49.箱を持つ手
市場は昼でも冷たい。
魚の氷が溶ける音と、布の端を切る音が混ざる。
混ざる音の底で、紙が擦れる音が一度だけ鳴る。
一度だけ、は目立つ。
目立つのに、誰も振り向かない。
振り向かないのは、当たり前になっているからだ。
アークは軒下に立って、その“当たり前”を見ていた。
白仮面は付けていない。
市場は素の目で拾う。
仮面は、ここでは紙より目立つ。
「……あれ」
ミラが短く言う。
ミラの目線は屋台じゃない。
札の束だ。
配給札の束。
束の端に、角の色が違う札が混ざっている。
赤点。
役所前だけじゃない。
「混ぜる場所、増えた」
リオが言う。
「増やした方が、見つかりにくい」
アークは頷いた。
「見つかりにくいんじゃない。見つかっても“偶然”にできる」
偶然にできる。
偶然に見せるための紙がある。
市場の中央に、腕章の男が立っていた。
役所の腕章じゃない。
商会の腕章だ。
商会の腕章は、正義に見える。
正義に見えるから、疑われない。
男が声を上げる。
「通報があった。協力者を求む」
協力者。
通報の紙が配る言葉。
市場の目が一斉に向く。
向く先は男じゃない。
腕章だ。
腕章は紙より強い。
紙より強いから、紙を通せる。
「……順番が来た」
アークが言った。
ミラが頷く。
「通報が先。配給が後」
「逆にしたい」
リオが笑う。
「逆にしたら、怒りが生活に戻る」
「戻す」
アークは言った。
「戻して、机の脚を拾う」
市場の端で、札屋の前に列ができている。
列は短い。
短いのに、並び方が揃っている。
揃っている列は、誰かが整えている。
整えるのは、机だ。
アークは札屋の横を通り過ぎた。
中へ入らない。
入れば主役になる。
主役にすると、相手が潜る。
潜られたら拾えない。
札屋の裏に、机の角が見えた。
角に小さな窪み。
印の窪み。
窪みの周りが黒い。
古い印を最近また押し始めた黒さだ。
ミラが小さく息を吐く。
「……ここ、昨日より深い」
「昨日より、押してる」
アークは言った。
「押す回数が増えた。つまり、回す紙が増えた」
札屋の奥で、帳面が開かれる音がした。
紙が擦れる音が二回。
二冊。
一冊は表の帳面。
もう一冊は裏の帳面。
裏の帳面は、赤点を作る。
赤点は“余り”だ。
余りを誰に渡すかで、狩りが始まる。
腕章の男がまた声を上げる。
「協力者は、役所へ」
役所へ。
言葉が先に配られる。
行動が後から追いかける。
紙の狩りは、いつもそうだ。
アークは札屋の裏口の床を見る。
封蝋の粉。
赤い粉が紙粉に混ざっている。
封を開けて閉じ直す匂い。
「……机、札を“役所の札に見せる”形へ揃えてる」
ミラが言った。
「揃えたら、誰も疑いません」
リオが足元を見て言う。
「同じ靴跡が二つ。細い踵」
同じ靴跡は、同じ人じゃない。
同じ靴を履かせている。
制服の足だ。
制服があるなら、内側がある。
「黒点は、まだ見えない」
ミラが言う。
「まだ外側です」
「外側で折る」
アークは言った。
「内側へ行く口実を作るために」
市場の目がまた冷たくなる。
腕章の男の声が、紙の正しさを配るからだ。
配った正しさは、狩りの予告になる。
アークはその予告を見て、背を返した。
今日はここでいい。
印の窪み。
二冊の帳面。
封蝋の粉。
制服の靴。
拾えた。
拾えたなら、次は足だ。
足を拾えば、机は逃げない。
逃げない机なら、折れる。
通報の順番を戻すために。
生活を先に置くために。
紙が正義の顔をする前に。




