第09話 あなたの嫌いな本が好きです
リゼットが貸してくれた本は、緑の表紙だった。
届いた包みを開けると、小さな紙が落ちた。
『返却は急ぎません。旦那様から生還する方を優先してください』
私は紙を裏返した。
裏にも書いてあった。
『舞踏会の話を、子爵夫人から聞きました。心配は撤回します』
撤回するなら、一行目を消してほしかった。
でも、リゼットらしくて笑った。
本は詩集だった。
作者はオクターヴ・ルセル。
伯母の家にいた頃、一冊だけ読んだことがある。偉大な戦いや由緒正しい一族は、ほとんど出てこない。雨で靴が濡れたとか、焼き菓子を焦がしたとか、小さな出来事ばかり書く人だった。
伯母は、そういう本を読む暇があったら人脈を覚えなさいと言った。
私は人脈を覚えた。
その結果、覚えた人々から沢山の用事を頼まれたので、詩人の方が将来を見通していたと思う。
私は居間の窓際へ座り、本を開いた。
ドンが足へ座った。
読書の重石としては、大きすぎた。
最初の詩は、帰りの遅い人を待つ話だった。
雨の音を聞きながら、椅子を一つ、火の近くへ寄せる。
来るかどうかは分からない。
それでも、濡れた人が座れるようにしておく。
私は、何度かその頁へ戻った。
自分が待つ側だった頃には、こういう話を、少し嫌いになる日もあった。
待てば必ず帰ってくる、とは限らないから。
でも、この詩には必ず帰るとは書いていない。
ただ、椅子が温かい。
今の私には、その温かさが分かった。
「何を、お読みですか」
夫の声がした。
私は顔を上げた。
彼は手紙を数通持って、居間へ入ってきたところだった。
「リゼットからです。詩集を」
私は表紙を見せた。
夫の口元が、少し動いた。
「まだ、書いているのか」
声が違った。
私へ話す時の声ではなく、遠くの誰かを思い出した声だった。
「お知り合いですか」
「昔、同じ学校に。雨とため息に、たいへん熱心な男でした」
夫は手紙を机へ置いた。
私は、本の上へ指を置いた。
「お読みになったことが?」
「昔のものなら。一冊読むと、靴下まで湿りそうでしたね」
上手い言い方だった。
私は、いつもなら笑ったかもしれない。
今は笑えなかった。
夫が、そのことに気づいた。
「……お気に入りでしたか」
私はうなずいた。
「はい」
ドンが寝返りを打った。
私の足が、さらに動かしにくくなった。
「すみません」
夫が言った。
「好きなものとは知らずに」
私は本を閉じなかった。
閉じると、彼の言葉の方を選んだような気がした。
「私が好きでなければ、笑ってよいのでしょうか」
言った後、自分でも少し驚いた。
夫も黙った。
私は、息をした。
「いえ。違いますね。私も、伯父様の絵を笑いました」
夫は答えなかった。
その沈黙が、今は怖かった。
「うまく、言えません」
私は正直に言った。
「でも、まだ読んでいない本まで、同じだと決めてほしくありませんでした」
夫は緑の表紙を見た。
何か言いかけて、やめた。
「そうですね」
短い答えだった。
私は、頷いた。
それで終わるはずだった。
なのに夫が、少しだけ硬い声で続けた。
「彼は、あなたが思うほど、繊細な男ではありません」
私は顔を上げた。
「その方がどんな方かは、存じません」
自分の声も、硬くなっていた。
「本を、読んでいるのです」
夫の目が私へ戻った。
少しの間、どちらも動かなかった。
同じ相手を笑っていた時には、簡単だった。
今日は、同じ方を向いていなかった。
*
夫が書斎へ戻った後、私は同じ頁を読んだ。
さっきは温かかった椅子が、今は少し寂しかった。
詩が変わったのではない。
読む私の方が、忙しかった。
ドンが、ようやく足から降りた。
私は膝を伸ばし、窓の外を見た。
何でも同じものが好きな夫婦など、いない。
分かっている。
私は柔らかいパンが好きで、夫は端の硬いところを好む。そんな違いは、毎朝便利だった。
好きな詩集を笑われると、違いが急に痛くなる。
夫の好きなものを、私も知らずに笑っていたかもしれない。
私は本を机へ置いた。
彼へ貸そうかと思い、やめた。
今すぐ読んでくださいと迫るのも、何か違った。
夕食の時、夫はいつもどおり椅子を引いた。
私も、いつもどおり礼を言った。
スープは温かかった。
会話だけが、少し冷めていた。
「明日は、お出かけですか」
夫が尋ねた。
「伯母のところへ、残した荷物を取りに行きます。本が、まだ少し」
夫は机の方を見た。
今日の本が置いてある場所ではなかった。
それでも、二人とも同じ本を考えた。
「一人で?」
「リゼットが、近くまで来てくれます」
夫がうなずいた。
そこで、会話が止まった。
私は匙を置いた。
「あの本のことで、怒っていらっしゃいますか」
夫も匙を置いた。
「あなたにでは、ありません」
私は彼を見た。
「では、誰に」
夫は、しばらく答えなかった。
「昔のことを、思い出しました」
私は待った。
伯父の話をする時より、待ちたかった。
夫は、少しだけ椅子へ座り直した。
「彼の最初の詩を、学校で読みました。仲間がいるところで、つまらないと言った」
私は動かなかった。
「言い方は、もっと悪かった。読むより焚きつけにした方が、人を温められる、と」
食堂が静かになった。
私たちがまだ子どもだった頃のことなのに、言葉は今も鋭かった。
「皆が、笑いました」
夫の声が低くなった。
「彼も笑った。だから、構わないと思った」
私は、自分の手を見た。
伯母の家で、何度も笑った手だった。
「その後は」
尋ねると、夫は首を振った。
「見せなくなりました。卒業して、何度か会いましたが、詩の話はしなかった」
私は窓の外を見た。
夜だった。
昼間の本は、彼のいないところでも書かれていた。
「それで、まだ書いているのか、と」
夫は、ゆっくりうなずいた。
「やめたと思っていた。そう思う方が、気楽だったのかもしれません」
私は、すぐに慰めなかった。
昔のことですから、と言えば、この話は終わる。
それでは、夫が話した意味までなくなりそうだった。
「その本を貸してほしい」
彼が言った。
私は顔を上げた。
「私が好きだと申したから、褒める必要はありません」
「褒めるつもりで読むのではなく、今、何を書いているか知りたい」
私はうなずいた。
「後で、お持ちします」
スープは、少し冷めていた。
私は匙を取った。
夫も、食事へ戻った。
*
夜、書斎へ本を持っていった。
夫は立ち上がり、受け取った。
「ありがとう」
私はうなずいた。
扉へ戻りかけた時、彼が呼んだ。
「ヴィヴィアン」
振り返ると、夫は本を机へ置いた。
「あなたが笑わなくて、よかった」
私は彼を見た。
返事をする前に、少し考えた。
「私が笑っても、後で気づいてください」
夫の目が、わずかに動いた。
「私も、何でも正しく笑えるわけではありません」
彼は、ゆっくりうなずいた。
「そうします」
私は一歩戻り、彼の上着へ手を置いた。
昼間より、顔が近かった。
「今日は、嫌いになったわけではありません」
言うと、夫が小さく息をした。
「少し、心配しました」
「私もです」
私たちは、困ったように笑った。
彼の手が、私の腰へ触れた。
私はその腕の中へ入った。
同じものを笑うのは、楽しい。
違うものが好きなまま、こうしていられることも、知っておきたかった。
「読み終えたら、感想を聞かせてください」
私は彼の胸へ額を寄せて言った。
「靴下以外で」
夫が笑った。
今度は、私も一緒に笑えた。




