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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
紙が先に走る

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24.捨て布の黒



裏通りの朝は、店が開く前の匂いで分かる。


湿った石、残り火、古い油。

その中に、墨を擦ったあとの乾いた匂いが混じっていた。


ミラは足を止めず、通りの端を歩いた。

顔を上げすぎない。見たい場所ほど、先に見ない。


表の通りでは、役所の掲示板に新しい紙が打たれ始める刻だ。

人の目はそっちへ向く。

だから、裏の手は少しだけ雑になる。


雑になる瞬間だけを拾えばいい。


角を曲がると、洗い場の脇に布が積まれていた。

捨て布だ。

帳場や印台を拭いたあとに出る、黒ずんだ端布が縄でまとめられている。


洗い桶の横では、女が一人、腕まくりをしていた。

年は四十前後。髪は布でまとめて、手の甲に黒い汚れが残っている。

水仕事の女に見える。実際そうなのだろう。


ミラはそのまま通り過ぎるふりで、捨て布の山を一度だけ見た。


黒い。

だが、煤の黒だけじゃない。

墨の黒に、薄く赤が混じっている。


印を押す台の汚れだ。


ミラは井戸端へ回り、水桶の影でしゃがんだ。

靴紐を直すふりをしながら、視線だけを布の束へ落とす。


縄の結びが甘い。

急いでまとめた手だ。


そのとき、風が回った。


一番上の布の端がめくれ、下から白いものが覗いた。

紙の角だった。


ミラの指が止まる。


紙は布に張りついていた。

濡れて乾いたあとにくっついた形だ。端だけがめくれている。


女はまだ桶の水を替えている。

こちらを見ていない。


ミラは靴紐を結び直す動きのまま、半歩だけ寄った。

指先で布の端を押さえる。

紙片は薄い。湿って、乾いて、少し波打っている。


見えるのは欠けた欄だけだ。


縦線。

横線。

署名欄の下半分らしき切れ方。

紙の端に、針で留めた跡。

そして、黒い粉。


ミラは息を止めた。


帳簿の切れ端じゃない。

少なくとも、ただの買い付け札や荷札ではない。


落ちた紙片は、裏名簿の欠片――少なくとも、そう疑うには十分だった。


まだ一枚だ。これだけで断じるには足りない。

けれど、見過ごせる薄さじゃなかった。


女が桶を持ち上げる音がして、ミラは手を離した。

紙片はまた布の下へ戻る。

無理に取れば、ここで終わる。


ここは拾う場所じゃない。

繋ぐ場所だ。


ミラは立ち上がり、井戸の縁を軽く叩いた。

水を見に来ただけの顔を作る。


女がちらりと見る。


「水、冷たいですか」


ミラは桶を覗くふりで言った。

女は肩をすくめる。


「朝はね。手が割れるよ」


声は普通だ。

怯えてもいないし、愛想がいいわけでもない。

ただ、急ぎ仕事の手をしている。


ミラは視線を捨て布に落としすぎないようにして続けた。


「毎朝この時間、裏の掃除なんですね」


「店が開く前にやっとかないと、表がうるさいからね」


女は桶を置いて、布の束を足先で寄せた。

その動きで、また黒い粉が落ちる。


ミラは言葉を選ぶ。


「すぐ黒くなるんですか。煤で?」


女の手が一瞬だけ止まった。

止まって、すぐ動く。


「煤もあるさ」

「台所もあるし、帳場もあるし」


帳場。


ミラは顔を上げずに、井戸水を指で払った。


女は続ける。言い訳に聞こえない速さで。


「印を押す台なんて、毎日拭いたって黒いよ」

「赤もつくしね。役人様のとこほどじゃないけど」


役人様のとこほどじゃない。


比べる先が出る。

見ている場所がある人間の言い方だ。


ミラはそこで初めて女を見た。

女は目を合わせない。布の束を縄で締め直している。


締め方が早い。

慣れている。


「大変ですね」


ミラがそう言うと、女は鼻で笑った。


「大変じゃない仕事なんてあるかい」


返しは強い。けれど、追い払う強さじゃない。

この場で切らない方が得だと、体で知っている返し方だった。


ミラは井戸から離れ、通りへ戻る。

振り返らない。


角を曲がってから、ようやく息を吐いた。


黒い粉。

印台の赤。

針跡のある欄紙。

捨て布に混ざる紙片。


表の帳場で出るゴミじゃない。

少なくとも、誰かが見られたくない紙を扱っている場所の手つきだった。


つまり――名は、“いない”にできる。

セレナの名も、例外じゃない。


ミラは歩幅を少しだけ速めた。


ここで誰かの名を口にすれば、その瞬間に紙が強くなる。

先に名前を出した側が勝つ。だから、まだ言わない。


必要なのは、断定じゃない。

次に拾うものだ。


捨て布を出した手。

その手が、どこの帳場へ戻るか。


広場の方から、紙を読む声が風に乗って届く。

誰かが何かを読み上げ、誰かがそれに先に返事をしている。


もう朝が作られ始めていた。


ミラは通りの影へ入り、次に見る場所を決める。


紙そのものじゃない。

紙を拭いた布を、毎朝どこへ捨てるか。


そこに、名を消す手順の続きがある。

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