153.第三台の下
南棟から東井門下へ落ちる階段は、兵や役人のためのものじゃなかった。
幅が狭い。
天井も低い。
肩へ石の冷たさが近い。
人が急いで降りるためではなく、荷と手順だけを下へ通すための階段だ。
アークは手の中の木札を握ったまま、一気に降りた。
《東井門下 荷降》
《第三台》
《下扉 第二鈎》
《起こし番 右》
文字は短い。
だが、短い札ほど現場で強い。
読める者には、それだけで足りるからだ。
下へ行くほど、空気が変わった。
土と水の匂いが強くなる。
遠くで鎖が鳴る。
井門の下をくり抜いて作った空洞なのだろう。
音が丸く反って、どこから鳴っているのか掴みにくい。
最後の角を曲がると、ようやく第三台が見えた。
広くはない。
低い天井の石室だ。
中央に太い鎖輪。
左右に二本ずつ、鉄の腕みたいな支えが伸びている。
その奥へ、木の台が三つ並んでいた。
第一台。
第二台。
第三台。
順に黒字で焼きつけてある。
第一台の脇には、青布を掛けた箱が積まれていた。
帳面の運搬箱に見える。
けれど、箱の大きさが揃いすぎている。
人を入れる箱と、帳面箱を同じ形で作っているのだと分かった。
第二台は空。
その代わり、床に水が少し溜まっている。
さっきまで何か重いものを下ろしていた跡だ。
第三台だけが、鎖輪の真下で止まっていた。
木台の上に白布が一枚。
人を寝かせるためのものではない。
箱を滑らせるための布だ。
右の鎖輪のそばに、男が一人いた。
灰色の短い上着。
腕まくりした前腕に、油と墨の汚れ。
兵でも役人でもない。
この鎖輪だけを回して生きている腕だ。
男はアークを見るなり言った。
「遅い」
問いではない。
叱りでもない。
手順が一つ遅れたときの声だった。
アークは間を空けず、木札を見せる。
「右だ」
男は木札へ一度だけ目を落とす。
それで通した。
顔を確かめない。
札しか見ない。
「上は」
「止めてる」
「声は」
「まだ立つ」
男が舌打ちする。
「半服が浅いな」
「今夜の第七は面倒だ」
第七。
ここでもそれで通る。
男は右の鎖輪へ手をかけた。
そのまま、アークへ顎だけで奥を示す。
「第三台はこのまま」
「下札を受けてこい」
「白名がまだなら、落とせない」
白名。
アークの足が一瞬だけ止まりそうになる。
だが止まらない。
札を持つ手をそのままに、奥へ進む。
石室のさらに奥に、小さな仕切り部屋があった。
木格子ではなく、白い布を垂らして隠している。
中から灯りが漏れている。
アークが布をくぐると、別の空気があった。
狭い。
けれど机が三つある。
左に白札。
中央に布帯。
右に細い手環。
手環は白木でできていた。
柔らかい紐で留めるようになっている。
手首に付ける名札だ。
その机の前に、白手袋の女が座っていた。
年は四十前後だろうか。
髪はきちんとまとめている。
衣は地味だ。
だが汚れがない。
鎖輪の男と違って、この女は“最後に名前を書く側”だと一目で分かった。
女は顔を上げないまま言う。
「第三?」
「そうだ」
アークは返す。
「上が遅れた」
「先に白名をくれ」
それも通った。
女は机の端から、細い帳片を一枚抜く。
帳面ではない。
一件ごとに切って渡す、名義票みたいな紙だ。
「第七」
「保護名義は仮です」
「渡し先で差し替えがあれば、木環だけ戻してください」
保護名義。
女が帳片を裏返す。
そこには黒く二行だけあった。
《仮名 エレナ》
《北四 静養》
アークの呼吸がほんのわずかに止まる。
エレナ。
似ている。
だが、同じじゃない。
似せたのか、偶然か、それともただ運ぶための音なのか。
今はそこを読む場面じゃない。
重要なのは後ろだ。
《北四 静養》
東井門下で終わらない。
門の下から、さらに北四へ回す。
しかも静養名義。
死者でも、囚人でもない名で。
女はまだ机を見たまま続ける。
「声禁札は」
アークは答える。
「箱に貼ってある」
「では木環だけです」
白手袋の女が、右の机から白木の手環を一つ取った。
もう字が書いてある。
《エレナ》
《北四》
細いが、はっきりした字だった。
人を隠すためのものじゃない。
別の人間として通すための字だ。
女がようやく顔を上げる。
「今夜は割り込みです」
「青布便より先に通します」
「上から直接落ちたと聞いています」
152話で聞いた言葉と同じだった。
上から落ちた。
つまり、誰かが途中で順番をねじ込んだ。
アークは白木の手環を受け取りながら聞く。
「北四のどこへ置く」
女は少しだけ眉を寄せる。
そんなことまで今さら聞くのか、という顔だ。
「静養房です」
「一夜だけ」
「朝の鐘前に、帳の名も替わるでしょう」
帳の名も替わる。
ここで箱にされ、
東井門下で白名を着せられ、
北四で帳まで替える。
死者の線と生者の線が、
ここで完全に別人へ分かれる。
アークは机の下へちらりと目をやった。
白札の束。
空の木環。
布帯。
眠り札。
そして、もう一つ。
床の脇に、小さな木箱が七つ並んでいる。
一つ目から六つ目までは蓋が閉じていた。
七つ目だけ、半分開いている。
中に入っていたのは、古い手環だった。
《ミナ》
《北二》
《レナ》
《南一》
《サラ》
《西控》
どれも女の名だ。
どれも短い。
どれも、どこにでもありそうな音だ。
アークの喉の奥が冷たくなる。
第七だけじゃない。
前の六つも、この部屋で別の名を着せられていた。
白手袋の女がアークの視線に気づく前に、彼は箱の蓋を戻した。
女はもう次の札へ目を落としている。
現場の手順しか見ていない。
罪悪感も誇りも、今は顔にない。
ただ一つの作業として、人を別名にしている。
「第三台が空なら、すぐ落として」
「下扉はもう起きています」
アークは白木の手環と帳片を握った。
そこまでで足りた。
十分すぎた。
引き返そうとした、そのときだった。
布の向こう、鎖輪のある石室で、男の苛立った声が上がる。
「おい」
「何でまだ動かない」
次に、別の声。
低い。
鎖輪の男じゃない。
「第三の荷が来ていない」
部屋の空気が変わる。
白手袋の女が顔を上げる。
今度は明らかに不自然さに気づいた目だった。
「……来ていない?」
アークは反射で布を払った。
石室の入口に、もう一人立っていた。
黒い外套。
白でも灰でもない、色を殺した服。
顔の半分を影に入れている。
だが立ち方だけで分かる。
受け手でも、鎖輪回しでもない。
ここで段取り全体を見ている側だ。
その男の目が、アークの手を見る。
《エレナ》
《北四》
白木の手環。
持っているはずのないものを、アークが持っている。
男の目が細くなる。
「……お前、誰だ」
その一言と同時に、男の手が石壁の鉄輪を引いた。
鈍い音が、床の下で鳴る。
第三台のさらに奥。
今まで壁にしか見えなかった継ぎ目が震え、横へずれ始めた。
下扉だ。
しかも閉まる音だった。




