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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

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156/157

156.白帯の下

「蓋に触れたら、その中身ごと落とす」


154話の続きみたいに、黒外套の男の声が石の下で響いていた。


だがアークは、もうその声を聞いていなかった。


箱の中から自分の名が返った。

それだけで十分だった。


アークは掛け金へ伸ばした手を止めない。

青布腕章の男の胸を箱へ押しつけたまま、逆の手で縄の切れ残りを引きちぎる。


黒外套の男が鉄輪へ手をかける。

右線の男も白布を振りかぶる。


その前に、アークは箱の上板を肘で持ち上げた。


板が跳ねる。


中の白布がずれた。


細い肩。

白い留め帯。

口元を押さえる布。

額に張りついた髪。


そして、薄く開いた目。


セレナだった。


痩せている。

顔色も悪い。

だが、目だけはまだ死んでいない。

焦点が揺れながらも、まっすぐアークへ向いていた。


右線の男が飛び込んでくる。


アークは外れた上板をそのまま蹴り飛ばした。

板の角が男の膝へ入る。

体勢が崩れる。


次に、箱の縁へ腕を入れて、セレナの上体を起こす。

口布を引き抜く。

息が浅い。

薬が残っている。


「立てるか」


セレナはすぐには答えない。

喉が乾いているのか、息が先に漏れた。


それでも、小さく頷く。


「……少し」


それで足りた。


黒外套の男がまっすぐ来る。

今度は鉄輪じゃない。

取り返すほうが早いと判断した足だった。


速い。


アークはセレナを半分だけ抱えたまま、箱の横板を男へ押しつけた。

男は受ける。

強い。

南三でもそうだった。

ただの書き手じゃない。


「離せ」


「離したら、また戻る」


アークは吐くように返す。


そのとき、北四の木戸の内側の女が叫んだ。


「受入室の前で暴れないで!」


手順の言葉だった。

だから現場の手が一瞬止まる。


アークはその半拍を逃さない。

セレナの腰を支えたまま、箱を木戸へ押し込んだ。


箱の角が敷居へぶつかる。

木戸が大きく開く。


白い灯りが広がる。


中は静養房の形をしていた。

寝台。

白布。

薬湯の椀。

壁に掛けた薄い衣。

小机の上には、もう受入用の帳片が一枚開かれている。


《エマ》

《北四》


その横に、細筆が置かれていた。


本当にここへ入れるつもりだった。


アークはセレナを木戸の内側へ引き込む。

北四の女が反射で下がる。


「待って、まだ白名しか――」


「その白名で入れる」


アークは小机へ手を伸ばした。

帳片を掴む。

細筆を取る。

墨はまだ乾いていない。


下端へ乱暴に書き足す。


《受入済》


北四の女が息を呑んだ。


「だめ、それは私が――」


「今、この部屋に入った」


アークは帳片を机へ叩きつける。


「お前の部屋に」

「この名で」

「そうだな」


女の顔が白くなる。


ここで否定すれば、自分の部屋の中に未受入の箱と人がいることになる。

認めれば、この場は一度、静養房の受入済みに変わる。


どちらにしても、もうきれいには戻らない。


外で木戸が強く鳴った。


黒外套の男だ。


「開けろ!」


アークはセレナを寝台へ座らせる。

膝が折れそうになるのを手で支える。

白い留め帯をもう一つ切る。

手首には赤い擦れ跡が細く残っていた。


セレナの目が、ようやく少しだけ合う。


「……本物?」


「そうだ」


「白じゃない」


こんな場面なのに、そこを見る。

昔のままだった。


アークは短く返す。


「今は俺だ」


木戸がもう一度鳴る。

蝶番が悲鳴を上げる。

右線の男たちも来たらしい。

音が増えている。


北四の女が震えた声で言う。


「無理よ」

「ここ、中から棒を落とすだけ」

「押し切られたら終わる」


アークは部屋を見る。


寝台。

衝立。

小机。

箱の上板。

薬湯の棚。


十分だ。


「衝立を持て」


「え」


「早く」


声は大きくない。

だが動かす声だった。

女は反射で壁際の衝立を持ち上げる。


アークは寝台を引いた。

木が床を擦る。

そのまま木戸の前へ寄せる。

衝立を横に倒して寝台とのあいだへ噛ませる。

さらに箱の上板を斜めに差し込み、つっかえ棒にする。


次の体当たりで木戸が大きく鳴る。

だが開かない。


外で黒外套の男が低く言う。


「部屋ごと潰すぞ」


北四の女が膝を折りそうになる。


アークは小机の札束を掴んだ。

白札。

仮名札。

静養札。

その中に、赤い縁の札が一枚ある。


《静養中 触るな》


アークはそれを木戸の小窓の位置へ打ちつけた。


「見せ札だ」

「外から見えるようにしろ」


北四の女がやっと意図を掴む。


「……医官待ちに見せるの?」


「そうだ」

「受入済みで、しかも触るな札が出た部屋を、ここで力ずくで破れば何になる」


女は震える手で赤札を掛け直す。

外から見える高さに合わせる。


木戸の向こうが、ぴたりと静かになった。


黒外套の男にも分かったのだ。

ここで破れば、もう下の手順では隠せない。

北四の表の部屋を、自分で壊したことになる。


アークはその一瞬を逃さない。


「裏は」


北四の女が振り向く。


「裏?」


「別の出入口だ」


「……ある」

「薬湯を下ろす小戸が」


「どこへ出る」


「北四の裏廊下」

「でも、そこも鍵が――」


「案内しろ」


北四の女は迷った。

当然だ。

ここで動けば、もう戻れない。


セレナが寝台の端を握ったまま、掠れた声で言う。


「……お願い」


その一言で、女の顔が崩れた。


覚えがあるのか、同情なのか、そこまでは分からない。

でも、もう足は動いていた。


「こっち」


北四の女が衝立の奥へ手を入れる。

壁板にしか見えなかった小戸が、細く開く。


冷たい空気が入る。

裏廊下だ。


アークはセレナの肩へ腕を回す。

立たせる。

まだ足はふらつく。

それでも、自分で歩こうとしていた。


木戸の向こうで、また低い声がする。


「赤札を外せ」

「医官名を呼べ」

「偽物なら割れる」


時間がない。


北四の女が小戸をさらに開く。

狭い。

だが一人ずつなら通れる。


アークはセレナを先へ入れた。

そのとき、セレナの指がまたアークの袖を掴む。


弱い。

でも、今度は意志のある掴み方だった。


「……置いてかないで」


アークは即答する。


「置いていかない」


セレナが裏廊下へ消える。

北四の女も続く。


アークが最後に入ろうとした、その瞬間だった。


外の木戸で、細く硬い音が鳴った。


札を折る音だった。


赤札が、外から割られた。


次に、黒外套の男の声が飛ぶ。


「医官名は要らない」

「その部屋の受入を書いた手を、先に切れ」

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