↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷遇された令嬢の政略結婚、旦那様と悪口の趣味が合いすぎます  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/33

第10話 返していただくもの

 伯母の屋敷へ行く朝、ロラン様は私の緑色の本を抱えて食堂に現れた。


「読みました」

「ご愁傷様です。それとも、おめでとうございます?」

「まだ決めかねています」


 彼は私の向かいに座り、栞の挟まった頁を開いた。


「この、窓辺の椅子の詩は好きです」


 そこは昨夜、私が読み返したところだった。嬉しくなった顔を紅茶で隠す。


「椅子を動かせば窓が開くでしょう。待っている相手が来なくても、風は入る。そんなことをわざわざ書く人だったか、と」

「そういう人になったのかもしれません」

「そうですね」


 簡単な返事なのに、少し時間がかかった。


「こちらの焼き菓子の詩は、私は理解できませんでした」

「焼けすぎたものでも食べるという詩です」

「それは分かります。ただ、二度目は時間を短くすべきでは」

「貴方は詩人にならない方がよさそうですね」

「皆のためにも」


 彼は笑って本を閉じた。それを私の横に置く手が、一瞬だけ私の手に触れた。

 昨夜の言い争いがなかったことになるわけではない。けれど今朝、続きを言えることが嬉しかった。


「お帰りは?」

「昼食までには。長引いたら、リゼットを先に逃がします」

「貴女も逃げてください」

「本を置いて?」

「私に取ってこさせればいい」

「伯母は貴方にも仕事を頼みますよ」

「私の欠点は仕事を断る速さだそうです」

「便利な欠点」

「今日は使いどころでしょう」


 玄関で別れる時、私は彼の上着の袖を引いた。一度だけ。

 彼が振り返る。


「二度ではありませんね」

「まだ出ていませんから」

「では?」


 私が答えないでいると、彼は少し屈んだ。朝の口づけは短く、戻るようにもう一度触れた。

 馬車の窓から見えた彼は、相変わらず人を簡単に許してくれなさそうな顔をしていた。

 それを私は、とても好きになりかけていた。


     *


「顔が違う」


 待ち合わせた角で馬車に乗り込むなり、リゼットが言った。


「帽子を替えたの」

「帽子の下よ」

「顔まで替えるほど暇ではなくて」

「ああ、よかった。口はそのまま」


 彼女は隣に腰を下ろして、小さな籠を膝へ載せた。中には布と紐が入っている。


「本を包むのに必要でしょう。あのお屋敷から借りると、包みまでいつか返せと言われそうだから」

「たぶん包みを返す日に昼食の席札を書かされるわ」

「じゃあ紐も余計に持ってきて正解ね」


 笑いながら、私は彼女の手袋に目を留めた。右の親指が繕ってある。小さくて、丁寧な縫い目だった。


「お父様は?」

「昨日は庭に出られた。今日は弟が一緒にいる。貴女の本なら、父も取り返してこいと言っていたわ」

「借金の取り立てみたい」

「お金より難しいもの。持ち主が忘れたことにしたい人が相手でしょう」


 伯母の屋敷が見えてきた。何度も馬車から降りた玄関なのに、今日は扉の高さが違って見える。扉が縮んだのではなく、私が帰る場所を別に持ったせいだった。

 迎えたエマが私の顔を見て、明らかにほっとした。


「奥様」


 まだその呼ばれ方に慣れなくて、後ろを見そうになった。


「お変わりございませんか」

「ええ。犬が大きいくらい」

「犬、ですか」

「私の足に座るの。貴女より重いと思うわ」


 エマが口を押さえた。笑う時の仕草も、廊下の奥を気にする目も、変わっていなかった。

 伯母は居間にいた。私の到着を聞くなり、卓上の封筒を三通、重ねた。


「ちょうどよかった。貴女の字で書いてもらいたいものがあるの」

「今日は本を取りに参りました」

「すぐ済むわ」

「私もそう願っています」


 封筒ではなく階段へ目を向けると、伯母は唇を結んだ。その横から明るい声がした。


「ヴィヴィアン、久しぶり。私もいるのよ」


 窓辺の椅子からジュリエットが立った。淡い紫のドレスはよく似合っていたし、こちらを迎える両腕にもためらいはなかった。


「本当に綺麗になった。結婚って不思議ね」

「顔に何か付いているのかしら。今日は二人目」

「幸せって、分かるものよ」


 抱擁は軽く、彼女の香水は昔と同じだった。

 私はジュリエットを憎んでいたわけではない。彼女が笑っている横で、彼女のために必要なものを探して一日が終わるのが嫌だった。けれど本人が手を広げれば、以前と同じように抱き返してしまう。


「貴女のお部屋、少し使わせてもらっているの」

「そう」

「嫁ぎ先が屋根を直していて。母の近くは落ち着くでしょう? 荷物を置く場所が足りなくて」


 嫌な予感がした。

 階段を上がる私たちに、伯母が下から言った。


「本なら北の物置よ。いつまでも空き部屋にはしておけないもの」


 私の部屋は、空き部屋だったことが一度もない。

 でももう、それを言うために立ち止まる気にはならなかった。


 北の物置では、窓の下に木箱が二つ積まれていた。上の箱には客用の燭台、下の箱には本が入っていた。

 背表紙が横になり、革の隅が折れている。


「あら」


 リゼットが短く言った。

 私は燭台の箱をどかそうとして持ち上げられず、腰をかがめたエマと二人で床へ下ろした。金属が触れ合って大きな音を立てた。


「ごめんなさい。私が運ぶ時に別にすれば」

「貴女が運んだの?」

「はい、でも」

「この燭台も?」


 細い腕を見て、それ以上の問いは飲み込んだ。


「じゃあ、今日は本を一緒に運んで」


 箱の底に、母の読み聞かせに使っていた動物の話があった。表紙には小さな狐が描かれている。私はそれを先に取り上げ、袖で埃を払った。


「それ、まだ持っていたの」


 後ろに来たジュリエットが覗き込んだ。


「捨てたと思っていた」

「捨てていないわ」

「私の子供が生まれたら貸してね。貴女、読んであげるのも上手だったでしょう」

「生まれるの?」

「いいえ。でもいずれ」


 彼女は未来に必要なものを、ひとまず私の手から予約しようとした。その自然さに、昔なら私も頷いていたと思う。


「これは貸せないの」

「どうして?」

「私が読みたいから」

「でも子供の本よ?」

「文字の小ささに制限はないでしょう」


 ジュリエットは少し驚いた顔をした。


「怒っているの?」

「本を持って帰るところよ」


 リゼットが床に布を広げ、私へ片手を差し出した。私は本を渡した。白い布に狐の表紙が見えなくなる時、急に喉の奥が熱くなった。

 ジュリエットは黙って私たちを見ていたが、やがて箱の端に膝をついた。


「これも貴女の?」


 青い詩集だった。


「ええ」

「全部?」

「この箱は全部」

「知らなかった」


 何を、と聞きたかった。

 この家に私のものがあることを。自分に要らないものでも私には必要なことを。それとも、本が重いことだろうか。

 けれどジュリエットは青い詩集を埃から救って、リゼットの前へ置いた。


「それなら、上に物を置かせなければよかったわ」


 言葉が遅いことはある。

 私は知っていた。自分も、昨日まで言えなかったことがある。


「そうね」


 許したとも許さなかったともつかない返事をした。ジュリエットは次の一冊を持ち上げた。


     *


 居間へ戻ると、封筒は開かれて宛名の見本まで並んでいた。


「先にこちらだけ」

「本が積めましたので、帰ります」

「ヴィヴィアン」


 伯母の声にエマが肩を小さくした。


「結婚したからといって、何でも好きにしていいわけではありません。侯爵家の奥方らしい振る舞いをなさい」

「では、侯爵家の用事を優先いたします」

「何の用事?」


 昼食を夫と取る。

 それがこんなに立派な用事になる日が来るとは思わなかった。


「夫が待っていますので」


 伯母は、一瞬言葉を失った。

 横にいたジュリエットが私の顔を見て、不思議そうに笑った。


「本当に待っているのね」

「ええ」

「それじゃあ、仕方がないわ。お母様、封筒は私が書きます」

「貴女の字では」


 伯母がそこで言葉を止めた。

 ジュリエットの笑顔も止まった。

 私は、続きの言葉を誰よりよく知っていた。いつもなら私に向けられる種類の声だったから。

 リゼットが私の肘に触れた。


「侯爵がお腹を空かせるわ」

「そうね。よそ様のお子様を食べないうちに帰らなくては」


 今度はジュリエットが、訳も分からず吹き出した。


 馬車へ乗る前、彼女は小さな封筒を私へ渡した。


「部屋の引き出しにあったの。危うく忘れるところだった」


 中身は、母の字で私の名前だけが書かれた紙だった。贈り物に添えられた札。捨てられずに仕舞ったまま、忘れていたもの。


「ありがとう」

「お礼を言われるほどではないわ」

「そうね。でも、ありがとう」


 今度は彼女も、頷くだけだった。


 リゼットを家の前で降ろす時、私は昼食に誘った。


「今日は戻らないと。父が薬を飲まずに待っていそう」

「またいらして」

「もちろん。貴女の本を借りるのが楽になったもの」


 彼女は笑って籠を持った。空になった籠の底で、一本だけ余った紐が動いた。


「あと、今朝の顔の話だけれど」

「まだあるの?」

「あの家を出る時の方が、もっとよかった」


 私は返す言葉を考えているうちに、友人の背中を見送ることになった。


 帰宅すると、ロラン様は玄関にいた。


「何人召し上がりました?」

「何を?」

「お昼前に帰れてよかったという話です」


 彼は事情を聞くより先に、私の腕から一番大きい包みを取った。


「重いですね」

「私のものですから」

「では、大事に運ばなくては」


 私は残った小さな包みを抱いて、彼の後を歩いた。

 階段の途中で彼が振り返る。


「どこへ?」


 以前なら、空いているところと答えただろう。


「図書室へ。私の椅子から届く棚がいいです」

「分かりました」


 そうして彼が運んだ本の中に、まだ夫の知らない私が何人もいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。