても、港の話はするな。

 “洗い場で滑りそうだった”——それだけでいい」


理由まで渡してくれる。

口を守るための、言い方まで。


「……はい」


アークは歩き出す。

リオも半歩遅れてついていく。


二人の背中は似ていない。

歩き方も、空気の切り方も違う。

けれど今は同じ方角を見ている。


朝の街に、また紙の匂いが流れてきた。


新しい見出しが貼られる前に、

誰かが机に戻す前に、

今日の“正しさ”が決められる前に。


止めるなら、今だ。


ミラは麻袋を抱え直し、裏路地へ入った。


振り返らない。


振り返れば、屋敷の門を覚えられる。

覚えられた門は、いつか紙に書かれる。


この国では、そういう順番で狩りが来る。

だからまず、自分の足跡を薄くする。


朝の光は、まだ低い。


低い光の中で、

紙になる前のものだけが、かろうじて手の中にあった。

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