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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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布を捨てる手



港の朝は、手が忙しい。


荷を数える手。

縄を結ぶ手。

帳簿をめくる手。

そして——汚れを隠す手。


ミラは監督所の裏手へ戻った。

さっきの排水溝の木蓋は、もう触らない。

同じことを繰り返すのは、目につく。

目についた瞬間、紙が寄ってくる。


ミラは少し離れた場所——樽の影へ入り、監督所の裏口を見た。


裏口は小さい。

出入りするのは、荷を運ぶ人間ではない。

帳簿の束を抱える人間でもない。


“掃除”の人間だ。


紙を扱う場所は、掃除が必要になる。

掃除が必要になるということは、汚れが出るということだ。

汚れが出るなら、捨てる場所がある。


ミラはじっと待った。

待つ姿は、働いているふりで隠す。

樽の札を確かめるふり。

蓋の縄を締め直すふり。


待っている目は、狩りに見つかる。


十分もしないうちに、裏口が開いた。


女が出てきた。

年は若い。背は低い。

腕に布を抱えている。

白い布じゃない。灰色の布。

濡れて重そうな布だ。


——捨て布。


女は周りを見ない。

周りを見ないのは、“ここは安全だ”と信じているからだ。


安全だと信じている場所ほど、穴になる。


女は排水溝のほうへ歩いた。

歩幅は速くない。毎日の歩幅だ。

手が慣れている。


ミラは樽の影から一歩だけ出て、距離を取ったままついていく。


女が木蓋の前で立ち止まり、しゃがんだ。

木蓋を持ち上げる。

捨て布を落とす。

蓋を閉める。


手つきが迷わない。


——この手は、毎朝、同じことをしている。


女が立ち上がり、裏口へ戻ろうとした瞬間。


ミラは“偶然”を作った。


樽の札を持ったまま、女の進路へ一歩だけ出る。

目は合わせない。

体だけ、道に入る。


「すみません」


女が止まる。


ミラは札を指差し、ただの仕事の顔で言った。


「これ、行き先が違いませんか」

「監督所の札だと、番号が一桁ずれてます」


女は驚いた顔をした。

驚いた顔は、紙になりにくい。

紙になるのは、怒りと正義の顔だ。


「え……私、分かりません」

「私は掃除で……」


ミラは言葉を柔らかくする。


「大丈夫」

「ただ、あとで“誰のせいだ”が回り始めると困るので」

「ここで直しておいたほうがいい」


女の顔色が変わった。

“誰のせいだ”が怖いのは、現場の人間だ。


女が頷く。


「……はい」

「でも、どうしたら」


ミラは札を女の手に渡さない。

渡せば、女が責任者になる。

責任者は狩られる。


ミラは自分で札を取り、番号を確かめるふりをした。

指先で角を押さえる。

紙が風でめくれないようにする仕草。


その仕草をしながら、女の腕の内側を見る。


袖口。

指先。

爪の際。


——黒い粉が、薄く残っている。


煤だ。


ミラは心臓が跳ねるのを、喉の奥で殺した。


「……ありがとうございます」

ミラは札を樽へ戻し、笑わずに言った。

「これで大丈夫です」


女がほっと息を吐いた。


「助かりました……」

「私、こういうの苦手で」


ミラは一拍置いて聞く。


「毎朝、ここですか」


女が頷く。


「はい」

「裏の排水溝の……あれ、臭いんですけど」

「言われてるから捨ててます」


ミラは言葉を削って聞く。


「拭くのは、何を」


女は首を傾げる。


「机とか……印を押す台とか」

「黒くなるから、布がすぐ汚れて……」


印を押す台。

口から出た。

出たのは、女が“普通の仕事”だと思っているからだ。


ミラは頷かない。

頷けば、女は話したことを自覚する。

自覚した瞬間、怖くなる。

怖くなれば、口が閉じる。


ミラはただ、平らに言った。


「お疲れさまです」


女が小さく笑った。

声が出る笑い。

声が出るのは、まだ紙にやられていない証拠だ。


女は裏口へ戻っていく。


ミラは女の背中を見送り、影へ戻った。


——繋がった。


捨て布の煤。

紙片の窪み。

そして、爪の際の黒。


“押した手”は机の内側にいる。

だが“拭いた手”は外に出る。


外に出る手なら、顔がある。

顔があるなら、追える。


ミラは懐の封筒を押さえ、息を吐いた。


次は——この女を狩らせないまま、

女の後ろにいる“紙抱え”へ繋ぐ。


正義を起こさずに。

血を出さずに。

紙を強くしないまま。


ミラは港の風に紛れ、ゆっくり歩き出した。


朝が来る。

朝は紙が強い。


だから、強くなる前に、線を太くする。

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