表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
紙が先に走る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/157

26.帳簿係の靴音



朝の騒ぎは、長くは続かない。


人は仕事に戻る。

怒りも噂も、いったん手を止めれば薄くなる。

だから、紙を動かす側はその前に次の手を打つ。


ミラは乾物屋の裏道から半町ほど離れた角で、壁に寄っていた。


追うのは若い男だ。

木戸から出て、乾物屋の脇へ消えた、靴の新しい男。


すぐには動かない。

こういう男は、後ろを見る。

見られている前提で使われている歩き方をしていた。


案の定、男は乾物屋の脇口から出る前に一度だけ間を置いた。

戸の影に半身を残し、通りの音を聞く。

目より先に耳を使う人間だ。


ミラは視線を落とし、荷縄を直す女のふりを続けた。


男が出てくる。


腕には今度は籠がない。

代わりに、薄い帳面を脇に挟んでいた。

表紙は茶。町の店でも使う安い紙だ。

だが、持ち方が違う。


落とさない持ち方じゃない。

折らない持ち方だ。


男は北へ向かわず、南へ折れた。

市場の外れ、帳場持ちの商家が並ぶ通りだ。


ミラは二軒分遅れて歩く。

足音を合わせない。

同じ速さで追うと、背中はすぐに覚えられる。


男は豆問屋の前を過ぎ、染め物屋の裏戸を横目で見て、最後に細い石段の前で止まった。

石段の上には小さな札が掛かっている。


《帳付け・荷改め》


店の名じゃない。

仕事の名だけ書いた札だ。


ミラの目が細くなる。


男は戸を叩かずに入り、中へ消えた。


表から見れば、帳簿の代書屋か、荷札の書き付けを請ける小仕事場に見える。

こういう店は珍しくない。

珍しくないから、隠れやすい。


ミラは通り過ぎるふりで、石段の縁を見る。


泥が少ない。

出入りはあるのに、荷の重さの跡が薄い。

紙仕事の店だ。


戸の脇に置かれた木箱は二つ。

ひとつは墨壺の汚れ。

もうひとつは角に赤い染み。


印台を拭いた跡に似ていた。


ミラは通りを渡り、向かいの軒下へ入る。

干した布の陰から、戸を半分だけ見える位置だ。


しばらくして、別の男が来た。


年配。

背は高くない。外套は地味。靴の踵だけ減り方が揃っている。

歩幅を変えない人間の靴だ。


男は石段を上がる前に、通りの端を一度だけ見た。

見る順番が短い。慣れている。

それでいて、見張りほど露骨じゃない。


戸が開く。

中から、さっきの若い男が顔だけ出す。


「早いですね」


若い男が言う。

年配の男は答えない。

代わりに、脇に挟んだ薄い帳面を差し出した。


ミラの指先が止まる。


帳面は同じ形だ。

表紙は茶。

端に青い線が一本、引かれている。


配給札で見た線の色と同じだ。


中へ入る直前、年配の男が低く言った。


「“フォルス”はどうした」


若い男の肩がわずかに上がる。


「今朝は南を先に回しました」

「北は昼に寄せます」


“フォルス”。


聞き覚えのある呼び方ではない。

だが、名簿の内側でしか使わない言い方だと、ミラには分かった。


人の名を、そのまま呼ばない。

役目か、分類か、処理の符丁で呼ぶ。

そういう場所の言葉だ。


戸が閉まる。


ミラは息を浅くする。

いまので十分だ。

十分なのに、足は前へ出たがる。


帳面。

青い線。

フォルス。

南を先に回す。

北を昼に寄せる。


紙の配り方じゃない。

人の動かし方の言葉だ。


石段の下に、短い木片が落ちていた。

戸を開けたときに、箱の上から落ちたらしい。


ミラは通りを横切る荷車の影に合わせてしゃがみ、木片を拾う。

ただの焚き付けに見える大きさだ。


だが、片面に墨が残っていた。


《南一/先》

《北/昼》


走り書きの指示だ。

帳面に書く前の、手元の順番。


ミラは木片を袖の内へ滑らせた。

ここで読み返さない。

手元を見る時間が長いと、見ているものが相手に伝わる。


戸の中で、かすかに紙をめくる音が続く。

そのあと、木のへらで角を揃える音。


若い男がまた出てくる。

今度は空身だ。

帳面は中に置いてきた。


男は石段を下りると、通りの反対側を見た。

ミラのいる軒下は見ない。

見ないまま、靴先だけが一瞬止まる。


気づかれてはいない。

だが、警戒の刻に入った。


ミラは布の陰で視線を落としたまま、頭の中で言葉を並べる。


乾物屋の裏。

洗い場。

帳付けの店。

青線の帳面。

“フォルス”。


名簿そのものは見ていない。

それでも、消す手順の外側は見えてきた。


名を消すのは、刃物じゃない。

順番だ。

どこで洗い、どこで書き換え、どこへ先に回すか。


セレナの名も、同じ手順に触れられた可能性がある。


まだ断じるには足りない。

けれど、疑いを外すには揃いすぎていた。


戸が三度、内側から鳴る。

合図だろう。

若い男はそれを聞くと、すぐに歩き出した。

今度は港の方角だ。


ミラは追わない。


今日は線を増やす日だ。

一本を噛んで離さない日じゃない。


代わりに、石段の札をもう一度だけ見た。


《帳付け・荷改め》


表の顔としては、よく出来ている。

書けば仕事に見える。

仕事に見えれば、誰も順番を疑わない。


ミラは通りを離れながら、小さく息を吐く。


次は、ここに出入りする靴の数を数える。

紙の枚数じゃない。

帳面を運ぶ人間の、朝と昼の差を拾う。


広場の方から、また声が上がった。

紙を読む前に置かれる、最初の声だ。


ミラは振り返らない。


紙は表で走る。

でも、紙を走らせる順番は、こういう裏の戸で決まる。


その順番を、ひとつずつ剥がしていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ