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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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33/45

33.黒点の門



都へ続く街道は、石が乾ききっていなかった。


昨夜の雨が溝に残り、馬の蹄が踏むたびに小さく跳ねる。跳ねた水が裾を濡らす。濡れた布は重い。重いものほど、人は歩幅を揃える。揃った歩幅は、目立たない。


アークは外套の襟を立て、帽子を深くかぶった。

顔を隠すためじゃない。目線を隠すためだ。都では、目線が紙になる。


馬車は使わない。

当主の車輪は、号外に写る。


荷馬車の列に混じる。炭袋の匂い、塩の白、麻のざらつき。強い匂いは人の輪郭を溶かす。溶けた輪郭のまま歩けば、街は「誰だ」を考えない。


やがて、外周の検問が見えた。


石造りの門に鉄柵。兵が二列。人の列と荷の列が分かれている。分けるだけで秩序が生まれる。秩序が生まれると、次に必要になるのは――敵だ。


「次」


兵の声が落ちる。

荷札が渡され、指が走り、すぐ返る。長く見ない。長く見れば、迷いが出る。迷いは“疑い”を呼ぶ。


アークの番が来た。


「通行札」


伸びた手に、アークは紙を差し出した。

わざと新しい紙を使った。古い紙は、触った指の癖が残る。癖は覚えられる。


兵の視線が、札の角で一瞬だけ止まった。


角に、小さな黒点。


汚れのふりをした合図。

見つける人間だけが見つける位置。


兵は何も言わず、札を返す。


「……行け」


門をくぐる。

背中に視線が刺さる。刺さるが追っては来ない。追うのは、狩りが始まってからだ。


都の内側は、匂いが違った。


パンの甘さより蝋の匂いが勝っている。通りの板壁には紙が多い。貼り紙、訂正、通達、号外。紙の数だけ、街の心臓の鼓動が決まる。


アークは人波に溶けたまま、宰相府の裏手へ回った。

正面から入れば名前が要る。裏から入れば番号で済む。番号は人を殺さない。――少なくとも、すぐには。


通用口にも検問がある。

衛兵の目が札の角を拾い、黒点を確認する。確認したことを誰にも言わないまま、短く言った。


「……通れ」


通ってしまった。

それだけで、相手が「点」に従っていることが見える。命令書より点が強い。強いものほど、言葉にしない。


廊下の先、会議室の扉は閉じている。

扉の向こうは静かだ。声がないのではない。声を紙にしない静けさだ。


アークは叩かない。

叩けば訪問の記録になる。


代わりに、近くの文官へ声を落とした。


「宰相に伝えろ。港の件で、黒点の札が揃っている」


文官の瞳がわずかに揺れた。

驚きではない。“見られた”揺れだ。


「……承りました」


文官が扉へ寄り、短く告げる。

扉が開いた。


会議室の空気は乾いていた。

香を焚かない空気。感情が動く余地を削った空気。


長机の端に宰相が座っている。

穏やかな顔。穏やかなまま、人の名を消せる顔。


宰相の隣に、若い文官が一人。

背筋が真っ直ぐで、指先だけが落ち着かない。


――リオ。


アークは顔で確信しない。

立ち方で確信する。あの立ち方は、誰かの指示を待つ立ち方だ。


宰相が口を開く。


「公爵殿が、こうして都へ来るとは」


敬意の形をした言葉。

形だけの敬意は刃に近い。


アークは帽子の影のまま言った。


「港の名簿から、流通監督官の名が消えた」


宰相は眉ひとつ動かさない。


「整理しただけです」


「整理の仕方が同じだ」


アークは言葉を短くする。

長くすれば、論点がずれる。ずれた瞬間、紙が勝つ。


「通達にも訂正にも札にも、黒点がある。揃えろと言ったのは誰だ」


宰相の指が、机の上の紙に触れた。

紙の端。黒点の位置。


「点は便利です」


宰相は淡々と告げる。


「言葉にしなくていい。合図だけで人が動く」


「人が弾かれる」


「弾かれるのは、混乱です」


嘘ではない。

嘘ではないから始末が悪い。信念は正しさの顔をして、人を押し潰す。


アークは一歩だけ前に出た。


「セレナの行き先は」


宰相の視線が初めて紙から外れる。

アークに向かって、すぐ逸れる。逸れるのは、痛点を知っているからだ。


「書けない、と判断しました」


「誰が判断した」


宰相は答えない。

代わりに、隣の若い文官へ視線を投げた。投げられた視線を、男が受け取る。


リオが口を開いた。


「……現場の火種を増やさないためです」


声は落ち着いている。

落ち着いているのに、指先だけがわずかに強張る。


アークはその指先を見た。

印章台を扱う指の形ではない。だが――恐れていない。

紙の上で、恐れを隠せる指だ。


「火種は、消しても残る」


アークが言うと、宰相が小さく頷いた。


「だから形を整えるのです。秩序のために」


秩序。

その言葉の下で、名が消える。


アークは声を低くした。


「秩序は、紙だけでは保てない」


宰相が穏やかなまま返す。


「では、公爵殿は何で保つおつもりです?」


アークは答えた。


「俺が、紙になる」


会議室の空気が一瞬だけ止まった。

驚きではない。計算の音が止まる。


宰相の目が細くなる。


「……面白い」


褒め言葉ではない。

“使えるか”の目だ。


リオの視線が、ほんの一瞬だけ刺さって、すぐ外れる。

刺さった視線に迷いが混じっている。


迷いは、後で裏切りになる。

だから――今は見なかったふりをする。


宰相が言った。


「ここで血を流せば、都はあなたを“敵”にできます」


アークは顔色を変えない。

脅しではない。事実だ。


「血は出さない」


短く言い切る。


宰相は頷いた。


「では、交渉しましょう。紙の上で」


「紙の上でいい」


アークは続けた。


「ただし、俺の紙だ」


宰相の指が黒点の上で止まる。

止まったまま、穏やかに言った。


「気づいていないと思いましたか」


アークは答えない。


宰相は、穏やかなまま続ける。


「止めれば、私が汚れる。止めなければ、あなたが削れる」


削れる。

言い換えない。言い換えないから、宰相は信念だ。


アークは帽子の影のまま言った。


「削れるのは俺でいい」


宰相は小さく笑った。声は出さない。


「……では、行きなさい。公爵殿」


その言い方が、許可だった。

許可という形をした放流だ。


アークは踵を返す。

会議室を出る直前、リオの指先が机の木目を一度だけなぞった。

なぞって、すぐ戻す。


小さすぎる動き。

だが、見つける人間だけが見つける動き。


――都でも合図が回っている。


廊下に出た瞬間、空気が少しだけ重くなった。

重いのは圧ではない。記録だ。ここは言葉が残る場所だ。


アークは文官用の通路へ曲がる。

見張りはいる。見張りはいるが、見張りは“中身”を見ない。見ないように作られている。見た瞬間、誰かの手が汚れるからだ。


狭い部屋に案内される。

机、ランプ、そして、厚い台帳。


台帳の表紙に、黒点がある。

黒点が“揃っている”。


立会いの文官が一人だけ立っていた。

年配の男。目が乾いている。手続きだけを生きてきた目だ。


「手続き番号を」


文官が言う。


アークは札を出す。

文官は黒点の位置を見て、番号だけを書き写す。中身は見ない。見れば責任になる。


「……立会い、承りました」


文官は机の端に置かれた小さな砂時計を返した。

砂が落ちきるまでの時間が、ここで許される時間だ。


アークは台帳を開く。

頁は重い。重い頁は、人生の重さだ。


名簿の欄。

港の更新欄。

そこに、黒点と同じ位置の印がある。


――台帳が“終わり”を求めている。


アークは息を吸った。

吸って、吐く。


そして、自分の指先を見た。

指先が、怖がっていないことを確かめる。


怖がったら、押せない。

押せないなら、国が割れる。


印章台の下から、薄い刻印具を取り出す。

形は派手じゃない。派手にすれば、民が真似する。真似された瞬間、制度が死ぬ。


アークは刻印具を押し当てた。


押し当てた瞬間、掌に冷たさが刺さる。

刃物の冷たさではない。記憶が削られる冷たさだ。


紙の匂いが濃くなる。

インクの匂いではない。湿った繊維の匂い。手続きの匂い。


砂が落ちる音だけが聞こえる。


――更新、凍結。


アークはそう“読んだ”。

読むだけで、もう戻れない。


刻印具を離す。

文官が何も言わず、番号の欄に線を引いた。線を引くだけで“成立”する。成立した瞬間、誰かの腹が救われ、誰かの狩りが止まらない。


アークは台帳を閉じる。

閉じた表紙の黒点が、薄く滲んで見えた。


目が疲れたのではない。

滲んだのは、記憶のほうだ。


アークは自分の名前を、胸の中で一度だけ呼んだ。

呼んで、確かめる。


――まだ、ある。


まだ、あるうちに終わらせる。


部屋を出る。


廊下の角で、文官が小さく言った。


「公爵殿。……今夜の紙が、変わります」


アークは立ち止まらない。


「変わるなら、それでいい」


変われば、狩りは加速する。

変わらなければ、腹が死ぬ。


この国は、いつも二択だ。


宰相府の白い壁を背に、アークは人波へ戻った。

戻った瞬間、名前を捨てる。番号のまま歩く。


帽子の影に、都の光が滑る。


影に溶けるのは、白ではない。

まだ“俺”だ。


ただ――手の中の冷たさだけが、しつこく残っていた。


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