止まった更新
名簿の紙は、指先に粉を残す。
粉はインクじゃない。削れた繊維だ。頁をめくるたび、古い紙が息を吐く。その息を吸わされるのが、ここに並ぶ人間だ――と、ミラは思った。
配給所の机は低く、机の奥にいる係の男の顔はよく見えない。
見えるのは手だけだ。
札を受け取る。
名簿を開く。
指で行をなぞる。
止まる。
首を振る。
その繰り返しが、昨日まで続いていた。
「……次」
係の男が言う。
声は平たい。平たいほど、逆らえない。
列の先頭にいた女が、札を差し出した。指が白い。握りすぎて血が行っていない。
係の男の指が、名簿の上を走る。
走って――止まった。
ミラは息を止める。
止まる場所が、昨日とは違う。
昨日は名前で止まった。
今日は、札の角で止まっている。
係の男は札を持ち上げ、角を見た。そこにあるのは小さな黒点。
汚れのふりをした合図。
係の男は、名簿の行をもう一度なぞった。
なぞって、今度は止まらずに先へ進めた。
「……通る」
女の肩が跳ねた。
「え……? 昨日は、“名がない”って……」
係の男は女を見ない。
見ると、情が入る。情は、紙に弱い。
「更新が、止まった」
それだけ言って、袋を渡した。
女は袋を抱え、礼も言えずに去った。
礼を言えば声が残る。声が残れば、誰かが紙に書く。
列がざわつく。
「どういうことだ」
「今日だけか」
「昨日は死ねってことか」
係の男は同じ調子で返す。
「更新が止まった。――通る者は通る。通らない者は通らない」
不公平の言い方ではない。
規則の言い方だ。
ミラは列の横へ回り、掲示板の端を押さえるふりをして紙の下を見た。
新しい紙が二枚、重なって貼られている。
上の紙は配給の案内。
下の紙は通報の奨励。
《協力者を見つけた者には報奨金》
《目撃は役所へ》
ミラは紙を剥がさない。
剥がした瞬間、敵になる。
代わりに、紙の角を見た。
ここにも黒点がある。しかも、二つ。
ひとつは札と同じ位置。
もうひとつは、少しだけずれている。
――点が二種類ある。
ミラは視線を戻し、係の男の手元へ近づいた。
係の男は札を受け取り続けている。動きは機械みたいに正確だが、指先が少しだけ荒れている。紙に触れている人間の荒れ方だ。
ミラは声を落とした。
「……さっきの女、通った」
係の男の指が一瞬止まる。
「聞くな」
「聞かない。確認するだけ」
ミラは、名簿の表紙を見た。
表紙の端に小さな印。そして、その横に黒点。
係の男は、ミラの視線に気づいたのか、名簿を手の平で覆うように閉じた。
隠す動きではない。癖だ。癖は、守りの動きになる。
「黒点……」
ミラが言いかけると、係の男は机の角を、指で一度だけ叩いた。
乾いた音。言葉の代わりの音。
「……言うな」
「じゃあ、聞き方を変える」
ミラは息を整えた。
「今日、名簿の“更新”が止まった。――止めたのは誰」
係の男は、しばらく黙った。
黙って、札の角を指で擦る。黒点の位置を確かめるみたいに。
「……止めた、じゃない」
係の男が唇だけ動かす。
「“止まった”んだよ」
「何が」
係の男は、目を上げずに言った。
「上から降りてくる紙が、来なくなった。……来ないなら、こっちは書き換えられない」
ミラは喉の奥が冷えるのを感じた。
「じゃあ、昨日まで“消されていく”のは」
係の男は言い切った。
「来てたからだ」
来てた。
紙が来て、名が削られる。
紙が来なくなれば、削られない。
「でも、さっき……通報の紙は貼られた」
ミラが指摘すると、係の男の指がまた一瞬止まる。
「……それは別の線だ」
係の男は、名簿の端を軽く押さえた。
「腹を空かせる更新と、狩りを回す紙は、別々に流れる。……だから厄介なんだ」
ミラは、点が二つあったことを思い出す。
「点も二つある」
係の男は、初めてミラを見た。
見てすぐに視線を落とす。
「……気づくな」
「気づいた。だから聞く。――セレナの名は?」
係の男の喉が動いた。
咳を飲み込む動きだ。
「……名簿には、ない」
ミラは頷く。
知っている答えだ。知っているのに、胸が痛む。
「でも」
係の男が、ほんの少しだけ声を落とした。
「“消した”欄でもない」
ミラの眉が動く。
「どういう……」
係の男は、机の下から小さな板切れを出した。
板切れは、筆記用の下敷きみたいなものだ。裏には走り書きがある。
係の男は板切れを見せないまま、言う。
「この机では、三種類ある。――書く、消す、空ける」
「空ける?」
「書くのは配るため。消すのは弾くため。空けるのは……後で戻すためだ」
ミラは息を止めた。
空ける。
空白。
行き先のない札。
――逃げた証拠じゃない。
保留だ。
港の奥で、怒鳴り声が上がった。
「そいつだ! 通報だ!」
「昨日まで配給を受けてたのに、今日は受けられない? おかしいだろ!」
人が集まる音がする。
集まると、視線が一本に束ねられる。
束ねられた視線は、誰かを必要とする。
係の男が、ミラにだけ聞こえる声で言った。
「……更新が止まっても、狩りは止まらない」
ミラは頷いた。
狩りが止まらないなら、空白は守らなきゃいけない。
守らないと、“消す”に変わる。
ミラは踵を返し、配給所の裏へ回った。
裏の木箱の陰に、紙切れが挟まっているのが見えた。
誰かが落とした紙だ。
拾えば、紙になる。
ミラは手袋のまま、紙切れをつまんだ。
つまんで、片手の中で折った。文字が読めない形にする。読む前に、潰す。
紙切れの端に、黒点がある。
札の角と同じ位置。
もう一つ――ずれた黒点もある。
ミラは折り目の中を、指先でなぞった。
文字はほとんどない。たった一行だけだ。
『都の更新は止めた。狩りは止められない。――急ぐな』
ミラは紙切れを握りつぶした。
急ぐな。
命令じゃない。
生きろ、という指示だ。
ミラは港の暗がりを見た。
暗がりの向こうで、誰かがこちらを見た気がする。
見て、すぐ視線を外す――そんな見方だ。
名を呼べない見方。
ミラは歩き出す。
走らない。走れば目立つ。目立てば、狩りが追いつく。
空白を守る。
セレナの時間を守る。
そのために、ミラは今日も現場の中に溶ける。
港の灯りが一つ、二つと点った。
灯りが増えるほど、影も増える。
そして影のほうが、いつも先に動く。




