155.落とし板の前
「蓋に触れたら、その中身ごと落とす」
黒外套の男の声は低かった。
脅しじゃない。
手順をそのまま言っている声だった。
アークは掛け金へ伸ばした手を止めない。
代わりに、箱の下を見た。
石台の縁。
箱の底。
そのさらに下に、黒い溝が走っている。
台の上に置かれているように見えて、実際には細い板の上へ乗っているだけだ。
右線の鉄輪を引けば、その板ごと外れる。
落とし板だ。
なら、蓋を触るなという意味は一つしかない。
蓋じゃない。
箱ごと消すつもりだ。
アークは掛け金から手を離した。
黒外套の男の目がわずかに緩む。
その一瞬で、アークは青布腕章の男の体を箱へ押しつけたまま、逆の足で石台の脚を蹴った。
鈍い音がした。
箱がわずかに浮く。
石台と箱のあいだに、隙間ができる。
「何を――」
黒外套の男が言い切る前に、アークはもう一度、今度は全体重を乗せて石台の角を蹴り抜いた。
木が軋む。
石台が半歩ずれる。
箱の底が落とし板の溝から外れ、横へ滑った。
次の瞬間、黒外套の男が鉄輪を引いた。
ごう、と床の下で風が鳴る。
第三台の脇の板が外れた。
暗い縦穴が口を開ける。
だが、もう遅い。
箱はそこにない。
黒外套の男の目が初めて見開いた。
「外したか」
「そういう線だと思った」
アークは低く返した。
青布腕章の男が腕を振りほどこうとする。
アークはその手首を逆に折り、箱の角へ叩きつけた。
札が散る。
《北四静養 受入前》《夜内》の細札が床を滑る。
木戸の内側の女が悲鳴を呑む。
「落ちてない……?」
「閉めろ!」
黒外套の男が吠えた。
右線の奥から、さらに二人分の足音が近づく。
速い。
ここで取られれば終わると分かっている足だ。
アークは細札を拾い上げ、そのまま木戸へ投げた。
札が戸板に当たる。
「北四受入前だ!」
一瞬だけ、木戸の内側が止まる。
手順の言葉だった。
だから止まった。
次に戸が半分だけ開く。
白い灯りが広がった。
中は静養房の形をしていた。
低い寝台。
白布。
薬湯の椀。
壁に掛けられた薄い衣。
それに、入口脇の小机には、もう帳片が一枚開かれている。
《エレナ》
《北四》
受入欄の上に、黒い細筆が置かれていた。
本当にここへ入れるつもりだった。
黒外套の男が一歩前へ出る。
「その箱を戻せ」
「戻したら落とすんだろ」
「お前ごとだ」
その返しは速かった。
同時に、右線から来た男の一人が短針を抜く。
もう一人は縄じゃない。
白布を両手に広げていた。
縛る手だ。
アークは箱の横板へ肩を入れた。
重い。
だが動く。
そのまま北四の木戸へ押す。
「開けろ!」
木戸の内側の女が反射で下がる。
箱の角が戸板へぶつかる。
細い蝶番が鳴る。
黒外套の男が横から箱を押さえに来た。
強い。
南三のときと同じ手だ。
現場で人を止める腕だ。
アークは箱を押したまま、肘を横へ振る。
男の喉元を狙う。
だが読まれている。
黒外套の男は肩で受け、そのままアークの腹へ膝を入れてきた。
息が抜ける。
それでもアークは手を離さない。
「離せ!」
「離したら、また紙に戻る」
吐くみたいに言って、アークは箱の上の白布を掴んだ。
一気に引く。
布が落ちる。
箱の上板に、もう一つ掛け金が見えた。
外側の掛け金じゃない。
運搬用の封じ具だ。
そこへ《第七》《声禁》の札が打ちつけられている。
黒外套の男の顔色が変わる。
「触るな!」
その声で確信する。
ここだ。
アークは青布腕章の男の落とした短針を拾い、掛け金の縄へ突き立てた。
一度では切れない。
もう一度、強く引く。
縄が裂ける。
右線から来た男が飛び込んでくる。
白布が首へ巻きつく寸前、北四の木戸が内側から大きく開いた。
中の女だった。
恐怖で開けたんじゃない。
箱を止めるために、手順で開けた。
それで十分だった。
アークは箱を木戸の敷居へ叩き込む。
箱の角が引っかかる。
傾く。
上板が半分だけずれる。
中から、くぐもった息が漏れた。
細い。
でも、生きている息だ。
黒外套の男が鉄輪へ手を伸ばす。
第二の落とし板か、別の仕掛けか。
どちらでも同じだ。
次を引かせれば終わる。
アークは上板の隙間へ腕を突っ込んだ。
暗い。
布。
冷たい手首。
白い留め帯。
その下に、もう一つ。
裂かれた白札の端が指に触れる。
《……ナ》
そこまで読んだ瞬間、
箱の奥から、その手がアークの袖を掴んだ。
弱い。
けれど、掴み方だけは確かだった。
次に聞こえたのは、掠れた、ほとんど消えかけた声だった。
「……アーク」




