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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
紙が先に走る

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25.布を捨てる手



捨て布は、すぐには消えない。


紙は貼られれば人の目に入る。

けれど、紙を拭いた布は、仕事の終わりまで残る。

だから、先に追うなら布の方がいい。


ミラは裏通りを一本外れ、朝の荷が集まる細道へ出た。


桶屋、炭屋、油屋。

開きかけの戸の間を、人がまだ半分眠った顔で行き来している。

その中で、さっきの女だけが歩幅を変えない。


急いでいるのに、急いで見せない歩き方だった。


女は捨て布の束を抱えたまま、表の通りへは出ない。

人目の多い道を避け、店の裏手だけをつないで進む。


ミラは距離を取り、角ごとに一度だけ姿を見た。

追いつかない。離れすぎない。

見失ったと思わせる間を、わざと作る。


女は小さな木戸の前で止まった。


看板は出ていない。

表から見れば、油屋の倉の脇口にしか見えない。

だが、戸の下に黒い水が細く流れていた。

洗い場がある。


女は戸を二度叩き、間を置いて一度叩く。

中から返事はない。

そのまま戸が開いた。


ミラは角の石壁に寄り、視線を落としたまま耳を使う。


「早いね」

中の声は女の声だった。年配。乾いた声。


「朝の分が多い」

捨て布の女が答える。

「赤が出た」


赤。


ミラの指先がわずかに動く。

印台の汚れだ。


中の女が舌打ちに近い息を吐く。


「まとめてから持ってきな」

「小分けで来ると、目につく」


「今日は先に片づけろって言われたんだよ」

捨て布の女の声が少しだけ荒くなる。

「広場が騒ぐ前にって」


広場が騒ぐ前に。


ミラは顔を上げないまま、石壁の欠けを見つめた。

言葉だけを頭の中に置く。


戸が閉まる。

木の擦れる音。桶を引く音。水を捨てる音。

そのあと、布を絞る重い音が続いた。


洗い場だ。

ただの洗い場なら、それで終わる。


だが、すぐに別の音が混じった。

紙を払うような、乾いた擦れ音。


ミラは壁から離れず、通りを横切る男の影に合わせて半歩ずれた。

戸の隙間は見えない。

見えなくていい。いま欲しいのは中身じゃない。


誰が出入りしているかだ。


しばらくして、若い男が木戸から出てきた。

腕には空の籠。籠の底に黒い布が一枚だけ残っている。

洗い場の手伝いにも見える。だが、靴が新しい。

裏仕事の汚れ方じゃない。


男は左右を見ずに、そのまま北へ向かった。

役所の裏手へ抜ける道だ。


ミラは追わない。


先に動いたのは、木戸の内側の年配の女の方だった。

戸を少しだけ開け、通りへ捨て水を流す。

そのついでみたいに、周りを見る。


見る順番が、店の女の順番じゃない。

通りの角、屋根の影、足元。

見張りの順番だ。


ミラは井戸の縄を直すふりでしゃがみ、視線を伏せた。


戸がまた閉まる。


ここで顔を見に行けば、次から戸が変わる。

名前を取りに行けば、今日で線が切れる。


ミラはゆっくり立ち上がり、通りの反対側へ渡った。

ちょうど、野菜籠を抱えた娘が通る。

その影に体を重ねる。


木戸の横の壁に、細い黒い筋があった。

水の跡に見える。

だが、高さが揃いすぎている。


布を干していた跡だ。


黒布だけじゃない。

赤が出たと言っていた。

印台を拭いた布もここへ来る。


ミラはそこで、朝の井戸端の女の手を思い出した。

縄の締め方が早かった。迷いがなかった。

“捨てる人”じゃない。

回している手つきだった。


角を曲がった先で、ミラは足を止めずに小さく息を吐く。


捨て布は終点じゃない。

中継だ。


紙を作る場所。

紙を配る場所。

紙を読ませる場所。


その間に、痕を洗う場所がある。


名簿そのものを見なくても、

名簿を触った布を追えば、手順の一部は拾える。


ミラは屋敷へ戻る道を選ばず、一本だけ南へ折れた。

まだ朝の刻だ。相手は動いている。


もう一つ、確かめたいことがある。


木戸の前で交わされた言葉。

「広場が騒ぐ前に」


紙が出る前に、広場の騒ぎ方まで見込んでいる。

なら、洗い場は後始末じゃない。

朝を作る手順の中にある。


通りの先で、さっきの若い男が見えた。

役所裏へは行かず、途中の乾物屋の脇で姿を消す。


ミラは追わず、建物だけを見る。


乾物屋。

表の顔は普通だ。

けれど、裏道に抜ける戸が二つある。

荷の出入りと、人の出入りを分けられる造りだ。


ミラの目が細くなる。


表に店。

裏に木戸。

洗い場。

乾物屋の脇口。


線はまだ細い。

でも、細い線ほど切らずに持ち帰る価値がある。


広場の方から、誰かの大きな声が上がった。

紙を読んだ声じゃない。

読まれる前に置かれる声だ。


ミラは歩きながら、外套の袖口を押さえる。

指先にまだ井戸水の冷たさが残っていた。


口を開かせた相手を、紙に渡さない。

まずはそれが先だ。


その上で、布の後ろにいる“紙抱え”へ繋ぐ。


ミラは振り返らない。


朝の街はもう動いている。

なら、止めるなら紙の上じゃない。


紙になる前の手順を、ひとつずつ外していく。

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