32.都が回す
屋敷の朝は、静かすぎた。
廊下の絨毯は音を吸う。扉の蝶番は油を差してある。使用人の足取りは、いつもなら呼吸みたいに気づかないのに――今日は、気づく。気づいてしまうほど、みんなが距離を取っている。
ミラは中庭を横切りながら、手の中の紙束を握り直した。
紙は薄い。だが薄いほど、人を切れる。
裏口の前に、門番が立っていた。視線が鋭い。だが刃ではなく、迷いの鋭さだ。
「……入る」
ミラが言うと、門番は一拍遅れて頷いた。
「お嬢さん。今日から“ご当主に近づく者”は記録すると、上から」
“上から”。
誰の上か、言わない。言わないから、紙は強い。
ミラは答えず、通り抜けた。
屋敷の奥――当主の執務室へ向かう階段の手前に、重臣が二人立っていた。顔を合わせても、言葉が出ない。出せない。名を呼べば、その名が紙になるからだ。
ミラは頭を下げた。
重臣の片方が、喉を鳴らすように言った。
「……流通監督官は」
ミラは一度息を吸った。
「“一時保護”です」
言い終えた瞬間、空気が少し冷たくなる。
保護。優しい言葉のまま、人が消える。
重臣は視線を床に落とした。そこには何もない。何もないのに、見ないといけないものがある顔だ。
「……ご当主に、これ以上近づくな。君も紙にされる」
ミラは頷いた。
頷くしかない。頷いた瞬間、もう半分紙だ。
それでも、来た。
来ないと、セレナが消える。
ミラは階段を上がり、執務室の扉の前で立ち止まった。ノックはしない。ここでは、音が記録になる。
代わりに、短く声をかけた。
「ミラです」
中で、椅子が僅かに鳴った。
それだけで、いると分かる。
「……入れ」
声は低い。寝不足の低さではない。眠る必要を捨てた低さだ。
ミラは扉を開け、入り、音を立てないように閉めた。
執務室は整いすぎていた。机の上の紙はすべて角が揃っている。一本の罫線も乱れていない。揃えすぎた整い方は、逆に傷に見える。
当主は机の端に肘をつき、紙をめくっていた。
アークは顔を上げた。目の下が薄く影になっているのに、目は濁っていない。濁らせる暇がない目だった。
「……何が来た」
ミラは紙束を机の端へ置いた。置き方は揃えない。揃えれば、“この紙が大事”だと伝わってしまう。
「港の掲示板から剥がしたものです。印の押し方が、同じでした」
アークの指が伸び、紙の角に触れ――そこで止まった。
止まったのは一瞬だ。だがミラは見逃さない。
その指先が、紙に触れることを“確かめる”みたいに迷った。
「……同じ、とは」
「黒い点です」
ミラは言葉を選んだ。抽象に逃げないために。
「印の横。小指の先ほどの黒点が一つ。港の札にも、役所の通達にも、同じ場所にあります」
アークが紙を裏返した。
黒点。確かにある。滲みではない。筆でもない。押しつけた“点”だ。
「わざとだな」
「はい。見つける人間だけが見つける、合図です」
ミラは紙束の中からもう一枚を抜いた。
「これは“訂正”です。号外が先に走って、あとから役所が丁寧に打ち消す。……書式も、語尾も、同じです」
アークの視線が紙面を走る。
視線の走り方が速い。数字と規則を読む目だ。
それなのに、ミラが次の紙を出した瞬間――また指が止まった。
セレナの名が書いてある。
「流通監督官セレナ・フォルス 一時保護」
行き先の欄は空白だ。
アークは、その空白を見つめた。見つめたまま、口を開いた。
「……フォルス」
呼び方が、苗字だけだった。
ミラの胸が詰まる。呼べないのではない。呼ばない。呼ばないほうが守れるからだ。
アークは、空白の欄を指でなぞらなかった。なぞれば、そこが痛いと認めることになる。
代わりに、紙の角を一度だけ指で叩いた。
小さな音。
「この札は、逃亡を示さない」
ミラが言う。
アークの眉が僅かに動く。
「……どういう意味だ」
「逃げた人間なら、“行き先不明”と書けます。追うために。狩るために」
ミラは続けた。
「でもこれは、書けない。書けば、守っている場所が紙になる。……だから空白です」
アークは目を伏せた。
伏せた瞬間だけ、まぶたが重く見えた。眠いからじゃない。堪えるからだ。
「都が回している」
アークが言った。
「港だけじゃない。……印の合図も、訂正の型も、同じだ。都が回して、港が従っている」
ミラは頷いた。
「今朝、もう一枚出ました。港の“名簿”です」
ミラは一番薄い紙を出す。薄いのに、硬い。
そこには配給対象者の一覧が書かれている。整いすぎた文字で。
アークの視線が一行で止まった。
セレナの名がない。
ミラは言う。
「削られていました。昨日まで載っていたのに」
アークは何も言わなかった。言えなかったのではない。言わなかった。言葉にした瞬間、狩りの道具になるからだ。
代わりに、アークは机の引き出しを開けた。
中から出てきたのは、金属の小さな器具だった。印章台の一部。磨き上げられているのに、端だけ黒い。
ミラの喉が小さく鳴る。
アークは器具を見せるために出したわけではない。確かめるために出した。手元の癖のように。
「……都へ行く」
アークが言った。
ミラは息を止めた。
「いま行けば、“ご当主が動いた”と紙になります」
「だから行く」
アークは顔を上げた。
「紙になるのは、俺でいい」
ミラは言葉を探した。探して、見つけたのは現場の言葉だ。
「血は出さないでください」
アークの目が、僅かに柔らかくなる。目元だけが優しいときがある――セレナが言っていた顔だ。
「……分かっている」
アークは器具を引き出しに戻し、指で角を揃えた。
揃える動作が自然すぎて、ミラの胸が痛む。
覚えていないのに、身体が覚えている。
ミラは言った。
「都へ行くなら、まず“どこが回しているか”を見つけないと」
「宰相府だ」
言い切ったあと、アークの声が僅かに乾いた。
確信ではなく、覚悟の乾きだ。
「女王の前で、話が通ると思いますか」
ミラが問うと、アークは一拍置いた。
置いた一拍が、少し長い。
「……女王は善だ」
ミラは驚いた。善悪を口にする人じゃない。
「善だからこそ、宰相に預ける。預けたまま、見ない」
アークは紙束の上に手を置き、言葉を続けた。
「善は、信念に負ける」
その言い方が、敗北を知っている口だった。
ミラは頷いた。
「じゃあ、私は何をすればいいですか」
アークはミラを見た。
その目がミラを見ているのに、どこか一瞬、焦点がずれる。
――名前で結びついていない目。
ミラは、胸の奥で息を止めた。
アークが言う。
「ミラ。港を守れ」
ミラは反射で答えそうになって、飲み込んだ。
“はい”は誓約に近い。
誓約は紙になる。
ミラは代わりに、短く言った。
「分かりました。現場を守ります」
アークが頷いた。
頷いた瞬間、アークの視線が机の上の空白へ戻る。
セレナの行き先が書けない空白へ。
「……フォルス」
また苗字だけが落ちる。
ミラは胸の奥が痛んだまま、目を逸らさなかった。
痛みを逸らしたら、紙が勝つ。
*
同じ時刻、都。
宰相府の会議室は、香を焚かない。香は感情を動かすからだ。ここでは感情より手続きが強い。
長い机。磨かれた椅子。窓から入る光が白い。白い光は、影を濃くする。
「北の線は?」
宰相が問う。
声は穏やかだった。穏やかだから、命令が音にならない。
文官が立ち、紙を開く。
「遅延は軽微。配給は予定通り。混乱は収束傾向です」
宰相は頷く。
「“収束”と書けるなら、収束する」
誰も笑わない。笑う必要がない。
「港の名簿は」
別の文官が紙を差し出す。
「整理済みです。不要な名は消しました」
宰相は紙を受け取り、黒点の位置に指を置いた。
小指の先ほどの点。
「いい。点は揃えろ」
文官が頷いた。
点を揃える。狩りの道具を揃える。
「女王陛下への報告は」
宰相が問うと、文官が答える。
「“混乱を避けるため”で統一します。陛下は、その言葉なら許されます」
宰相は一拍置いた。
その一拍は、信念の重さだ。
「許されるのではない。必要だ」
宰相は淡々と言う。
「混乱は、国を割る。国が割れれば、飢える。飢えれば、民は互いを裂く」
文官が頷く。紙が頷く。
「だから、誰かを必要とする」
宰相の目が、窓の外の街を見た。
見ているのは民ではない。流れだ。狩りの流れだ。
「狩りが始まる前に、狩りの相手を決める。決めなければ、民は勝手に決める」
言葉が冷たいのに、悪意はない。
悪意がない信念は、いちばん止めにくい。
文官が小さく言う。
「公爵家が動く恐れがあります」
宰相は目を伏せない。
「動くなら、動かせ」
文官が息を飲む。
「……狩りの相手に?」
宰相は首を振った。
「相手にするな。相手にすれば、物語が強くなる」
宰相は紙束を揃え、角を一度だけ叩いた。
小さな音。
「彼は、紙にする」
文官が頷く。
紙が頷く。
「公爵が“善”を名乗れば、民は迷う。迷いは長引く。長引けば割れる」
宰相は淡々と続けた。
「だから、彼には悪を被せる。悪を被せれば、善は楽になる」
その言葉は、正しい。正しすぎて、息が詰まる。
「陛下の御前会議は、今夜」
文官が告げる。
宰相は頷いた。
「女王には、善でいていただく」
善でいていただく。
それは敬語の形をした命令だった。
*
その頃、屋敷。
ミラは執務室を出て、扉を閉めた。
廊下は相変わらず静かで、静かすぎて、音が目立つ。
ミラは一歩目で、足を止めた。
自分の手が震えている。
震えを叱らない。叱れば動けなくなる。
ミラは紙束を抱え直し、呟いた。
「……この街は、いま“誰か”を必要としてる」
誰かを指させば、みんなが楽になる。
楽になるための紙が、もう走っている。
ミラは歩き出した。
港へ戻るために。
現場を守るために。
そして――誰にも知られずに、名を守るために。
廊下の角で、使用人とすれ違う。
使用人は目を逸らした。逸らした目が、紙の勝利の小さな形に見えた。
ミラは逸らさなかった。
逸らさないまま、息を吸う。
息を吐く。
それだけで、今日はまだ紙になっていない。
ミラは階段を下りた。
都が回すなら、港は飲まれる。
飲まれないために、現場の手を残す。
手が残れば、真実は遅れてでも来る。
ミラは自分に言い聞かせるように呟いた。
「……遅れて来るほうを、守る」
その言葉だけは、紙にしたくなかった。




