135.死亡確認
死は、泣く前に紙で届く。
アークが呼ばれたのは、役所の奥の小部屋だった。
窓はない。
机が一つ。
白布をかけた長椅子が壁に寄せてある。
机の上には、封の切られていない薄い紙が一枚と、小さな布袋が置かれていた。
部屋にいるのは二人だけだ。
検視役の老女と、記録書記の男。
どちらも、軽い嘘を持ってくる役じゃない。
老女が言った。
「確認が出ました」
短い声だった。
余計な言葉がない。
アークは机の前で止まる。
紙を見る。
布袋を見る。
まだ手は出さない。
記録書記が紙を机の中央へ寄せた。
《死亡確認控》
上に、はっきり書いてある。
アークはそれを読む。
行は少ない。
回収場所。
回収時刻。
女。
年頃。
白外套の残片あり。
銀の髪留め、一点。
左耳下の小痣、一致。
右手第二指の古傷、一致。
最後の行に、確認印がある。
《本人確認 相違なし》
部屋が静かになる。
アークは紙から目を離さない。
だが、そこに書かれているのは、もう文字だけじゃなかった。
左耳下の小痣。
右手第二指の古傷。
見間違えようがない。
老女が布袋を開いた。
白布の上に、銀の髪留めを置く。
細い銀具だ。
片方の歯が少しだけ曲がっている。
内側に、浅い削れが一本ある。
アークが昔、引っかかった歯を削って直した傷だ。
それで足りた。
他に何も要らない。
顔を見る必要もない。
確認のための紙と、見間違えようのない一つで、人は終わる。
老女が言う。
「水で痛んでいました」
「長く見ないほうがいい」
アークは頷かない。
紙を持つ。
指先が乾いている。
乾いたまま、最後の確認印まで読む。
相違なし。
相違なし。
記録書記が声を落とす。
「セレナ殿で、間違いありません」
その名を、人の口から聞いたのはそこでだった。
アークは返事をしない。
紙を机へ戻さない。
折らない。
ただ持ったまま、銀の髪留めを見る。
片方の歯の曲がり。
内側の浅い削れ。
直した日のことまで思い出せる。
だから、逃げ道がない。
老女が白布を戻しながら言った。
「埋葬の控えは、別紙で回します」
埋葬。
そこまで来て、やっと終わりが形になる。
そのとき、扉の外で足が止まった。
慌てた足だ。
ノックも浅い。
「失礼します!」
若い書記が入ってくる。
息を切らしている。
「旧記録庫から、青布の簿冊が持ち出されました」
「見た者がいます。二人です」
「追手を出せば、まだ――」
そこまでだった。
アークは紙を持ったまま、若い書記を見る。
青布。
《旧処理控》
《公爵家》
いちばん分かりやすい一冊だ。
今ごろ上では、あれを見た者が、公爵家の古い印を読んでいる。
街にはもう、“公爵家”の声が入っている。
そこへ青布が重なれば、形になる。
若い書記が続ける。
「命令を」
「追いますか」
部屋の中には、まだセレナの死亡確認がある。
銀の髪留めもある。
今なら、まだ言える。
止めろ、と。
青を取り返せ、と。
灰布も茶布も持って来い、と。
本当の火元を追え、と。
言えた。
本当に、まだ言えた。
アークは机の上へ紙を置いた。
その横に、銀の髪留めがある。
白布の上で、冷たく光っている。
失った。
その事実だけが、先に立つ。
アークは若い書記に言った。
「追うな」
書記が固まる。
「ですが――」
「青だけを持たせろ」
声は低い。
低いが、はっきりしていた。
「灰と茶は動かすな」
「旧記録庫は、このままでいい」
若い書記の顔から血の気が引く。
それが何を意味するか、すぐ分かったからだ。
青だけが外へ出る。
青だけが読まれる。
公爵家の古い傷だけが、今の声とつながる。
書記がかすれた声で言う。
「それでは……家の罪に見えます」
アークは答える。
「見えるだろうな」
否定しない。
老女も、記録書記も、何も言わない。
この部屋には、もう止める言葉がない。
死亡確認の紙が、先に全部の音を奪っていた。
若い書記が、なお立ち尽くす。
「本当に、追わなくていいんですか」
アークは机の上の銀具を見た。
片方の歯が、まだ少し曲がっている。
もう直せない。
直す相手がいない。
その事実のあとで、何を守るのか。
何を残すのか。
答えはきれいじゃなかった。
アークはもう一度だけ言う。
「追うな」
若い書記は、返事をするまでに一拍かかった。
「……はい」
扉が閉まる。
部屋に残るのは、老女と記録書記と、机の上の白布だけだ。
老女が静かに問う。
「受け取りますか」
布袋のことだった。
遺品を引き取るかどうか。
アークは銀の髪留めを見たまま答える。
「置いていけ」
それ以上は言わない。
老女は頷き、布袋を机の端へ戻した。
白布の上に、銀の髪留めだけが残る。
セレナは死んだ。
そうとしか読めない紙があり、
そうとしか見えない物があり、
それをアークは自分の目で受け取った。
その直後に、自分で青を止めなかった。
失ったあとで選んだのは、白ではない。
アークは死亡確認控を二つに折り、袖へ入れた。




