139.空いた四番箱
北の中庭で、靴磨きの子の声がまだ残っていた。
「札箱の列、四番目が空だ!」
「灰布だけ、もう抜かれてる!」
群衆がざわつく。
封緘札を持った役人が、すぐにその子へ向かった。
「子どもの見間違いだ」
「黙っていろ」
役人の手が子の肩へ伸びる。
その前に、リオが間へ入った。
「その子じゃない」
「四番箱を見れば済む」
役人が顔をしかめる。
「どけ」
「空かどうか、見れば終わる話だ」
短い。
だが、群衆の前で言うには十分だった。
何人かが「見ればいい」と口にする。
役人は舌打ちし、手を引いた。
ミラはもう動いていた。
「下へ」
「中庭に残ると、また声で埋まる」
リオ、ミラ、靴磨きの子、女書記の四人は、北の中庭を抜けて下廊下へ走った。
後ろから、見物の足音も少しついてくる。
下廊下の札箱の列は、壁に沿って五つ並んでいた。
白い閲覧札を入れる箱。
照合札を束ねて入れる箱。
鍵穴はない。
だが、箱の前にはいつも札番が一人つく。
今日は、その札番の老人が床に膝をついていた。
灰色の顔で、倒れた木箱を起こそうとしている。
その前に、黒い腕章の男が立っていた。
「返した相手を言え!」
「どこへ回した!」
老人は首を振るばかりだった。
「返してない」
「持っていかれたんだ」
「帳場印を見せられて……」
男が老人の胸ぐらへ手を伸ばす。
リオがその手首を止めた。
「その人じゃない」
男が振り向く。
「またお前か」
「箱を見ろ」
「人を押しても、札は戻らない」
リオの声は低い。
けれど、床に転がった箱と、空いた列を指して言うから、意味が一度で入る。
ミラはもう四番目の箱の前にしゃがんでいた。
箱の中だけ、四角くきれいだった。
まわりには薄く埃が積もっているのに、中央だけ木肌が新しい。
ついさっきまで、何かがぴたりと収まっていた跡だ。
箱の縁に、灰色の毛羽が一本ついている。
布紐の切れ端も落ちていた。
切り口はまっすぐだ。
手でちぎった形ではない。
「刃で切ってる」
ミラが言う。
「下廊下の机にあった札切りと同じだね」
女書記がすぐうなずいた。
「さっきの赤茶の汚れも、ここにあります」
箱の角に、小さく赤茶がついていた。
印泥だ。
白い切り紙を分けたときについた色と同じだった。
靴磨きの子が床を見た。
「車輪」
下廊下の石床に、細い線が二本ついている。
荷車より細い。
札箱を運ぶ小車の跡だ。
右の車輪だけ、ところどころ線が欠けている。
欠けた輪の跡だった。
「一輪、削れてる」
子が言う。
「北の張り出し台の裏でよく鳴るやつだ」
ミラは老人へ向いた。
「何を持っていかれたの」
老人は喉を鳴らし、ようやく言葉を出した。
「灰布第四束……」
「照合札の束だ」
「青布の頁と、今の札をつなぐ札が入ってる」
リオが聞き返す。
「今の札、って何だ」
老人は床の箱を指さした。
「今いる場所だよ」
「配給列、洗場、宿、持ち場……」
「人を今どこで拾えるかを書く小札だ」
ミラの手が止まる。
青布は昔の記録。
灰布は今の場所。
それでつながる。
白い切り紙で群衆を怒らせ、
灰布の札で、次に誰を引っぱるか決める。
ミラは箱の奥へ手を入れた。
木のささくれに引っかかって、一枚だけ薄い札が残っていた。
灰色の小札だ。
半分だけ、箱の隙間に落ちていたらしい。
拾い上げる。
札は縦に細長い。
上に古い記録番号。
下に今の場所を書く欄。
そこに、墨が残っていた。
《南七区 遺児一名》
《現居 東三路 石洗場裏》
リオの目が止まる。
石洗場裏。
自分が子どものころ、しばらく寝起きしていた場所だ。
札の一番下には、さらに小さく書いてある。
《呼出札 作成前》
女書記が息を呑む。
「呼出札……」
ミラがはっきり言った。
「次に読む札だよ」
「白い切り紙で公爵家を叩いたあと、灰布で“誰を引くか”決めるつもりだった」
黒い腕章の男が顔色を変えた。
「でたらめを――」
「でたらめなら、何で箱が空なんだ」
リオが返す。
「何で灰布だけ抜いた」
「何で老人を黙らせた」
男は言い返せない。
そのかわり、札を奪おうと一歩出た。
リオが前へ出る。
「触るな」
老人が震える声で言う。
「小車だ……」
「灰布を積んで、北の張り出し台の裏へ行った」
「白い紙を貼る前に、いつも札を並べる机がある」
具体的だった。
場所が出た。
ミラはすぐ立ち上がる。
「張り出し台の裏だね」
そのとき、渡り廊下の上から、読み上げの声が落ちてきた。
「次の通達――!」
四人の動きが止まる。
上の声は、さっきと違った。
公爵家の話ではない。
人を探す声だ。
「東三路――」
リオの目が動く。
「石洗場裏――」
群衆のざわめきが、また一段大きくなる。
ミラが札を握りしめた。
遅い。
灰布第四束は、まだ箱の中にあるのではなかった。
もう上へ回っている。
次に指さす相手を決める札として、読み上げ台のほうへ出ている。
リオが走り出した。




