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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

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146/157

146.前控の鈴

宰相府の誓約庫前控は、庫へ入る前の紙を一度だけ並べる机だった。


狭い部屋だ。

廊下は細く、壁は冷たい石でできている。

奥に鉄扉が一つ。

その手前に、黒布を張った机がある。

机の左には鍵箱、右には細い鈴、その真ん中に白い紙の束が三つ並んでいた。


ここで名を呼ばれた紙は、もうただの控えじゃない。

庫へ入る前の順番になる。


アークは照会室から持ってきた返答紙を、黒布の机へ置いた。

上にはまだ印が乾き切っていない。


《公爵家当主直答》


前控の書記は三十ほどの男だった。

細い指で紙の端だけを持ち、家印を見てから、ようやく顔を上げる。


「夜の受理は、急ぎ一件のみです」


「それでいい」


アークは言った。


「今、その一件を持ってきた」


書記は返答紙の下に添えられた白い手首札を見る。

裏返された札の裏には、短く墨字がある。


《切替済》


男の眉がわずかに動く。


「元の対象は」


「読むな」


アークが先に切った。


「見れば分かる」


書記は答えない。

だが、読むのをやめた。

読まなくても、紙の重なり方で十分だったからだ。


引渡し文書の写し。

灰色の候補札。

裏返された白い手首札。

それを当主直答の返答紙が上から押さえている。


下から上へ流していた形を、

途中で横から折りにきた紙だ。


前控の書記は右の束を一つ引いた。

庫へ入る前の待機束らしい。

細い黒紐で軽く留めてある。


その一番上に、赤い三文字が見えた。


《受領済》


アークの目が止まる。


紙は薄い。

だが、そこに付いた赤だけが妙に強い。


書記がその束を机に置く。


「今夜、先に来ているのはこれです」


束の頭には、もう一枚、細い札が差してあった。


《誓約対象 《光》》

《内照待ち》


アークは紙へ手を伸ばさない。


「どこまで入った」


「前控までです」

「まだ庫の中には入っていません」


それは半歩だけ助かっている、という意味だった。

同時に、半歩しか残っていない、という意味でもある。


書記は続ける。


「《受領済》が付いた紙は、ここで読む順を決めます」

「順が決まれば、内へ回る」

「内へ回れば、次は戻す話ではなくなります」


戻す。

その言い方は柔らかい。

だが実際に戻るのは、紙だけだ。

人の名と役は、その時点でもう一段固まる。


アークは《光》の束を見たまま聞く。


「誰が先に持ち込んだ」


「北棟経由の使いです」

「名は置いていません」


置いていない。

それでも線は見える。


下で赤が走った。

街で公爵家の声が育った。

その上で、《光》だけはもう前控まで上がっている。


順番がきれいすぎた。


アークは黒布の机、その奥の鉄扉、さらに鍵箱を見た。

鍵は二本。

長い鍵と、短い鍵。


「どっちで開く」


書記は一拍黙る。

黙ったあと、条文を読む声で返した。


「前控の束は短鍵で動きます」

「庫そのものは長鍵です」

「長鍵は、宰相府側の立会いがないと回りません」


そのとき、廊下の向こうで靴音が止まった。


硬い音だ。

急いでいるが、走らない。

役目の靴だった。


来た男を見て、前控の書記が背を正す。


カイルだった。


黒ではなく、灰の腕章。

宰相府流通監査の細い徽章がついている。

顔色はいつも通り薄いが、目だけが紙の置かれ方を一息で読んでいた。


「……早いな」


誰へともなく言ってから、カイルは机の上を見る。

《光》の束。

当主直答。

切替済の白札。


それだけで、状況は足りたらしい。


「ここで鈴を鳴らせば、前控受理になります」

「明日の朝には、街で別の読み方が走る」


説明ではない。

警告でもない。

ただの確認だった。


アークは返す。


「だから来た」


「家の名で逃げるなら、使いを出せばよかったはずだ」


「逃げない」


短かった。


前控の書記が鈴へ目をやる。

細い銀の鈴だ。

鳴らせば、内へ「次を読む紙」が伝わる。


カイルは机の端へ指を置いた。


「一度鳴らせば、止める紙じゃなくなる」

「出頭の紙になります」


「分かってる」


アークは返答紙を一枚前へ押した。


「鳴らせ」


部屋の空気が硬くなる。


前控の書記は、さすがにすぐには触れなかった。

代わりに確認する。


「受理名は」


アークは迷わない。


「公爵家当主、アーク・レインヴァルト」


「理由欄は」


「旧公爵家関係分、当主直答」

「それと――」


アークは《光》の束へ一度だけ視線を落とした。


「《光》の内照を、俺の前でやれ」


カイルの目が細くなる。

重い言葉だった。

ただ見るだけじゃない。

順番の前に、自分の名を差し込む言い方だ。


前控の書記が、黒い細札を一枚抜いた。

前控で読まれる順番を書く札だ。

白ではない。

黒だ。


そこへ、細筆で書く。


《当主本人出頭》

《内照先立会》


書き終える。

紙の端へ差す。

差した瞬間、《光》の束の顔つきが変わった。


もう無人の紙じゃない。

読む前に、立つ人間が決まった。


書記の指が、鈴のつまみに触れる。


小さく、一度。


澄んだ音だった。

狭い石廊下を、冷たくまっすぐ走る音だ。


すぐ奥で、別の鈴が返った。

内側からだ。


前控の書記の顔色が変わる。

予想していた返しではなかったらしい。


「……長鍵ではありません」


カイルが眉を動かす。


「何だ」


書記は鉄扉の下から差し出された細い札を拾った。

白木の札だ。

黒字で短く書いてある。


《御前先読》


その四字を見た瞬間、

前控の空気が、宰相府のものではなくなった。

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