第10話 返していただくもの
伯母の屋敷へ行く朝、ロラン様は私の緑色の本を抱えて食堂に現れた。
「読みました」
「ご愁傷様です。それとも、おめでとうございます?」
「まだ決めかねています」
彼は私の向かいに座り、栞の挟まった頁を開いた。
「この、窓辺の椅子の詩は好きです」
そこは昨夜、私が読み返したところだった。嬉しくなった顔を紅茶で隠す。
「椅子を動かせば窓が開くでしょう。待っている相手が来なくても、風は入る。そんなことをわざわざ書く人だったか、と」
「そういう人になったのかもしれません」
「そうですね」
簡単な返事なのに、少し時間がかかった。
「こちらの焼き菓子の詩は、私は理解できませんでした」
「焼けすぎたものでも食べるという詩です」
「それは分かります。ただ、二度目は時間を短くすべきでは」
「貴方は詩人にならない方がよさそうですね」
「皆のためにも」
彼は笑って本を閉じた。それを私の横に置く手が、一瞬だけ私の手に触れた。
昨夜の言い争いがなかったことになるわけではない。けれど今朝、続きを言えることが嬉しかった。
「お帰りは?」
「昼食までには。長引いたら、リゼットを先に逃がします」
「貴女も逃げてください」
「本を置いて?」
「私に取ってこさせればいい」
「伯母は貴方にも仕事を頼みますよ」
「私の欠点は仕事を断る速さだそうです」
「便利な欠点」
「今日は使いどころでしょう」
玄関で別れる時、私は彼の上着の袖を引いた。一度だけ。
彼が振り返る。
「二度ではありませんね」
「まだ出ていませんから」
「では?」
私が答えないでいると、彼は少し屈んだ。朝の口づけは短く、戻るようにもう一度触れた。
馬車の窓から見えた彼は、相変わらず人を簡単に許してくれなさそうな顔をしていた。
それを私は、とても好きになりかけていた。
*
「顔が違う」
待ち合わせた角で馬車に乗り込むなり、リゼットが言った。
「帽子を替えたの」
「帽子の下よ」
「顔まで替えるほど暇ではなくて」
「ああ、よかった。口はそのまま」
彼女は隣に腰を下ろして、小さな籠を膝へ載せた。中には布と紐が入っている。
「本を包むのに必要でしょう。あのお屋敷から借りると、包みまでいつか返せと言われそうだから」
「たぶん包みを返す日に昼食の席札を書かされるわ」
「じゃあ紐も余計に持ってきて正解ね」
笑いながら、私は彼女の手袋に目を留めた。右の親指が繕ってある。小さくて、丁寧な縫い目だった。
「お父様は?」
「昨日は庭に出られた。今日は弟が一緒にいる。貴女の本なら、父も取り返してこいと言っていたわ」
「借金の取り立てみたい」
「お金より難しいもの。持ち主が忘れたことにしたい人が相手でしょう」
伯母の屋敷が見えてきた。何度も馬車から降りた玄関なのに、今日は扉の高さが違って見える。扉が縮んだのではなく、私が帰る場所を別に持ったせいだった。
迎えたエマが私の顔を見て、明らかにほっとした。
「奥様」
まだその呼ばれ方に慣れなくて、後ろを見そうになった。
「お変わりございませんか」
「ええ。犬が大きいくらい」
「犬、ですか」
「私の足に座るの。貴女より重いと思うわ」
エマが口を押さえた。笑う時の仕草も、廊下の奥を気にする目も、変わっていなかった。
伯母は居間にいた。私の到着を聞くなり、卓上の封筒を三通、重ねた。
「ちょうどよかった。貴女の字で書いてもらいたいものがあるの」
「今日は本を取りに参りました」
「すぐ済むわ」
「私もそう願っています」
封筒ではなく階段へ目を向けると、伯母は唇を結んだ。その横から明るい声がした。
「ヴィヴィアン、久しぶり。私もいるのよ」
窓辺の椅子からジュリエットが立った。淡い紫のドレスはよく似合っていたし、こちらを迎える両腕にもためらいはなかった。
「本当に綺麗になった。結婚って不思議ね」
「顔に何か付いているのかしら。今日は二人目」
「幸せって、分かるものよ」
抱擁は軽く、彼女の香水は昔と同じだった。
私はジュリエットを憎んでいたわけではない。彼女が笑っている横で、彼女のために必要なものを探して一日が終わるのが嫌だった。けれど本人が手を広げれば、以前と同じように抱き返してしまう。
「貴女のお部屋、少し使わせてもらっているの」
「そう」
「嫁ぎ先が屋根を直していて。母の近くは落ち着くでしょう? 荷物を置く場所が足りなくて」
嫌な予感がした。
階段を上がる私たちに、伯母が下から言った。
「本なら北の物置よ。いつまでも空き部屋にはしておけないもの」
私の部屋は、空き部屋だったことが一度もない。
でももう、それを言うために立ち止まる気にはならなかった。
北の物置では、窓の下に木箱が二つ積まれていた。上の箱には客用の燭台、下の箱には本が入っていた。
背表紙が横になり、革の隅が折れている。
「あら」
リゼットが短く言った。
私は燭台の箱をどかそうとして持ち上げられず、腰をかがめたエマと二人で床へ下ろした。金属が触れ合って大きな音を立てた。
「ごめんなさい。私が運ぶ時に別にすれば」
「貴女が運んだの?」
「はい、でも」
「この燭台も?」
細い腕を見て、それ以上の問いは飲み込んだ。
「じゃあ、今日は本を一緒に運んで」
箱の底に、母の読み聞かせに使っていた動物の話があった。表紙には小さな狐が描かれている。私はそれを先に取り上げ、袖で埃を払った。
「それ、まだ持っていたの」
後ろに来たジュリエットが覗き込んだ。
「捨てたと思っていた」
「捨てていないわ」
「私の子供が生まれたら貸してね。貴女、読んであげるのも上手だったでしょう」
「生まれるの?」
「いいえ。でもいずれ」
彼女は未来に必要なものを、ひとまず私の手から予約しようとした。その自然さに、昔なら私も頷いていたと思う。
「これは貸せないの」
「どうして?」
「私が読みたいから」
「でも子供の本よ?」
「文字の小ささに制限はないでしょう」
ジュリエットは少し驚いた顔をした。
「怒っているの?」
「本を持って帰るところよ」
リゼットが床に布を広げ、私へ片手を差し出した。私は本を渡した。白い布に狐の表紙が見えなくなる時、急に喉の奥が熱くなった。
ジュリエットは黙って私たちを見ていたが、やがて箱の端に膝をついた。
「これも貴女の?」
青い詩集だった。
「ええ」
「全部?」
「この箱は全部」
「知らなかった」
何を、と聞きたかった。
この家に私のものがあることを。自分に要らないものでも私には必要なことを。それとも、本が重いことだろうか。
けれどジュリエットは青い詩集を埃から救って、リゼットの前へ置いた。
「それなら、上に物を置かせなければよかったわ」
言葉が遅いことはある。
私は知っていた。自分も、昨日まで言えなかったことがある。
「そうね」
許したとも許さなかったともつかない返事をした。ジュリエットは次の一冊を持ち上げた。
*
居間へ戻ると、封筒は開かれて宛名の見本まで並んでいた。
「先にこちらだけ」
「本が積めましたので、帰ります」
「ヴィヴィアン」
伯母の声にエマが肩を小さくした。
「結婚したからといって、何でも好きにしていいわけではありません。侯爵家の奥方らしい振る舞いをなさい」
「では、侯爵家の用事を優先いたします」
「何の用事?」
昼食を夫と取る。
それがこんなに立派な用事になる日が来るとは思わなかった。
「夫が待っていますので」
伯母は、一瞬言葉を失った。
横にいたジュリエットが私の顔を見て、不思議そうに笑った。
「本当に待っているのね」
「ええ」
「それじゃあ、仕方がないわ。お母様、封筒は私が書きます」
「貴女の字では」
伯母がそこで言葉を止めた。
ジュリエットの笑顔も止まった。
私は、続きの言葉を誰よりよく知っていた。いつもなら私に向けられる種類の声だったから。
リゼットが私の肘に触れた。
「侯爵がお腹を空かせるわ」
「そうね。よそ様のお子様を食べないうちに帰らなくては」
今度はジュリエットが、訳も分からず吹き出した。
馬車へ乗る前、彼女は小さな封筒を私へ渡した。
「部屋の引き出しにあったの。危うく忘れるところだった」
中身は、母の字で私の名前だけが書かれた紙だった。贈り物に添えられた札。捨てられずに仕舞ったまま、忘れていたもの。
「ありがとう」
「お礼を言われるほどではないわ」
「そうね。でも、ありがとう」
今度は彼女も、頷くだけだった。
リゼットを家の前で降ろす時、私は昼食に誘った。
「今日は戻らないと。父が薬を飲まずに待っていそう」
「またいらして」
「もちろん。貴女の本を借りるのが楽になったもの」
彼女は笑って籠を持った。空になった籠の底で、一本だけ余った紐が動いた。
「あと、今朝の顔の話だけれど」
「まだあるの?」
「あの家を出る時の方が、もっとよかった」
私は返す言葉を考えているうちに、友人の背中を見送ることになった。
帰宅すると、ロラン様は玄関にいた。
「何人召し上がりました?」
「何を?」
「お昼前に帰れてよかったという話です」
彼は事情を聞くより先に、私の腕から一番大きい包みを取った。
「重いですね」
「私のものですから」
「では、大事に運ばなくては」
私は残った小さな包みを抱いて、彼の後を歩いた。
階段の途中で彼が振り返る。
「どこへ?」
以前なら、空いているところと答えただろう。
「図書室へ。私の椅子から届く棚がいいです」
「分かりました」
そうして彼が運んだ本の中に、まだ夫の知らない私が何人もいた。




