第07話 旦那様は踊りたくない
フィリップ子爵夫人から届いた招待状には、たった一つ、困った言葉があった。
舞踏。
「お嫌いですか」
夫が尋ねたので、私は首を振った。
「嫌いではありません。得意でもありませんが」
伯母の家で開かれた宴では、私は踊る人たちへ飲み物を運ぶ場所を気にしていた。誰かに申し込まれると、その瞬間だけ伯母の頼みが増えた。
使っている者を、よその者に借りられたくなかったのだろう。
馬車と同じだった。違いは、私は餌を食べながら待つことも許されなかった点だ。
「ロラン様は、お上手でしょう」
夫は、すぐには答えなかった。
私は顔を上げた。
「まさか」
「歩く方向は、分かります」
大変に不安な答えだった。
「それは、街へお出かけになる時も必要です」
「音楽がつくと、難しくなる」
私は夫を見た。
顔は真面目だった。
耳だけが、ほんの少し赤い。
笑ってはいけない、と思った。
思った時には、もう笑っていた。
「楽しいですか」
「はい。とても」
夫が眉を寄せた。
私は慌てて、彼の袖を掴んだ。
「嫌いになったのではありません。知らないことがあったので」
夫は私の手を見た。
少しだけ、口元が緩んだ。
「弱点を見つけた顔をなさいました」
「そこも、否定しません」
私たちは、招待状を二人の間へ置いた。
舞踏会は十日後だった。
*
練習の場所は、食堂を片づけた後の小広間になった。
ニナが昔使ったという音楽箱を出してくれた。蓋を開けてねじを回すと、少しだけ急いだ三拍子が流れた。
「急ぎませんか、この曲」
夫が尋ねた。
ニナは落ち着いて答えた。
「昔から、こちらの速さでございます」
夫は音楽箱を見た。
長年の実績には、言い返しにくいらしい。
私は彼の前へ立った。
右手を取られ、背中へ左手が来た。
いつもより近い。
彼の顔が、少し上にある。
私は、一度、自分が何をしようとしていたか忘れた。
「始めても?」
夫が聞く。
私はうなずいた。
一歩。
二歩。
三歩目で、夫が止まった。
「なぜ、そちらへ」
「あなたが、こちらへいらしたので」
私たちは足元を見た。
両方の靴が、同じ場所へ行こうとしていた。
「道を譲り合っているのでしょうか」
私が言うと、夫は首を振った。
「奪い合っているようです」
私は笑った。
その拍子に、体が彼へ寄った。
夫の手が、背中で強くなった。
笑いが止まった。
夫も、何か言うのをやめた。
音楽箱だけが、たいへん勤勉に進んだ。
「もう一度」
私は言った。
夫がうなずいた。
今度は、曲の最初から。
一歩。
二歩。
三歩。
回れた。
私は嬉しくなって、彼を見上げた。
その瞬間、また足が止まった。
「今度は、私です」
私は白状した。
「どこをご覧になっていましたか」
夫が聞いた。
私は彼の胸元を見た。
「進む方向を」
「そこへ進まれると、困ります」
私は顔を上げた。
夫の目が、笑っていた。
何もかも気づかれていた。
*
三日練習すると、私たちは一曲分、家具にぶつからず動けるようになった。
ドンは最初、二人の足の間へ入ろうとしたが、ニナが寝床へ呼ぶようになった。犬にとっては、夫婦仲がよいほど退屈な時間が増える仕組みだった。
四日目、夫が途中で笑った。
私は足を止めなかった。
「何ですか」
「伯父に、昔言われたことを思い出して」
私は、手に少し力を入れた。
「踊りながら、思い出す価値のある方でしょうか」
「ありませんね」
夫がすぐに答えたので、私は笑った。
彼はそのまま、一度私を回した。
ちゃんと回れた。
「ただ、あの方は、私が一度足を踏んで以来、踊るたびに相手へ注意をしてくれました。大切な靴でしょうから、お気をつけて、と」
私は夫を見た。
「親切な方ですね」
「ええ。何年も同じ親切を」
夫の声は軽かった。
それがかえって、少し腹立たしかった。
「今度お会いしたら、私も教えて差し上げます」
「何を?」
「伯父様のお話を聞く時は、椅子を確かめて。長く座ることになります、と」
夫が声を出して笑った。
今度は、彼が足を止めた。
「卑怯です」
「どなたが?」
「あなたです」
夫の手が、背中から離れなかった。
私は目を逸らさずにいた。
「私と踊るのは、お嫌ですか」
聞いてから、心臓が急に速くなった。
もっと軽く聞けると思っていた。
夫は笑うのをやめた。
「それを答えるには、練習を増やす必要があります」
私は口を開きかけた。
彼が、もう一度私を回した。
今度は、そのまま曲の最後まで踊れた。
*
舞踏会の日、子爵夫人は玄関まで迎えに出てくれた。
ふっくらした頬に、小さなえくぼがあった。
「お二人をお招きできて嬉しいわ。先日の会、とても楽しかったもの」
私は礼を言った。
夫人の言葉は、何かを頼む前置きではなかった。
そのことに気づくまで、少し時間がかかった。
会場は大きすぎず、花も控えめだった。
楽団が、まだ音を合わせている。
夫は私の横で、誰かへ挨拶をした。
その向こうに、ガストン伯父様がいた。
私は、夫の袖を二度引いた。
夫がすぐに目を落とした。
「帰りますか」
「いいえ。見てください、です」
夫は私の視線を追った。
そして、小さく息を吐いた。
「合図が増えましたね」
「使い方を、間違えました」
私たちは顔を見合わせた。
笑っていたので、伯父は私たちが自分に会えて嬉しいのだと思ったらしい。
大変な笑顔で近づいてきた。
「仲睦まじいことだ」
夫は礼をした。
私は、伯父の顔を見た。
肖像画より血色がよかった。画家はかなり遠慮していたのだろう。
「先日は、お子様方を招いたそうだね」
「ええ」
私が答えた。
「たいへん、楽しい会になりました」
短く言った。
伯父が何か続ける前に、子爵夫人が隣から加わった。
「本当に。お料理も温かくて、歌がよく聞こえて。うちの主人が、また聞きたいと申しております」
伯父の顔が、少しだけ変わった。
私は、夫の袖から手を離した。
今日は、帰りたい合図を使う必要がなさそうだった。
曲が始まった。
夫が、私へ手を差し出した。
「一曲、お願いできますか」
私はその手を見た。
練習の時と同じ手なのに、人前で出されると違って見えた。
「喜んで」
私が手を載せた時、伯父が笑った。
「足元には気をつけた方がいい。ロランは昔から、こういうことが」
夫の指が、わずかに硬くなった。
私は伯父を見た。
「よく存じております」
にっこり笑った。
「夫と踊るのは、初めてではございませんので」
伯父の口が止まった。
夫が、私を見た。
私は彼へ顔を向けた。
「参りましょう」
何日練習したかは、伯父へ教えなかった。
私たちの時間だった。
*
夫は、私の足を踏まなかった。
私は、彼の胸へ進まなかった。
一度だけ、二人とも同じ方へ避けようとしたが、笑って直せた。
「本物の楽団は、待ってくれないのですね」
夫が小さく言った。
「音楽箱も、待ちませんでした」
「止められました」
私は笑った。
笑っても、足を止めずにいられた。
会場を半分回ったところで、伯父が見えた。
こちらを見ていた。
私は、夫を見上げた。
「今、たいへん愉快です」
「私も」
夫が答えた。
私は、いたずらっぽく目を細めた。
「同じものを、ご覧になっていますか」
彼は首を振った。
「私は、あなたを」
足を間違えた。
私が、彼の靴を踏んだ。
夫が、一瞬だけ目を閉じた。
私は息を呑んだ。
「ごめんなさい」
「いえ」
彼は、もう笑っていた。
「お互いに、秘密ができましたね」
私は彼の手を握り直した。
伯父の顔を見る余裕は、なくなっていた。
曲が終わるまで、私は夫だけを見ていた。
終わってからも、少し。
*
帰りの馬車で、私は靴を見た。
夫も、自分の靴を見た。
「跡がつきましたか」
「光栄の跡が」
「その言い方は、おやめください」
夫が笑った。
私は肘で、彼の腕を軽く押した。
行きは向かい側に座っていたのに、帰りは隣だった。
どちらが言い出したわけでもない。
乗る時、私が少し横へずれ、彼がそこへ座った。
「また、踊ってくださいますか」
私が聞くと、夫は私の手を取った。
「ぜひ。練習も含めて」
私はうなずいた。
手を繋いだまま、窓の外を見た。
伯父の言葉を止めたことは、痛快だった。
でも今いちばん思い出すのは、その後の夫の顔だった。
私を見ている、と言った。
それで足を踏んでしまった。
次は、踏まずに聞けるだろうか。
私は、自信がなかった。




