131.最初に読んだ者
次の石箱で読まれたら終わる。
ミラは通りを走りながら、それだけを考えていた。
止めたいのは男じゃない。
男の持っている、読み上げ用の紙だ。
通りの右奥には、腰の高さの石箱がある。
朝は荷札置き場、昼は読み手の台になる。
そこへ乗って声を張れば、並んでいる人間にも、店先の人間にも届く。
靴磨きの子が先に男を見つけた。
「あれ」
子が指した先を、ミラも見る。
灰色の上着。細い体。左の踵だけが石畳を鳴らしている。
カツ。
カツ。
片足だけ減った靴だ。
走り役は、まっすぐ石箱へ向かっていた。
男の脇には竹の筒が差してある。
雨に濡らさないための、読み上げ用の筒だ。
リオが言う。
「紙はあれだ」
ミラが返す。
「石箱に乗る前に止める」
追う相手も、止める場所も、もう見えている。
走り役はまだ気づいていない。
張り出し台のほうが騒がしかったぶん、自分への追手は遅れたと思っている。
だから振り向かない。
前だけを見て、石箱へ急ぐ。
ミラは左へ寄った。
干し布の下をくぐる。
通りの真ん中を走ると目立つ。目立てば、先に読まれる。
リオは右へ回った。
荷車の陰を使って前へ出る。
挟む。
石箱の前に着いたとき、走り役はやっと気づいた。
首だけ振り向く。
その目がミラを見た瞬間、顔色が変わる。
遅い。
男は竹の筒を引き抜き、蓋を歯で引いた。
巻紙が半分出る。
逃げ切るのをやめた。
ここで読めば勝ちだと分かっている。
ミラが叫ぶ。
「読むな!」
男は石箱へ片足をかける。
そのまま声を張った。
「今日の読み上げ――原因は公爵家――」
そこまでだった。
リオの肩が、男の胸へ斜めに入る。
真正面じゃない。
石箱の角へ頭をぶつけないよう、横から崩す。
男の身体が回る。
声が切れる。
巻紙が手から離れ、白い帯みたいに宙へほどけた。
だが、二語は出た。
原因。
公爵家。
通りの人間が、一斉に振り向く。
その二語だけで十分だった。
残りを知らなくても、人は続きを勝手に作る。
ミラは落ちる紙へ飛びついた。
地面につく前に端をつかむ。
長い紙だった。
遠くからでも読めるよう、大きい字で書かれている。
リオは男の手首を押さえたまま言う。
「もう読むな」
男は息を切らしながら吐き返す。
「離せ!」
「最初に読んだもん勝ちだろ!」
その言葉で、ミラは紙を広げた。
上の一行は、太い字。
《原因 公爵家旧処理》
はっきり書いてある。
押し跡じゃない。
噂でもない。
読ませるために、もう最初から書かれている。
その下には、読む順番が三行だけ並んでいた。
「受領済確認」
「原因 公爵家旧処理」
「混雑防止のため列維持」
ミラの目が止まる。
汚い。
人を怒らせる言葉のあとに、生活の言葉を置いてある。
列を守る顔をしながら、原因だけは先に植える気だ。
リオも紙を見る。
目つきが変わる。
「板はまだ白かった」
「なのに、読む紙はもう出来てる」
「そうだよ」
走り役が吐く。
「板なんか遅いんだ」
「先に聞かせりゃ、あとでみんなそう読む」
その通りだった。
張り出し台は、見に行く人間しか見ない。
でも、読み上げは違う。
耳に入った言葉は、その場にいた全員の中へ残る。
靴磨きの子が、男の足もとを見て言った。
「こいつ、ここが初めてじゃない」
「左の靴に白い粉がついてる」
石箱の縁の白い粉だ。
この通りの、別の石箱でもつく粉だった。
ミラがすぐに聞く。
「どこで先に読んだ」
男は黙る。
リオは手首をひねらない。
ただ逃げられない角度で押さえ直す。
男は舌打ちしてから答えた。
「北の角で、頭だけだ」
頭だけ。
それでも十分にまずい。
“原因”と“公爵家”の二語だけでも、人は残りを自分で埋める。
ミラは紙を裏返した。
裏は白いと思った。
違った。
下の端に、小さい字が最初から印刷されている。
《第一声優先》
《訂正は補足扱い》
ミラは思わず読み上げた。
「第一声優先……」
最初に言った言葉が本筋になる。
あとからの訂正は、おまけに落ちる。
だから、最初の一回さえ通れば強い。
靴磨きの子が小さく言う。
「最初に聞いたこと、みんな覚える」
その通りだ。
背後で、もう人が話し始めている。
「今、公爵家って言ったよな」
「聞いた」
「やっぱりそうなのか」
まだ全部は読まれていない。
でも、傷はもうついた。
ミラは紙を男の目の前へ突きつけた。
「これ、どこでも使ってるの」
男は答えない。
だが、視線が一瞬だけ左へ流れた。
左。
役所側の道だ。
リオがその視線を拾う。
「一人じゃないな」
男が黙ったままなのが答えだった。
読み上げ役は、まだいる。
別の石箱、別の角、別の口で、同じことを言うつもりだ。
ミラは紙を巻かない。
広げたまま持つ。
誰が見ても、何を書いていたか分かるようにする。
「次へ行く」
リオが頷く。
「今度は読む前に取る」
背後で、また声が上がる。
「最初にそう聞いた」
「じゃあ、公爵家なんだろ」
その言葉が、いやにはっきり耳に残る。
ミラは紙の裏の小さな字を、もう一度だけ見た。
《第一声優先》
仕組みは単純だった。
最初に読んだ者が勝つ。
街はその声を覚えて、あとから来た本当のことを言い訳にする。
だから次に止めるべきなのは、紙そのものじゃない。
最初の声を配る口だ。




