33.机の脚、二本目
役所裏から走り出た使いは、速くなかった。
速く走る必要がないからだ。
もう役所前の朝は動いた。
動いたあとは、紙が勝手に増える。
増える紙の先に、次の机がある。
リオは人の流れの中で、使いの足だけを見る。
顔は見ない。
顔は変えられる。
足は変えにくい。
歩き方は変えにくい。
癖は、紙より遅い。
使いは路地を抜け、細い坂を上がり、左へ折れた。
左へ折れるのは、見られたくないからだ。
見られたくないのに、走らない。
走らないのは、ここが“見られてもいい場所”だからだ。
路地の先に、布屋がある。
札屋とは違う匂い。
紙の匂いじゃない。
布の匂い。
布の匂いは、生活の匂いだ。
生活の匂いの中に、紙を混ぜるのがうまいやつがいる。
リオは布屋の軒下で足を止めた。
店先に吊られた布が揺れる。
風で揺れるのに、揺れ方が同じだ。
同じ揺れ方は、誰かが決めている揺れ方だ。
決めているのは、手。
手が、布の端を揃えている。
揃えるのは、札と同じだ。
布を揃える机があるなら、札を揃える机もある。
使いは布屋の裏へ入った。
裏口は半分開いている。
半分開いているのは、“出入りがある”からだ。
リオは軒下の影に溶ける。
溶けたまま、耳を立てる。
布屋の奥で、紙の擦れる音がした。
布屋で紙が擦れるのは、帳面があるからだ。
帳面の線が引かれている。
引かれた線は、布の長さじゃない。
札の数の線だ。
「……ここか」
リオは息だけで言った。
そのとき、背後から声がした。
「今朝、役所前にいたね」
声は軽い。
軽いのに、逃げ道を塞ぐ声。
リオは振り向かない。
振り向かないことで、まず時間を取る。
「誰だよ」
「市の入口にもいた。足がいい」
声の主は、若い男だった。
若いのに、目が古い。
目が古いのは、狩りの目だ。
狩りの目は、紙の順番を覚える。
リオはゆっくり振り向いた。
「足がいいって、褒め言葉か?」
男が笑う。
「褒め言葉に見えるなら、そうだな」
見えるなら、そうだな。
言い方が、帳面の言い方だ。
帳面の言い方をするやつは、机の側にいる。
リオは笑わない。
笑うと軽くなる。
軽くなると、掴まれる。
「ここ、布屋だろ」
リオが言うと、男は肩をすくめた。
「布屋だよ。布は嘘をつかない」
「紙は?」
リオが聞く。
男の目が一瞬だけ細くなる。
「紙は……書き換えられる」
書き換えられる。
言った時点で、やっている。
リオは男の足元を見る。
靴の裏に、赤い蝋の欠片が付いている。
封蝋。
役所の匂い。
「役所の封蝋が、布屋に落ちるのは変だろ」
リオが言うと、男は笑った。
「変なことは、役所が決める」
その言葉で、確信した。
机が繋がっている。
役所→使い→布屋→帳面→机。
リオはすぐには動かない。
動けば、相手が潜る。
潜らせないために、今は“拾う”。
「俺、札屋を探してただけだ」
リオは軽く言う。
軽く言うのは、罠だ。
「札屋は入口だろ」
男が言った。
入口だろ。
知っている。
知っているから言う。
「入口の奥に何があるか、知ってる?」
リオは聞いた。
男は答えない。
答えないのが答えだ。
布屋の奥で、また紙が擦れる音がした。
擦れる音が、二回。
二回擦れるのは、二冊開いている音。
帳面が二冊。
二冊あるなら、一本は偽帳面だ。
偽帳面があるなら、偽札がある。
偽札があるなら、赤点が混ざる。
役所前の赤点は、ここから来た。
リオは男を見た。
「……お前、机の脚、替えた?」
男の眉がわずかに動く。
動いたのは、言葉じゃない。
足だ。
男の足が半歩だけ引く。
引く足は、逃げる足だ。
逃げる足が出たなら、拾える。
リオは笑った。
今度は、笑う。
笑うことで、相手の動きを固定する。
「悪い悪い。冗談だ」
「冗談に見えるなら、そうだな」
男が同じ返しをした。
同じ返しは、癖だ。
癖は、足と同じで変えにくい。
リオはその癖を覚える。
「じゃあな」
リオは背を向ける。
背を向けた瞬間、男の気配が軽くなる。
追ってこない。
追ってこないのは、ここが“守られてる”からだ。
守られてる場所は、机の場所だ。
リオは通りへ出る。
息を切らさない。
息を切らすと、目立つ。
目立つと、潜られる。
潜られないために、息は整える。
役所前の石柱の陰に戻ると、アークが待っていた。
白仮面はまだ。
素の顔で、目だけが鋭い。
「行き先、拾えたか」
アークが聞く。
リオは短く答えた。
「布屋の奥。帳面が二冊。封蝋の欠片」
ミラがすぐに繋げる。
「偽帳面」
アークが頷く。
「机の脚、二本目だ」
二本目。
一本目は札屋。
二本目は布屋。
机は一本じゃない。
机の脚は複数ある。
複数あるから折れにくい。
折れにくいから、狩りが続く。
続くなら、拾い続ける。
アークは息を吐いた。
「今日はここまでだ」
「踏み込まないの?」
ミラが問う。
アークは首を振る。
「踏み込むと、相手が潜る」
「潜ったら、セレナの線が消える」
その言葉に、ミラの瞳が一瞬だけ揺れる。
揺れたのは、怒りじゃない。
焦りだ。
焦りは紙に負ける。
紙に負けないために、焦りは隠す。
「……じゃあ、次は」
リオが言う。
「布屋の机を、どう折る」
アークは答えた。
「机を折る前に、机へ札を運ぶ足を折る」
「足?」
リオが聞き返す。
「足跡」
アークは言った。
「同じ靴跡が、どこから来てどこへ戻るか」
ミラが頷く。
「戻る場所が、巣です」
「巣が分かれば、机は逃げない」
アークは石柱の影から役所を見た。
役所の扉の奥で、また紙が動く音がする。
相手は次を打つ。
なら、こっちも次で足を拾う。
拾って、折る。
机の脚、二本目。
ここまで拾えたなら、折れる日が近い。
紙が当たり前になる前に。
狩りが当たり前になる前に。




