↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷遇された令嬢の政略結婚、旦那様と悪口の趣味が合いすぎます  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/33

第09話 あなたの嫌いな本が好きです

 リゼットが貸してくれた本は、緑の表紙だった。

 届いた包みを開けると、小さな紙が落ちた。


『返却は急ぎません。旦那様から生還する方を優先してください』


 私は紙を裏返した。

 裏にも書いてあった。


『舞踏会の話を、子爵夫人から聞きました。心配は撤回します』


 撤回するなら、一行目を消してほしかった。

 でも、リゼットらしくて笑った。


 本は詩集だった。

 作者はオクターヴ・ルセル。

 伯母の家にいた頃、一冊だけ読んだことがある。偉大な戦いや由緒正しい一族は、ほとんど出てこない。雨で靴が濡れたとか、焼き菓子を焦がしたとか、小さな出来事ばかり書く人だった。


 伯母は、そういう本を読む暇があったら人脈を覚えなさいと言った。

 私は人脈を覚えた。

 その結果、覚えた人々から沢山の用事を頼まれたので、詩人の方が将来を見通していたと思う。


 私は居間の窓際へ座り、本を開いた。

 ドンが足へ座った。

 読書の重石としては、大きすぎた。


 最初の詩は、帰りの遅い人を待つ話だった。

 雨の音を聞きながら、椅子を一つ、火の近くへ寄せる。

 来るかどうかは分からない。

 それでも、濡れた人が座れるようにしておく。


 私は、何度かその頁へ戻った。


 自分が待つ側だった頃には、こういう話を、少し嫌いになる日もあった。

 待てば必ず帰ってくる、とは限らないから。

 でも、この詩には必ず帰るとは書いていない。

 ただ、椅子が温かい。


 今の私には、その温かさが分かった。


「何を、お読みですか」


 夫の声がした。

 私は顔を上げた。

 彼は手紙を数通持って、居間へ入ってきたところだった。


「リゼットからです。詩集を」


 私は表紙を見せた。


 夫の口元が、少し動いた。


「まだ、書いているのか」


 声が違った。

 私へ話す時の声ではなく、遠くの誰かを思い出した声だった。


「お知り合いですか」

「昔、同じ学校に。雨とため息に、たいへん熱心な男でした」


 夫は手紙を机へ置いた。

 私は、本の上へ指を置いた。


「お読みになったことが?」

「昔のものなら。一冊読むと、靴下まで湿りそうでしたね」


 上手い言い方だった。

 私は、いつもなら笑ったかもしれない。

 今は笑えなかった。


 夫が、そのことに気づいた。


「……お気に入りでしたか」


 私はうなずいた。


「はい」


 ドンが寝返りを打った。

 私の足が、さらに動かしにくくなった。


「すみません」


 夫が言った。


「好きなものとは知らずに」


 私は本を閉じなかった。

 閉じると、彼の言葉の方を選んだような気がした。


「私が好きでなければ、笑ってよいのでしょうか」


 言った後、自分でも少し驚いた。

 夫も黙った。


 私は、息をした。


「いえ。違いますね。私も、伯父様の絵を笑いました」


 夫は答えなかった。

 その沈黙が、今は怖かった。


「うまく、言えません」


 私は正直に言った。


「でも、まだ読んでいない本まで、同じだと決めてほしくありませんでした」


 夫は緑の表紙を見た。

 何か言いかけて、やめた。


「そうですね」


 短い答えだった。

 私は、頷いた。

 それで終わるはずだった。


 なのに夫が、少しだけ硬い声で続けた。


「彼は、あなたが思うほど、繊細な男ではありません」


 私は顔を上げた。


「その方がどんな方かは、存じません」


 自分の声も、硬くなっていた。


「本を、読んでいるのです」


 夫の目が私へ戻った。

 少しの間、どちらも動かなかった。


 同じ相手を笑っていた時には、簡単だった。

 今日は、同じ方を向いていなかった。


 *


 夫が書斎へ戻った後、私は同じ頁を読んだ。

 さっきは温かかった椅子が、今は少し寂しかった。

 詩が変わったのではない。

 読む私の方が、忙しかった。


 ドンが、ようやく足から降りた。

 私は膝を伸ばし、窓の外を見た。


 何でも同じものが好きな夫婦など、いない。

 分かっている。

 私は柔らかいパンが好きで、夫は端の硬いところを好む。そんな違いは、毎朝便利だった。


 好きな詩集を笑われると、違いが急に痛くなる。

 夫の好きなものを、私も知らずに笑っていたかもしれない。


 私は本を机へ置いた。

 彼へ貸そうかと思い、やめた。

 今すぐ読んでくださいと迫るのも、何か違った。


 夕食の時、夫はいつもどおり椅子を引いた。

 私も、いつもどおり礼を言った。

 スープは温かかった。

 会話だけが、少し冷めていた。


「明日は、お出かけですか」


 夫が尋ねた。


「伯母のところへ、残した荷物を取りに行きます。本が、まだ少し」


 夫は机の方を見た。

 今日の本が置いてある場所ではなかった。

 それでも、二人とも同じ本を考えた。


「一人で?」

「リゼットが、近くまで来てくれます」


 夫がうなずいた。

 そこで、会話が止まった。


 私は匙を置いた。


「あの本のことで、怒っていらっしゃいますか」


 夫も匙を置いた。


「あなたにでは、ありません」


 私は彼を見た。


「では、誰に」


 夫は、しばらく答えなかった。


「昔のことを、思い出しました」


 私は待った。

 伯父の話をする時より、待ちたかった。


 夫は、少しだけ椅子へ座り直した。


「彼の最初の詩を、学校で読みました。仲間がいるところで、つまらないと言った」


 私は動かなかった。


「言い方は、もっと悪かった。読むより焚きつけにした方が、人を温められる、と」


 食堂が静かになった。

 私たちがまだ子どもだった頃のことなのに、言葉は今も鋭かった。


「皆が、笑いました」


 夫の声が低くなった。


「彼も笑った。だから、構わないと思った」


 私は、自分の手を見た。

 伯母の家で、何度も笑った手だった。


「その後は」


 尋ねると、夫は首を振った。


「見せなくなりました。卒業して、何度か会いましたが、詩の話はしなかった」


 私は窓の外を見た。

 夜だった。

 昼間の本は、彼のいないところでも書かれていた。


「それで、まだ書いているのか、と」


 夫は、ゆっくりうなずいた。


「やめたと思っていた。そう思う方が、気楽だったのかもしれません」


 私は、すぐに慰めなかった。

 昔のことですから、と言えば、この話は終わる。

 それでは、夫が話した意味までなくなりそうだった。


「その本を貸してほしい」


 彼が言った。

 私は顔を上げた。


「私が好きだと申したから、褒める必要はありません」

「褒めるつもりで読むのではなく、今、何を書いているか知りたい」


 私はうなずいた。


「後で、お持ちします」


 スープは、少し冷めていた。

 私は匙を取った。

 夫も、食事へ戻った。


 *


 夜、書斎へ本を持っていった。

 夫は立ち上がり、受け取った。


「ありがとう」


 私はうなずいた。

 扉へ戻りかけた時、彼が呼んだ。


「ヴィヴィアン」


 振り返ると、夫は本を机へ置いた。


「あなたが笑わなくて、よかった」


 私は彼を見た。

 返事をする前に、少し考えた。


「私が笑っても、後で気づいてください」


 夫の目が、わずかに動いた。


「私も、何でも正しく笑えるわけではありません」


 彼は、ゆっくりうなずいた。


「そうします」


 私は一歩戻り、彼の上着へ手を置いた。

 昼間より、顔が近かった。


「今日は、嫌いになったわけではありません」


 言うと、夫が小さく息をした。


「少し、心配しました」

「私もです」


 私たちは、困ったように笑った。

 彼の手が、私の腰へ触れた。

 私はその腕の中へ入った。


 同じものを笑うのは、楽しい。

 違うものが好きなまま、こうしていられることも、知っておきたかった。


「読み終えたら、感想を聞かせてください」


 私は彼の胸へ額を寄せて言った。


「靴下以外で」


 夫が笑った。

 今度は、私も一緒に笑えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。