157.書いた手
「医官名は要らない」
「その部屋の受入を書いた手を、先に切れ」
黒外套の男の声が、木戸一枚隔てた向こうで冷たく響いた。
北四の女の顔から血の気が引く。
アークは迷わない。
小戸の縁を押さえたまま、低く言う。
「先に行け」
「でも、私――」
「お前が残ったら、今ので終わる」
言い切る声だった。
北四の女は一瞬だけ固まった。
次の体当たりで木戸が大きく鳴る。
それで足が動いた。
セレナは壁へ肩を預けながら、どうにか立っている。
まだ薬が残っている。
けれど、もう意識は切れていない。
アークは小戸を閉める前に、部屋の中へ手を戻した。
小机の上の帳片をもう一枚掴む。
白札を二枚。
細筆を一本。
それに、薬湯の椀を床へ蹴り倒す。
椀が割れる。
薬の匂いが一気に広がる。
次に赤い見せ札を小窓の前から引き剥がし、裏返して木戸の内側へ投げた。
《静養中 触るな》
表の札は消えた。
今度は外から見えない。
中の整った手順だけを、わざと崩す。
北四の女が振り返る。
「何を――」
「迷わせる」
アークは短く答えた。
「部屋を壊すか」
「手を探すか」
「向こうで一拍割れる」
その一拍で足りる。
木戸へ最後に体重をかけ、小戸のほうへ身を滑らせる。
板戸を引く。
閉まる寸前、向こうで木が割れる音がした。
もう来る。
裏廊下は狭かった。
人が横に並べない。
北四の女が先。
次にセレナ。
アークが最後につく。
天井が低い。
石が冷たい。
薬湯や湿った布の匂いが混ざっている。
裏のための道だ。
人をきれいに歩かせる道じゃない。
「どこへ出る」
アークが聞く。
北四の女が息を切らしながら返す。
「洗い場」
「その先に、下仕えの階段」
「上へ?」
「北四の裏二階へ」
「でも鍵が」
「お前が持ってるか」
「持ってない」
「洗い場番が――」
そこまで言って、北四の女の声が途切れる。
後ろで、小戸が開いた。
速い。
黒外套の男は木戸を壊すか迷うと思った。
だが違った。
あれはもう手を追うと決めている。
部屋の形なんてどうでもいい。
アークは振り返らない。
「走れ」
北四の女が前へ出る。
セレナの足が一度もつれる。
アークが腰を支える。
セレナは呼吸を乱しながらも、自分で前へ出ようとしていた。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃなくても行く」
アークが返す。
その返しに、セレナの口元がわずかに動いた。
笑ったのか、ただ息が漏れただけか、そこまでは分からない。
角を曲がる。
前方が少しだけ明るくなる。
洗い場だった。
大きな桶が三つ。
灰水の樽。
濡れ布を干すための低い棒。
そして壁際に、小さな竈の火がまだ赤く残っている。
北四の女が駆け寄る。
「ここ」
「この奥に階段の戸が――」
そのとき、後ろから短針が飛んだ。
石へ当たって跳ねる。
耳の横で硬い音がした。
黒外套の男だけじゃない。
右線の男も来ている。
アークは洗い場の棒を掴んで引いた。
濡れ布が何枚も落ちる。
次に灰水の樽を蹴る。
重い樽が倒れ、廊下へ灰混じりの水が広がった。
石の床が一気にぬめる。
追ってきた右線の男の足が滑った。
壁へ肩を打ちつける。
その後ろの影も一瞬詰まる。
アークはその隙に、北四の女へ言う。
「鍵は」
「番が腰に下げてる」
「今はいないはず」
「はずじゃ困る」
「でも、この時間は井門側の見回りで――」
そこでセレナが、急にアークの袖を強く引いた。
弱い手なのに、意外なくらいはっきりした力だった。
「……待って」
アークが顔を向ける。
セレナの目はまだぼやけている。
それでも、今は何かを思い出そうとしていた。
「番は」
「……鍵を、腰じゃなくて」
「桶の裏」
北四の女が目を見開く。
「知ってるの?」
セレナは息を整えながら、壁の大桶を指した。
「前に……見た」
「ここ、通されたとき」
アークの胸の奥が冷える。
“通された”。
やはり一度きりじゃない。
少なくとも、ここまでの線をセレナは知っている。
北四の女が桶の裏へ手を入れる。
金具が鳴る。
小さな鍵束が出てきた。
「ほんとだ……」
その直後、洗い場の入口へ黒外套の男が現れた。
足を止めない。
灰水で滑りかけても、そのまま来る。
顔色ひとつ変わらない。
「離れろ」
北四の女に向けた声だった。
「その手はもう要らない」
北四の女の喉が詰まる。
アークは洗い場の棒を横に構えた。
「来い」
黒外套の男が低く息を吐く。
次の瞬間、距離が消えた。
速い。
棒の先を払われる。
手首に衝撃が走る。
アークはすぐ引かない。
逆に棒を滑らせて男の膝裏を払う。
男は半歩だけ崩れる。
だが倒れない。
右線の男も灰水を踏み越えて来た。
白布を持っている。
縛る手だ。
アークは棒を捨てた。
洗い場の濡れ布を一枚掴み、そのまま黒外套の男の顔へ叩きつける。
視界が切れる。
その一瞬で、北四の女が鍵を鍵穴へ差し込んだ。
手が震えて、うまく入らない。
「落ち着け」
アークが言う。
「一本目じゃない」
「二本目だ」
北四の女がはっとして鍵を替える。
今度は入る。
回る。
戸の奥で、小さく金具が外れた。
「開いた!」
「先に入れ」
アークが叫ぶ。
北四の女が戸を開く。
狭い石階段が上へ伸びていた。
セレナを先に押し込む。
北四の女も続く。
黒外套の男が濡れ布を払い落とした。
もう目は見えている。
アークは最後に洗い場の竈へ蹴りを入れた。
赤い炭が灰水へ落ちる。
じゅっと白い湯気が上がる。
視界が一気に曇る。
その白の中へ身を滑らせ、階段戸を引く。
向こうから、すぐに衝撃。
戸板が鳴る。
だが、さっきよりは軽い。
ここは壊すための戸じゃない。
下仕えの裏戸だ。
しかも狭い。
一度に入れる人数は限られる。
アークは戸の棒を落とした。
金具が噛む。
「上がれ」
北四の女が先に走る。
セレナも壁へ手をつきながら登る。
階段は急だった。
短い。
だが途中で二度折れる。
外から見えないように曲げてあるのだろう。
下から、また衝撃。
棒が悲鳴を上げる。
北四の女が上で小さく叫ぶ。
「もうすぐ!」
最後の折れを曲がると、細い物置みたいな小部屋へ出た。
籠。
布束。
空の薬瓶。
そして、さらに先へ続く薄い板戸。
北四の女が走って板戸を押す。
開かない。
「何で――」
「鍵か」
「違う」
「外から棒が……!」
アークが階段を見下ろす。
下の戸がもう一度鳴る。
長くはもたない。
逃げ道が塞がっている。
そのとき、セレナが板戸の横の壁へ手をついたまま、掠れた声で言った。
「……違う」
北四の女が振り向く。
「え?」
セレナは苦しそうに息を継ぐ。
「そこ、戸じゃない」
「右の……布束の後ろ」
「前に、開いた」
北四の女が布束をどける。
後ろに、もう一枚、もっと小さい引き戸が隠れていた。
アークの目が細くなる。
「お前、どこまで――」
セレナは答えない。
答える余裕がない。
ただ、覚えている経路だけを必死に繋いでいた。
北四の女が小さな引き戸を引く。
今度は開いた。
冷たい夜気が流れ込む。
外だ。
いや、完全な外じゃない。
壁沿いの細い渡り廊下だった。
北四の裏側をつなぐ、使用人だけの通路だ。
アークはセレナをそこへ出した。
北四の女も続く。
最後に自分が出る。
その瞬間、下の戸がついに割れた。
木が裂ける音。
追っ手が階段へ入った音。
アークは引き戸を閉める。
簡単な留め金しかない。
時間稼ぎにしかならない。
それでも閉める。
夜気の中で、セレナが壁へ寄りかかりながら、小さく言った。
「……第七で終わりじゃない」
アークが顔を向ける。
セレナはまだ青い顔のまま、それでも言い切った。
「次は、紙じゃなくて」
「子どもを先に分ける」




