33.黒点の門
都へ続く街道は、石が乾ききっていなかった。
昨夜の雨が溝に残り、馬の蹄が踏むたびに小さく跳ねる。跳ねた水が裾を濡らす。濡れた布は重い。重いものほど、人は歩幅を揃える。揃った歩幅は、目立たない。
アークは外套の襟を立て、帽子を深くかぶった。
顔を隠すためじゃない。目線を隠すためだ。都では、目線が紙になる。
馬車は使わない。
当主の車輪は、号外に写る。
荷馬車の列に混じる。炭袋の匂い、塩の白、麻のざらつき。強い匂いは人の輪郭を溶かす。溶けた輪郭のまま歩けば、街は「誰だ」を考えない。
やがて、外周の検問が見えた。
石造りの門に鉄柵。兵が二列。人の列と荷の列が分かれている。分けるだけで秩序が生まれる。秩序が生まれると、次に必要になるのは――敵だ。
「次」
兵の声が落ちる。
荷札が渡され、指が走り、すぐ返る。長く見ない。長く見れば、迷いが出る。迷いは“疑い”を呼ぶ。
アークの番が来た。
「通行札」
伸びた手に、アークは紙を差し出した。
わざと新しい紙を使った。古い紙は、触った指の癖が残る。癖は覚えられる。
兵の視線が、札の角で一瞬だけ止まった。
角に、小さな黒点。
汚れのふりをした合図。
見つける人間だけが見つける位置。
兵は何も言わず、札を返す。
「……行け」
門をくぐる。
背中に視線が刺さる。刺さるが追っては来ない。追うのは、狩りが始まってからだ。
都の内側は、匂いが違った。
パンの甘さより蝋の匂いが勝っている。通りの板壁には紙が多い。貼り紙、訂正、通達、号外。紙の数だけ、街の心臓の鼓動が決まる。
アークは人波に溶けたまま、宰相府の裏手へ回った。
正面から入れば名前が要る。裏から入れば番号で済む。番号は人を殺さない。――少なくとも、すぐには。
通用口にも検問がある。
衛兵の目が札の角を拾い、黒点を確認する。確認したことを誰にも言わないまま、短く言った。
「……通れ」
通ってしまった。
それだけで、相手が「点」に従っていることが見える。命令書より点が強い。強いものほど、言葉にしない。
廊下の先、会議室の扉は閉じている。
扉の向こうは静かだ。声がないのではない。声を紙にしない静けさだ。
アークは叩かない。
叩けば訪問の記録になる。
代わりに、近くの文官へ声を落とした。
「宰相に伝えろ。港の件で、黒点の札が揃っている」
文官の瞳がわずかに揺れた。
驚きではない。“見られた”揺れだ。
「……承りました」
文官が扉へ寄り、短く告げる。
扉が開いた。
会議室の空気は乾いていた。
香を焚かない空気。感情が動く余地を削った空気。
長机の端に宰相が座っている。
穏やかな顔。穏やかなまま、人の名を消せる顔。
宰相の隣に、若い文官が一人。
背筋が真っ直ぐで、指先だけが落ち着かない。
――リオ。
アークは顔で確信しない。
立ち方で確信する。あの立ち方は、誰かの指示を待つ立ち方だ。
宰相が口を開く。
「公爵殿が、こうして都へ来るとは」
敬意の形をした言葉。
形だけの敬意は刃に近い。
アークは帽子の影のまま言った。
「港の名簿から、流通監督官の名が消えた」
宰相は眉ひとつ動かさない。
「整理しただけです」
「整理の仕方が同じだ」
アークは言葉を短くする。
長くすれば、論点がずれる。ずれた瞬間、紙が勝つ。
「通達にも訂正にも札にも、黒点がある。揃えろと言ったのは誰だ」
宰相の指が、机の上の紙に触れた。
紙の端。黒点の位置。
「点は便利です」
宰相は淡々と告げる。
「言葉にしなくていい。合図だけで人が動く」
「人が弾かれる」
「弾かれるのは、混乱です」
嘘ではない。
嘘ではないから始末が悪い。信念は正しさの顔をして、人を押し潰す。
アークは一歩だけ前に出た。
「セレナの行き先は」
宰相の視線が初めて紙から外れる。
アークに向かって、すぐ逸れる。逸れるのは、痛点を知っているからだ。
「書けない、と判断しました」
「誰が判断した」
宰相は答えない。
代わりに、隣の若い文官へ視線を投げた。投げられた視線を、男が受け取る。
リオが口を開いた。
「……現場の火種を増やさないためです」
声は落ち着いている。
落ち着いているのに、指先だけがわずかに強張る。
アークはその指先を見た。
印章台を扱う指の形ではない。だが――恐れていない。
紙の上で、恐れを隠せる指だ。
「火種は、消しても残る」
アークが言うと、宰相が小さく頷いた。
「だから形を整えるのです。秩序のために」
秩序。
その言葉の下で、名が消える。
アークは声を低くした。
「秩序は、紙だけでは保てない」
宰相が穏やかなまま返す。
「では、公爵殿は何で保つおつもりです?」
アークは答えた。
「俺が、紙になる」
会議室の空気が一瞬だけ止まった。
驚きではない。計算の音が止まる。
宰相の目が細くなる。
「……面白い」
褒め言葉ではない。
“使えるか”の目だ。
リオの視線が、ほんの一瞬だけ刺さって、すぐ外れる。
刺さった視線に迷いが混じっている。
迷いは、後で裏切りになる。
だから――今は見なかったふりをする。
宰相が言った。
「ここで血を流せば、都はあなたを“敵”にできます」
アークは顔色を変えない。
脅しではない。事実だ。
「血は出さない」
短く言い切る。
宰相は頷いた。
「では、交渉しましょう。紙の上で」
「紙の上でいい」
アークは続けた。
「ただし、俺の紙だ」
宰相の指が黒点の上で止まる。
止まったまま、穏やかに言った。
「気づいていないと思いましたか」
アークは答えない。
宰相は、穏やかなまま続ける。
「止めれば、私が汚れる。止めなければ、あなたが削れる」
削れる。
言い換えない。言い換えないから、宰相は信念だ。
アークは帽子の影のまま言った。
「削れるのは俺でいい」
宰相は小さく笑った。声は出さない。
「……では、行きなさい。公爵殿」
その言い方が、許可だった。
許可という形をした放流だ。
アークは踵を返す。
会議室を出る直前、リオの指先が机の木目を一度だけなぞった。
なぞって、すぐ戻す。
小さすぎる動き。
だが、見つける人間だけが見つける動き。
――都でも合図が回っている。
廊下に出た瞬間、空気が少しだけ重くなった。
重いのは圧ではない。記録だ。ここは言葉が残る場所だ。
アークは文官用の通路へ曲がる。
見張りはいる。見張りはいるが、見張りは“中身”を見ない。見ないように作られている。見た瞬間、誰かの手が汚れるからだ。
狭い部屋に案内される。
机、ランプ、そして、厚い台帳。
台帳の表紙に、黒点がある。
黒点が“揃っている”。
立会いの文官が一人だけ立っていた。
年配の男。目が乾いている。手続きだけを生きてきた目だ。
「手続き番号を」
文官が言う。
アークは札を出す。
文官は黒点の位置を見て、番号だけを書き写す。中身は見ない。見れば責任になる。
「……立会い、承りました」
文官は机の端に置かれた小さな砂時計を返した。
砂が落ちきるまでの時間が、ここで許される時間だ。
アークは台帳を開く。
頁は重い。重い頁は、人生の重さだ。
名簿の欄。
港の更新欄。
そこに、黒点と同じ位置の印がある。
――台帳が“終わり”を求めている。
アークは息を吸った。
吸って、吐く。
そして、自分の指先を見た。
指先が、怖がっていないことを確かめる。
怖がったら、押せない。
押せないなら、国が割れる。
印章台の下から、薄い刻印具を取り出す。
形は派手じゃない。派手にすれば、民が真似する。真似された瞬間、制度が死ぬ。
アークは刻印具を押し当てた。
押し当てた瞬間、掌に冷たさが刺さる。
刃物の冷たさではない。記憶が削られる冷たさだ。
紙の匂いが濃くなる。
インクの匂いではない。湿った繊維の匂い。手続きの匂い。
砂が落ちる音だけが聞こえる。
――更新、凍結。
アークはそう“読んだ”。
読むだけで、もう戻れない。
刻印具を離す。
文官が何も言わず、番号の欄に線を引いた。線を引くだけで“成立”する。成立した瞬間、誰かの腹が救われ、誰かの狩りが止まらない。
アークは台帳を閉じる。
閉じた表紙の黒点が、薄く滲んで見えた。
目が疲れたのではない。
滲んだのは、記憶のほうだ。
アークは自分の名前を、胸の中で一度だけ呼んだ。
呼んで、確かめる。
――まだ、ある。
まだ、あるうちに終わらせる。
部屋を出る。
廊下の角で、文官が小さく言った。
「公爵殿。……今夜の紙が、変わります」
アークは立ち止まらない。
「変わるなら、それでいい」
変われば、狩りは加速する。
変わらなければ、腹が死ぬ。
この国は、いつも二択だ。
宰相府の白い壁を背に、アークは人波へ戻った。
戻った瞬間、名前を捨てる。番号のまま歩く。
帽子の影に、都の光が滑る。
影に溶けるのは、白ではない。
まだ“俺”だ。
ただ――手の中の冷たさだけが、しつこく残っていた。




