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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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40.入荷帳の裏


港の裏手は、いつでも薄暗い。


灯りが足りないわけじゃない。必要な場所に、わざと届かないように置いてある。

荷を数える手元は照らす。顔は照らさない。

ここはそういう場所だ。


ミラは桶を持ったまま、整備士に教えられた「合図」を思い出す。

——桶を一度、地面に置く。ただそれだけ。


この動作なら、誰にも言葉にされない。

「何をした」と紙に書かれない。

書けなければ、狩りの矢印にされにくい。


桶の底が石に当たって、鈍い音がひとつした。


角の影で、男が一瞬だけこちらを見た。

見て、すぐに視線を戻す。

合図を受け取った——そういう“知らないふり”の戻し方だった。


ミラは歩幅を変えず、裏の通路へ入る。


鼻に刺さるのは油の匂いだ。

船の板に塗る油。樽の継ぎ目の油。縄に染みた油。

そこへ、別の匂いが混じる。乾ききらないインクの匂い。


この通路は狭い。石壁が近い。

紙束を運ぶと必ず壁に擦る。擦れば粉が付く。

粉が付けば「どこを通ったか」が残る。


だから港の裏は、嘘がつきにくい。


通路の奥に、木の扉が一つあった。

札には雑に「倉庫」とだけ書かれている。

雑なのは、見せる必要がないからだ。


ミラは扉の前で止まった。


鍵穴は古い。古い鍵穴は、鍵より先に癖を覚える。

そして癖は、人を選ぶ。


中から、紙をめくる乾いた音が聞こえた。


——いる。いるなら帳面がある。

帳面があるなら、今日まだ燃えていない。


ミラは扉を押さない。

押した瞬間、音が出る。音が出れば「来た」と書ける。


代わりに、扉の脇の隙間へ指先を差し入れた。

木と石の間の冷たい湿り気。

そこに薄い金属が挟まっている。


釘だ。


抜かない。抜けば「壊した」と書ける。

ミラは釘を指で押した。ほんの少しだけ。

ずれた隙間から、扉が指一本分だけ開く。


それで十分だった。


中は紙の匂いが濃い。

新しい紙、古い紙、乾かしきれない紙。

そして、油とインク。


机の上に分厚い帳面が一冊。

革表紙の角が擦れて白くなっている。

港の手が何度も触れた角だ。


男が一人、机に向かっていた。


文官じゃない。港の係だ。

爪の間が黒い。指の腹がひび割れている。

“汚れる仕事”をしている手だ。


男はミラを見ずに言った。


「……名は言うな」


ミラは頷く。声は出さない。


男は続けた。


「入荷帳はここにある。だが、ここから先は“写し”だけでいい」


ミラは小さく息を吸った。


「全部じゃないの?」


男は首を振る。


「全部を持てば、狩りが来る」

「必要なのは“場所”だ。どの束が、どこへ流れたか」


男は帳面を開いた。


紙をめくる音が乾いている。

乾いているのは、指に油が染みているからだ。


「この欄を見ろ」


樽の番号。日付。受け取り人。運び先。

文字は雑だ。雑だから港の紙だ。宰相府の紙じゃない。


男の指が、欄外で止まった。


角に、小さな黒点が並んでいる。


汚れに見える大きさ。

けれど「同じ角」「同じ位置」だ。偶然じゃない。


ミラの背中が冷えた。


「……それ、何」


男は声を落とした。


「束に打つ印だ。配る前につける」

「どの束を、どの道に流したか——あとで“証拠”にするための印だ」


ミラが眉を寄せる。


「証拠?」


男は一度、指を止めた。


「真実の証拠じゃない」

「“正しかった”って書くための証拠だ」


“正しかった”と先に決めてから、理由をあとで揃える。

そのために、束の流れを印で固定する。


ミラは喉の奥が痛くなるのを感じた。


男は帳面から一枚だけ、手早く切り離した。

切り離す角度が迷いなく速い。


——燃やされる前に切る手だ。


「ここだけ持て。黒点の位置と、樽の番号だけ」

「運び先の記号も」


ミラは受け取らない。


受け取れば“持ち物”になる。

持ち物になれば、紙に書ける形になる。


ミラは男を見る。


「……どうやって渡す」


男は短く言った。


「公爵家に渡せ」


その名が出ただけで、紙が強くなる。

男もそれを分かっているらしく、言い直した。


「……止めない家に渡せ」


止めない。

港の係が言う言葉じゃない。だが港は知っている。


止まれば、荷が止まる。

止まれば、誰かが飢える。

止まった穴を埋めるために、狩りが始まる。


ミラは袖をひと撫でし、紙を袖口の内側へ滑らせた。


持つんじゃない。

落ちたことにする。

事故にする。


男は帳面を閉じた。


「行け。ここに長くいると、俺も紙になる」


ミラは頷き、来た隙間から外へ出た。

釘を元の位置へ戻す。


戻しただけなら、誰も「開けた」と書けない。


外へ出た瞬間、港の空気が重くなっていた。


足音が増えている。

灯りが一つ増えている。

増えた灯りの下で、見回りが始まっている。


——紙が厚くなった合図だ。


ミラは走らない。

走れば追われる。追われれば罪になる。


ただ、港の影に溶けたまま歩いた。


渡す先は、止めない家。

渡す先は、アーク。



屋敷の廊下は港より静かだった。

静かすぎて、音が目立つ。

靴音も、布の擦れる音も、呼吸も。


アークは机の前に立ち、紙の端を揃えていた。

癖だ。揃えないと頭が動かない。


扉の外で、足音が止まる。


ミラだ、と分かる。

軽いのに迷いがない。現場の歩き方だ。


ノックはない。

代わりに声だけが落ちる。


「……持ち込みじゃありません。落としました」


アークは返事をせずに扉を開けた。


ミラは廊下の端に立っている。

手ぶらに見える。だが袖口がわずかに重い。


ミラは近づかずに言った。


「港の裏に、帳面がありました」

「入荷帳です。欄外に……黒点がありました」


ミラは袖口をひと撫でして、紙を床に落とした。


落ちた紙の角が欠けている。

港の手で急いで切った欠け方だ。


アークは拾わない。

拾えば“持ち物”になる。


代わりに床の紙へ目を落とす。


樽の番号。

黒点の位置。

運び先の記号。


——揃っている。


アークは息を吐いた。


「都が回している」


ミラが頷く。


「束ごと、どこへ流すかを。……記録していました」


アークは帽子を手に取った。


「俺が行く」


ミラの目が一瞬だけ揺れた。


「都へ?」


「港の裏が触れたなら、次は都が塞ぐ」

「塞がれる前に、入口を見てくる」


ミラは言いかけて、やめた。

止めても、アークは止まらない顔だ。


アークは低く言う。


「ミラ。戻れ。港の係を守れ」

「名は出すな。……誰か一人でも名前が紙に載ったら、そいつから消える」


ミラが短く答えた。


「はい」


短いやり取りだけで、もう決まった。


都へ行く。

黒点の束が、どこへ吸い込まれていくのか。

その入口だけを、今夜のうちに見つける。


アークの視線は床の紙を離れない。


真実より先に、正しさが配られる国で。

正しさの流れを止めるには、流れの“根”を掴むしかない。

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