第11話 最後のひとくちは誰のもの
ロラン様は、お菓子をひとくちだけ残す。
大きな菓子でも小さな菓子でも、最後に親指の爪ほどを皿へ置く。最初はお腹が一杯なのだと思った。次は、その部分だけ不味いのかと思った。
三度目には、尋ねた。
「その端に、侯爵家の守るべき秘密が入っているのですか」
庭の楡の木の下だった。日差しが強くなって、午後のお茶を外へ運んでもらった日のことだ。
彼は皿を見た。
「いえ」
「では、食べても?」
「どうぞ」
私は杏の焼き菓子をつまんだ。普通に甘かった。横の犬が不満そうに鼻を鳴らした。
「貴方には多いのよ」
「私もそう思います」
「ロラン様ではなく、ドンです」
「分かっています」
彼は笑ったが、それから少し遠くを見た。
「祖父に残していたんです」
「お祖父様に?」
「父は甘いものを嫌ったので、祖父も自分のためには頼まなかった。私が余らせると、勿体ないと言って食べる」
本人が食べたいと言えば済む家ばかりではない。侯爵家にも、そんな小さな窮屈さがあったのだ。
「悪いお孫さん」
「食べられない振りは、なかなかのものでした」
「今は?」
「習慣ですね。祖父が亡くなって、十二年になります」
私は空になった皿を見た。
「先に言ってください。食べてしまいました」
「祖父が困ることはありません。もう歯も必要ないでしょうし」
「随分と便利なところへいらしたのね」
「冬も膝が痛まないなら、なおいい」
笑っている彼の横顔を見た。その人が好きだったのだろう。今ここにいない人を話す時、ロラン様の声は少しだけ幼くなる。
私は自分の焼き菓子を半分に割った。
「祖父の分を返してくださるのですか」
「私が半分食べてしまわないうちに、どうぞ」
彼は受け取って、残さず食べた。
代わりに私の指先に付いた粉を、彼の親指が払った。なんでもない動きだった。なのに私は、その指を目で追ってしまう。
「まだ付いています?」
「いいえ」
「では、なぜ見ているのですか」
「貴方のせいです」
彼はよく分からない顔で、それでも少し楽しそうにした。私は困らせたかったのに、自分ばかり困っている。
その時、バジルが封書を持ってきた。
「フィリップ子爵夫人からでございます」
中身は、来月催す予定の仮装の夜会についての相談だった。友人だけを呼ぶ、小さなものらしい。参加者が一曲ずつ歌うか、何か芸を披露する。夫人は私たちにも一緒に考えてほしいと書いていた。
「芸」
ロラン様が、その一文字を疑うように読んだ。
「私の何を期待しているのでしょう」
「お客様が帰らない時、睨んでいただくためでは」
「それなら専業の者を雇うより安く済みますね」
同封の小さな紙には、夫人の筆で追伸があった。
――夫は鶏をやりたいと言っています。私の夫が鶏である夜を、一人で乗り切る勇気がありません。
私は声を上げて笑った。
「伺いましょう。子爵夫人が気の毒です」
「助けになるでしょうか」
「少なくとも、目を合わせて笑える人が増えます」
彼は手紙を見ながら考えていた。
「仮装をすると、人は普段しないことをするそうですね」
「貴方も、踊りがお上手に?」
「そこまでの奇跡は見込んでいません」
庭の風が紙をめくった。その下に、参加者の候補が見えた。
オクターヴ・ルセル。
私は、彼より先にその名前を見つけた。
*
子爵夫人は二日後、私たちが訪ねると、腕いっぱいの布を抱えて出てきた。
「見て。これ、尾羽ですって」
赤茶の羽飾りが彼女の頬に刺さりそうになっていた。
「見事な鶏ですね」
「まだ尾しか来ていないのに、夫より場所を取るのよ」
ロラン様が無言で大きな羽を受け取った。居間まで運ぶ姿を見ていると、私はどうしても笑ってしまった。
「お似合いです」
「結婚式にも言われました」
「今日は本心」
「結婚式は?」
夫人が面白そうにこちらを見たので、私は返事をやめた。
居間の卓には仮面が並んでいた。猫、梟、狐、蝶。私は狐を手に取った。金色の輪郭に黒い耳があり、笑っているのか噛みつくのか分からない顔だった。
「それ、貴女にと思って」
「私、こんなに耳が尖っています?」
「お話を聞く時の気配がね」
夫人は自分に蝶を当ててみた。
「名前を呼ばず、声を少し変えて挨拶するの。立派な人も、立派でいないで済むでしょう。うちの夫は、普段からさほど立派ではないけれど」
フィリップ子爵が奥から現れた。脇に鶏の頭を抱えている。
「私は十分立派な鶏になるつもりだよ」
「それは明らかですわ」
夫人は一度も否定しなかった。
夫婦で一緒に、くだらないことを準備している。
こういう時間を、私は羨ましいと思った。招待客を何人呼べるかでも、何を褒められるかでもなく、鶏の尾が大きすぎることを二人で困っている。
「私たちも仮面を選びましょう」
私はロラン様を見た。
「貴方は何がお好き?」
「顔を隠せるもの」
「仮面ですもの」
「それはよかった」
彼は黒い猫を持ち上げた。こちらへ向けると、切れ長の目がよく似ている。
「悪い猫」
「狐に言われるとは」
私が彼に仮面を当てると、夫人が「動かないで」と言った。紐の長さを調べるから、と私に後ろへ回るよう促した。
髪の下に指を入れる。襟に触れた彼の首筋が温かかった。
「きつくありません?」
「いえ」
いつもより低い返事だった。
「それじゃあ、そのままで」
私は結び目を作った。指を離す前に、彼が少しこちらを向いた。
黒い猫の顔越しに、私を見ていた。
口元だけ見えるのは、顔が全部見えるよりずっと困る。
「狐も着けてみたら?」
夫人に言われて、私は我に返った。
話が催し物に移ると、子爵は詩の朗読も頼んだのだと言った。
「ルセル君が来てくれる。夫人の従弟と親しくてね。控えめな人だが、読んでもらうと案外面白い」
私はロラン様の仮面を膝の上へ置いた。
「御存じですか」
子爵が彼に尋ねる。
「学校で一緒でした」
「それはよかった。懐かしいだろう」
「彼がそう思うかは、分かりません」
部屋が少し静かになった。
私は口を挟まなかった。ロラン様が自分で言った言葉だった。
「昔、不愉快なことを言ったので」
「まあ。夫は今でも言うわ」
「私は鶏にまでなろうとしているのに」
「それでは埋まらない穴があるのよ」
夫人が軽く返してから、ロラン様へ向き直った。
「では、お会いになる?」
「ええ。彼が嫌でなければ」
「お伝えしておくわ。断られたら、それもお伝えします」
「お願いします」
帰りの馬車で、彼は黒猫の仮面を眺めていた。
「逃げ道が減りました」
「猫なら窓から逃げられます」
「狐も一緒に?」
「お話が終わったら」
彼は笑って、私の仮面を指でつついた。
「貴女が詩を好きだと知らなければ、会おうともしませんでした」
「私に免じて、というお願いはなさらないでね」
「それをすると、貴女にもっと嫌われそうです」
私は彼の袖を掴んだ。
「嫌ってはいません」
「知っています」
「そういうところは、少し嫌いです」
すぐ分かるような顔で笑わないでほしい。
私は窓を見ようとしたけれど、彼の手が私の手に重なって、失敗した。
*
仮面を見つけたドンが吠えた。
ロラン様が猫を着けてみせると、さらに吠えた。私が狐を当てると、急に黙って鼻を押しつけてきた。
「どうしてですか」
「見抜かれたのでは。猫はお嫌いなのね」
「私が悪かったような言い方ですね」
私は仮面を外し、猫の顔へ近づいた。
「にゃあ」
ドンが首を傾けた。
ロラン様が目を閉じた。
「人前で、それを?」
「何です、その顔」
「夜会でなさるのかと」
「犬には受けましたけれど」
「犬だけにしておいてください」
「貴方には受けませんでした?」
彼は返事をしないで、私の腰へ手を添えた。
廊下だった。誰が来るか分からない。
「ロラン様」
「少し、受けすぎました」
猫の鼻が邪魔になって、彼は仮面を外した。
私は笑った。そのせいで口づけが頬へずれ、彼がもう一度やり直すことになった。
ドンだけが、何がおかしいのか分からない顔で私たちを見上げていた。




