第08話 寝るにはまだ早いので
舞踏会から帰った夜、私は眠くなかった。
靴は脱いだ。
髪もほどいた。
薄い夜着の上に、部屋着を羽織った。
寝るための仕事は全部済ませたのに、肝心の眠気だけが働かなかった。
鏡の前で、私は自分を見た。
頬が、まだ少し赤い。
夫に踊ってもらった。
私を見ていると言われた。
それで足を踏んだ。
「最後が、余計だったわ」
声に出すと、なおさら余計だった。
私は、髪をもう一度梳いた。
部屋の向こうは静かだった。
夫の寝室は壁を一枚隔てた隣にある。最初の夜に咳払いを聞いて以来、私はこの壁が見た目ほど厚くないことを知っている。
今夜は、何も聞こえなかった。
もう眠ったのだろうか。
あんなことを言っておいて。
理不尽な不満が浮かんだ。
言ったから眠ってはいけない、という決まりはない。
でも、私は眠れていない。
夫婦として、少しくらい分担してほしかった。
私は扉を開けた。
*
廊下には、薄い灯りが残っていた。
書斎の扉の下だけ、明るかった。
私は、二度叩いた。
入ってよいと言われ、扉を開けた。
夫は、机ではなく長椅子に座っていた。
上着を脱ぎ、首元を緩めている。
手には本があったが、私を見るとすぐに閉じた。
「どうしました」
私は言葉を探した。
眠れないから、と言うと、温かい飲み物を出されそうだった。
それも好きだが、今夜の目的とは違う。
「寝るには、まだ早いと思いまして」
夫が時計を見た。
私はすぐに続けた。
「時計のご意見は、伺っておりません」
夫が私を見た。
少しずつ、笑う顔になった。
「では、私の意見を?」
「はい」
私は扉を閉めた。
閉めてから、自分のしたことに少し驚いた。
夫の目も、扉へ一度動いた。
「私も、まだ眠くありません」
その返事が嬉しくて、私は歩いた。
彼の隣へ座る。
昼間より、長椅子が小さく感じた。
「何をお読みでしたか」
「古い旅行記です」
私は表紙を見た。
半島の灯台について書かれた本だった。
「眠くなりそうな本ですね」
「眠れないので、選びました」
私は彼を見た。
夫は本を卓上へ置いた。
「何か、気になることでも?」
聞いたのは私だった。
返事を待つ間に、自分の心臓が速くなった。
夫は私の髪を見た。
ほどいたまま、肩へ落ちていた。
「あります」
短い答えだった。
私は口元を押さえたくなった。
でも、両手は膝に置いていた。
「私に、解決できますか」
夫が、ゆっくり息をした。
「そのおつもりで、いらしたのですか」
私は顔を上げた。
彼は笑っていなかった。
いつもより静かな目をしていた。
逃げるなら、今だった。
お茶が欲しかっただけです、と言えば、彼はきっと分かったふりをしてくれる。
私は、膝の上で手を握った。
「……はい」
言ってしまった。
夫が、本当に一度、目を閉じた。
*
「ヴィヴィアン」
名前を呼ばれた。
様がつかなかった。
私は彼を見た。
「今日、あなたが私と踊ったことを、伯父に言ってくれた時」
彼が少し、言葉を選んだ。
「嬉しかった」
私はうなずいた。
夫の靴を庇っただけではなかった。
私たちの時間へ、伯父に入ってほしくなかった。
「私は、あなたの妻ですから」
そう言うと、夫の顔が少し曇った。
「それだけですか」
私は黙った。
それだけではない。
夫だから、誰でもよかったわけではない。
伯母が選んだ結婚だからこそ、最初は諦めていた。
この家で食べるスープが温かくても、夫が私の財布を気にしなくても、それは不思議な幸運くらいに思っていた。
今は、違う。
同じ言葉を言う人がほかにいても、私はその人の隣へ来なかった。
「あなただからです」
私は答えた。
「ほかの方でしたら、今頃、眠っています」
夫の口元が緩んだ。
私は、ほっとして笑った。
「たいへん名誉な、睡眠妨害ですね」
彼の手が、私の頬へ触れた。
大きな掌だった。
私は動かなかった。
指が髪を一筋、耳の後ろへ寄せた。
それだけのことで、胸が苦しくなった。
「もう少し、こちらへ」
言われて、私は体を寄せた。
彼の膝に、自分の膝が触れた。
近すぎて、顔を全部見られない。
私は、目を閉じた。
口づけは、思っていたより静かだった。
何かが急に変わるわけではなく、ずっと気になっていた距離がなくなった。
すぐに離れたので、私は少し目を開けた。
夫が、私を見ていた。
「……終わりですか」
口に出してから、私は息を止めた。
夫の目が大きくなった。
それから、彼は額を私の額へ寄せた。
「あなたは」
言葉が止まった。
肩が、少し震えていた。
「笑わないでください」
「笑っていません」
「嘘です」
夫は、今度は本当に笑った。
私は彼の服を掴んだ。
その手を見て、夫の笑いがゆっくり消えた。
「終わりにしたくありません」
彼が言った。
私は、掴んだ手を離さなかった。
*
書斎の灯りは、一つ残した。
長椅子に座ったまま、私たちは何度か口づけをした。
夫の腕が背中へ回ると、私は思っていたより簡単にその中へ収まった。
心臓が速い。
私のものだけではないと気づくまで、少し時間がかかった。
「ロラン様も」
私は彼の胸元へ触れた。
「落ち着いていらっしゃらないのですね」
夫が、私の髪へ顔を寄せた。
「落ち着いているように、見えましたか」
「いつも」
「それは、努力の成果です」
私は笑った。
彼は私を少し離し、顔を見た。
「今夜は、その努力を続けた方がよいですか」
声が変わっていた。
私は彼を見た。
言葉の意味が分からないほど、子どもではない。
分かるから、頬が熱くなった。
私は小さく首を振った。
「今夜は、私を見ていてください」
舞踏会で、彼が言ったこと。
今度は、私が頼んだ。
夫は、私の手を取った。
長椅子から立つ時、私は少しだけ足がもつれた。
夫が支えた。
「今度は、靴を履いていません」
私が言うと、彼は笑った。
「心配は、していません」
書斎の扉を開けた。
廊下は静かだった。
隣り合う二つの寝室のうち、今夜は一つだけ、扉を開けた。
その先で交わした言葉は、誰の悪口でもなかった。
私はそのことを、翌朝まで、少し不思議に思っていた。
*
目が覚めると、知らない向きから光が入っていた。
それから、枕が違うことに気づいた。
最後に、隣に夫がいることを思い出した。
思い出す順番が、遅すぎた。
私は布団の中で固まった。
夫はもう起きていた。
片肘をつき、私を見ていた。
「おはようございます」
声が、昨夜より少し掠れていた。
私は、布団を顎まで引き上げた。
「おはよう、ございます」
夫の目が笑った。
私はその顔を睨んだ。
「何ですか」
「昨夜のあなたは、大変勇敢でしたので」
「朝の私とは、別人です」
夫は笑った。
私は枕へ顔を隠しかけた。
でも、彼の手が髪を撫でたので、そのまま彼を見た。
「よく、眠れましたか」
私はうなずいた。
「少しだけ」
夫が、一度、咳払いをした。
私は今度こそ笑った。
「壁の向こうより、よく聞こえますね」
彼が私を見た。
私は、布団の中から手を出した。
夫の頬へ、そっと触れる。
彼はその手へ顔を寄せた。
幸福というものは、もっと立派な顔で来るのだと思っていた。
朝の髪は乱れ、言葉は足りず、夫は咳払いをする。
それでも、私はこの朝を誰にも渡したくなかった。
廊下で、犬が扉を掻いた。
ドンには、夫婦の事情は関係がない。
朝の散歩に、一人足りないと抗議していた。
「どうしましょう」
私が尋ねると、夫は扉を見た。
「交渉してきます」
彼は起き上がった。
私は、その背中へ言った。
「負けていらしたら、戻ってきてください」
夫が振り返った。
「勝っても、戻ります」
私は笑って、枕へ頬をつけた。
朝の私も、昨夜と同じくらい、彼が好きだった。




