第04話 贈り物には顔がある
伯父の顔が届いたのは、結婚二日目の昼だった。
実物ではない。
絵だった。
縦が私の肩ほどもある立派な油絵で、金色の額縁の中から、ガストン卿が未来を見つめていた。未来は画面の左上にあるらしい。
胸に勲章が三つ。右手には書物。左手は、何かを支えるように宙へ浮いている。
支えられているものは描かれていなかった。
「結婚の祝いに」
バジルが説明した。
絵を運んできた職人二人は、玄関で困っていた。受け取らないと言われても、持ち帰る馬車をもう返してしまったそうだ。
「どうして、伯父様なのでしょう」
私が夫に尋ねると、夫は絵を見たまま答えた。
「自分が一番よい物だと思っているからでしょう」
職人の一人が唇を噛んだ。
私は、その人のために笑わないであげた。
夫は少しも努力をしていない顔だった。
「こちらも、お預かりしております」
もう一人が、小さな紙を差し出した。
設置場所の指定だった。
大広間の暖炉の上。
客の目に触れる、最もよい位置である。
「よくお分かりで」
私は言った。
「絵ですから、一度座れば二度とお席を譲らなくて済みますもの」
夫がこちらを向いた。
「あなたなら、どこへ飾りますか」
「私が決めても?」
「あなたへの贈り物でもあります」
私は絵をもう一度見た。
ガストン卿の口元は、何かを語ろうとしていた。
実物に似ている。
他人に口を挟ませる気がないところまで、よく似ていた。
「北の小間はいかがです」
バジルが、わずかに眉を動かした。
夫は私を見た。
「まだ、ご案内していませんが」
「さっき通りかかった時に、見えました。椅子が一つだけありますね」
「あります」
「訪ねていらした伯父様に、ご自分と向かい合ってお座りいただけます」
夫は長く黙った。
それから、実に静かな声で言った。
「私が考えた場所より、ずっと上品です」
職人が今度こそ咳をした。
絵は北の小間へ運ばれた。
私は職人の後ろを歩いた。夫もついてきた。
何をしているのだろう。
結婚二日目の夫婦が、どこへ伯父を掛ければもっとも腹が立つか相談している。
不思議なことに、今朝の庭と同じくらい楽しかった。
絵を掛けると、北の小間は急に暑苦しくなった。
小さな椅子に座れば、視線の先に伯父の顔しかない。
バジルは配置を確かめて、淡々と告げた。
「大変、存在感がございます」
「本人も、喜ぶでしょう」
夫が答えた。
私は窓を開けた。
少し風を入れないと、この部屋には未来が多すぎた。
*
職人に茶を出すよう頼んで玄関へ戻る途中、小さな物音がした。
絵を包んでいた布の下から、細い板が落ちたのだ。
夫より先に私が拾った。
裏側に、絵の具で人の顔が描かれていた。
ガストン卿ではなかった。
年を取った女性だった。
頭巾をかぶり、笑っている。歯が一本欠けていた。
「それ、すみません」
職人の若い方が、すぐに手を伸ばした。
私は板を返した。
「絵描きの方なのですか」
「見習いです。運ぶ方も、やっております」
「綺麗な絵でした」
若者は困ったように笑った。
「顔の練習です。余った板があったので」
「どなたを?」
「母です」
私は改めて彼の顔を見た。
絵の中の女性に似ていた。
特に、笑う時の目元が。
「伯父の絵も、あなたが?」
夫が尋ねた。
「下塗りと、手のあたりを少しだけ。顔は師匠が」
「左手が宙に浮いていましたね」
私はつい言った。
若者の顔が赤くなった。
「もとは、寄付の箱をお描きする予定だったのです。でも、旦那様が、大きい物を前に置くと礼服が見えないとおっしゃって」
私と夫は目を合わせた。
箱だけが消えて、寄付をする立派な自分は残した。
いかにもガストン卿らしかった。
「手はそのままに?」
「時間がなかったものですから」
私はもう一度笑いそうになった。
しかし若者の顔を見て、やめた。
私たちが笑っていたものを、この人は徹夜で描いたのかもしれない。
「難しい注文ですね」
そう言うと、若者の肩が少し下がった。
「ええ。……いえ、どんなご注文でも、勉強になります」
後半は暗記した言葉のようだった。
私は聞き覚えがあった。
どんなお手伝いも、あなたのためになるのよ。
夫が、執事へ目を向けた。
「運賃は、支払い済みか」
「いえ。先方では、こちらで受け取るようにと」
夫の表情が変わった。
笑っていたところが、なくなった。
「贈り物の運賃を?」
職人の年上の方が、帽子を両手で持ち直した。
「申し訳ありません。私どもは言われたとおりに」
「あなたに言ったのではありません」
夫の声は、思ったより鋭かった。
若者が板を自分の背中へ隠す。
私は夫の袖を引いた。
「ロラン様」
彼が私を見る。
私は、若者が握りしめている板の角を目で示した。
夫の視線が一度そこへ落ちた。
「……失礼しました」
夫が二人へ言った。
「代金はここで払います。次に伯父の依頼を受けた時は、こちらに請求が回る仕事か、先に尋ねてください」
バジルが二人を案内していった。
私はその背中を見送った。
少し遅れて、夫が言った。
「怖がらせましたね」
「ええ」
彼は反論しなかった。
私は、もう少し言うか迷った。
今朝会ったばかりの花に喜び、昨夜出されたスープにほっとしていた私が、もうこの人へ何か言うつもりなのか。
「伯父様が悪いことは、お二人とも分かっていらしたと思います」
私は言った。
「分かっていることを、怖い声でもう一度聞くと、自分に怒られている気になります」
夫が私を見た。
まっすぐ見られて、少し怖かった。
それでも言ってしまったものは戻らない。
「気をつけます」
彼は答えた。
素直すぎて、私は次の言葉を失った。
「妻に叱られました、と伯父へ書きますか」
「おやめください。ご自分が叱らせたと思ってお喜びになります」
夫が息を吐いた。
笑いに近い息だった。
「確かに」
私は自分の袖口を直した。
味方であることと、何でも同じに思うことは、どうやら少し違うらしかった。
*
昼食の後、伯父からもう一つ届け物が来た。
今度は招待状だった。
冬の灯祭、貴族慈善舞踏会。
半年先の催しだったが、準備会は来週開かれる。
主催者はガストン卿と伯母アデライド。
私は二人の名前を見て、結婚式の庭で交わした冗談を思い出した。
入れ替えなくても、もう十分に組んでいたのだ。
「毎年なのですか」
夫に聞かれた。
「ええ。伯母は、王妃様の御名で行う催しの中でも、特別に格式があるのだと」
「伯父は、最も自由にやれると」
「同じ催しですね」
「間違いなく」
招待状には、私の新しい名前があった。
ヴィヴィアン・ド・ヴェルヌ侯爵夫人。
旧姓を使われるより、ずっと面倒な気がした。
来週の準備会に、必ず夫婦で出席のこと。
なお、花嫁の初仕事として、参加各家への連絡、衣装の色分け、子どもたちの合唱練習の手配を任せる。
「初仕事」
私は繰り返した。
「十年目ですが」
夫が招待状を受け取った。
眉間が狭くなる。
「断ります」
彼は言った。
今度は私より早かった。
私は彼の手に、自分の指を置いた。
「お待ちください」
彼が驚いた顔をした。
「行かれたいのですか」
「少し」
自分でも意外だった。
昨日までは、こんな招待状が来たらお腹の底が冷たくなったはずだ。
今も嬉しくはない。
けれど、隣に夫がいる。
「いつも私は、準備をする部屋にいて、お茶を飲む部屋にはあまり入らなかったのです」
私は招待状を指した。
「夫婦で出席とあります。今度は、客として椅子に座ってみたいです」
夫は私を見た。
「嫌なことを言われるでしょう」
「ええ」
「私のことも」
「きっと」
私は少し笑った。
「聞き比べませんか。どちらの親戚の方が、上手に失礼を言うか」
夫はすぐには笑わなかった。
私の顔を確かめているようだった。
やがて彼は招待状を卓へ置き、こちらへ手を差し出した。
「いいでしょう。ただし、途中で帰りたくなったら帰ります」
「あなたが?」
「どちらでも」
私はその手を取った。
手袋をしていなかった。
昨日、祭壇の前で触れた時より、ずっと温度が近かった。
「帰る合図を決めましょう」
私が言った。
「咳払いですか」
夫に尋ねられ、私は首を振った。
「それでは、昨夜からもうお帰りになりたいことに」
言ってしまった。
夫が動かなくなった。
私も動けなかった。
「……あの咳払いは」
夫が、慎重に言った。
「あなたの部屋を出てから、緊張していたことに気づいたのです」
私は彼の手を見た。
その手に触れている自分の指を見た。
「何に」
聞かなくてもよかったのに。
「新しい妻と、二人でいたことに」
私は目を上げられなくなった。
夫も黙った。
私たちは、他人の話なら何時間でもできそうなのに、自分たちの話になると急に下手だった。
「……では、咳払いはやめましょう」
私がようやく言った。
「そうしましょう」
夫が同意した。
帰る合図は、その日は決まらなかった。
夕方、北の小間の前を通ると、ガストン卿の絵の前に椅子が二つ置かれていた。
私が数を間違えたわけではない。
バジルが通りかかったので尋ねると、彼はいつもの落ち着いた声で答えた。
「旦那様が、奥様とご一緒にご鑑賞なさるかもしれないと」
私は金の額縁を見上げた。
伯父は相変わらず、画面の左上を見ている。
たぶん、自分が新婚夫婦の逢瀬に使われる未来までは、見えていない。




