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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ
北線の削除

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138/157

138.封じる前の頁



北の中庭で、リオは青布の簿冊の前に立った。


目の前には、封緘札の束を下げた役人が三人いる。

横には、白い切り紙を持った読み上げ役。

後ろには、半円に固まった群衆。


いま止めたいのは一つだ。

青布の簿冊を閉じられる前に、頁を最後まで読むことだった。


先頭の役人が言う。


「直轄命令だ」

「その簿冊を封緘する」

「開いたまま渡せ」


黒い靴が三歩、前へ出た。

磨きが深い。

役所の上役用の靴だ。


ミラは簿冊の頁を押さえたまま、顔を上げない。


「命令書は」


役人が封緘札の束から一枚抜く。

白い厚紙だ。

赤い印が押してある。

だが、札の上には命令の文しかない。

署名の欄は、まだ空いていた。


ミラがすぐに言う。


「印だけで、署名がない」

「それ、まだ命令書として閉じてない」


群衆の前列がざわつく。

役人は一瞬だけ札を引いた。


「署名はあとで入る」

「まず封じる」


「順番が逆だ」


リオが言った。


役人の目がリオへ向く。


「どけ」


「どかない」


短い返事だった。

だが、それで十分だった。


白い切り紙を持った読み上げ役が、横から叫ぶ。


「惑わされるな!」

「公爵家の帳簿に、公爵家承認とある!」


「その三行だけだろう」


リオは読み上げ役を見た。


「さっきから、お前はその三行しか読んでない」


「それで足りる!」


「足りるように切ったんだろうが」


中庭の空気が、一度止まる。


役人の一人が、簿冊へ手を伸ばした。

その手首を、リオが横から押さえる。


強くはない。

だが、頁を閉じるには足りない角度だった。


「触るな」


「公務執行妨害だぞ」


「読む前に閉じる方が、よほど分かりやすい」


その一言で、群衆の何人かが役人を見る。

さっきまで公爵家だけを見ていた目が、少しだけずれた。


ミラはその隙に頁へ視線を落とした。

白い切り紙に抜かれた三行の右側。

そのさらに下。

小さな字がある。


古い筆跡だ。

急いで書いた線ではない。

あとから足した注記でもない。


ミラの指が、その小さな字のところで止まる。


「……あった」


「何が」


リオが聞く。


ミラはそのまま読んだ。


「照合先、灰布第四束」


群衆の前列で、何人かが聞き返す。


「灰布?」

「何だ、それ」


役人の顔が変わる。

さっきまで簿冊を閉じることだけ見ていた顔が、今度は頁そのものを見た。


ミラははっきり言う。


「この青布の頁だけでは終わってない」

「照合先が別にある」

「この記録は、これ一冊だけで閉じる形じゃない」


白い切り紙を持った読み上げ役が怒鳴る。


「そんなもの、あとから書き足したに決まってる!」


「違う」


女書記が言った。

まだ息は浅いが、声は届いた。


「その頁の筆跡は、三行のところと同じです」

「あとから足した線じゃありません」


役人の一人が女書記をにらむ。


「口を出すな」


その前へ、リオがまた半歩出る。


「その人に触るな」


役人は舌打ちした。

だが、さっきと違って群衆の目がある。

いま乱暴に動けば、それも見られる。


ミラは頁の下端を見る。

そこに、細い罫線の外へはみ出すように、もう一つだけ記号があった。


「四角に斜線……」


彼女は小さく言う。


「箱印だ」

「保管箱の印」


靴磨きの子がすぐ反応した。


「下の扉の横にもあった」

「白い札箱に、同じ印」


ミラの頭の中で、位置がつながる。


旧記録庫の棚。

白い閲覧札。

役所の下廊下。

そして、札箱。


「灰布第四束は、簿冊棚じゃない」


ミラが言った。


「札箱側だ」

「記録そのものじゃなく、照合札の束に近い」


役人が、今度は隠さずに動いた。

先頭の男が封緘札を広げる。

赤糸を通し、青布の簿冊へ巻こうとする。


「もう十分だ」

「その頁から手を離せ」


ミラは簿冊を閉じない。

その代わり、頁を押さえたまま女書記へ言った。


「紙、ある?」


女書記はすぐに胸元を探った。

配給列の確認に使う小さな控え紙が一枚ある。

端が少し曲がっている。


「あります」


「書いて」

「照合先、灰布第四束」

「下に、四角に斜線の印」


女書記は膝をつき、控え紙を広げた。

手が震える。

だが、書く速さは落ちない。

役所で生きてきた手だ。


役人が怒鳴る。


「書くな!」


その声と同時に、別の役人が女書記のほうへ回りこもうとした。


リオが体をずらして進路に入る。


肩で止める。

押し返すほどではない。

だが、回りこむには邪魔な位置だった。


「先に俺をどかせ」


役人の顔が歪む。


「お前、自分が誰の名で立ってるか分かってるのか」


「分かってる」


リオは答えた。


「だから、三行だけで決めさせない」


群衆の中から、声が飛ぶ。


「灰布って何だ!」

「そこも読め!」

「白い紙じゃなくて、その帳簿を見せろ!」


向きが少し変わった。

まだ全部ではない。

だが、さっきまで公爵家へだけ向いていた声が、役人の手元にも向き始めている。


読み上げ役が慌てて白い切り紙を振る。


「見るべきはこっちだ!」

「公爵家承認と――」


「その下を落としてるだろうが」


前列の男が言った。

さっきまでリオを指した年嵩の男だった。


「灰布第四束って書いてあるなら、何で読まなかった」


読み上げ役の喉が詰まる。


その一瞬で、女書記が書き終えた。


《照合先 灰布第四束》

その下に、四角へ斜め線を一本引いた印。


ミラは控え紙を見てうなずく。


「それでいい」


先頭の役人が、ついに封緘札を簿冊へ巻きつけた。

赤糸が青布へ食い込む。

札の角が頁の端に当たり、紙が少し鳴る。


「直轄命令により、この簿冊の閲覧を停止する」


今度は署名欄の空きには触れない。

声だけで押し切る気だ。


ミラは頁から手を離した。

離す寸前に、指先で頁番号だけを確認する。


「七十二葉」


小さな声だった。

だが、リオには聞こえた。


「七十二葉だね」


「うん」


封緘札が締まる。

青布の簿冊が閉じられる。


群衆の前で閉じた。

それ自体が、ひとつの答えだった。

白い切り紙ではなく、青布のほうを閉じたのだ。


靴磨きの子が、女書記の控え紙を見る。

四角に斜線の印。

灰布第四束。

七十二葉。


覚えられる形だ。


役人が簿冊を持ち上げる。

そのとき、白い切り紙はまだ台の上に残っていた。


リオがそれを見た。


「そっちは持っていかないのか」


役人は答えない。


答えなくても、群衆には十分だった。

役人が本当に困っているのは、白い切り紙ではない。

青布の簿冊のほうだと見えてしまったからだ。


前列の女が言う。


「変だね」

「切った紙は置いて、本物を持っていくのかい」


別の男も重ねる。


「読むなってことだろ」


役人の顔が固くなる。


「散れ」

「これ以上集まるな」


命令口調が強くなるほど、群衆の足はすぐには引かなかった。


その間に、ミラは靴磨きの子へ視線を落とす。


「覚えた?」


靴磨きの子はすぐに言う。


「灰布第四束」

「四角に斜線」

「七十二葉」


「どこへ行くか分かる?」


「下廊下の札箱」

「白い札をしまう列」


ミラは小さくうなずいた。


「先に行って」

「箱の並びだけ見て、戻って」

「開けるな。触るな。見るだけ」


靴磨きの子はもう走り出していた。

人の脇を抜ける速さだ。

目立たない。

でも、消え方が早い。


役人が簿冊を抱え、中庭の奥へ下がる。

黒い腕章の男たちが、その後ろへつく。

白い切り紙の読み上げ役まで、そちらへ寄った。


みんな、同じものを見ている。


青布の簿冊だ。


リオはそれを見送りながら、低く言った。


「白い紙で人を動かして」

「青い簿冊で口を塞ぐ」


ミラが返す。


「次は灰布だね」


そのとき、渡り廊下の奥から、靴磨きの子の声が飛んだ。


「ミラ!」


高い。

だが、怯えた声ではなかった。

見つけた声だ。


「札箱の列、四番目が空だ!」

「灰布だけ、もう抜かれてる!」


中庭の空気が、また一段変わった。

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