第03話 壁の向こうの咳払い
その夜、壁を叩いたのは私ではなかった。
夫だった。
二度、控えめに。
私は寝台の端へ腰かけたまま、戸を見た。
夕食の後にニナが風呂を用意してくれて、髪を乾かし、寝衣に着替えたところだった。薄い青の寝衣は自分の物ではない。伯母が用意した婚礼の荷物には、もっと薄くて、私が着るには気まずいものが入っていた。
それを見たニナが、少し肩を温めましょうか、と言って、こちらを持ってきてくれた。
どういう意味かは、二人とも口にしなかった。
「起きていらっしゃいますか」
隣室から声がした。
普通の会話は聞こえないと言った人が、普通より少し大きな声を出している。
「はい」
「お邪魔をしても」
私は立ち上がった。
早く立ちすぎて、足元の絨毯に指先を引っかけた。
痛い。
声を飲み込んだつもりだったが、壁の向こうで気配が変わった。
「奥様?」
「大丈夫です。今、絨毯にご挨拶を」
何を言っているのだろう、私は。
戸を開けると、夫が立っていた。
礼服を脱いでいる。
それだけで、昼間とは別の人のように見えた。柔らかい襟の白いシャツに、濃い茶色の上着。髪の跳ねていたところは、もっと跳ねていた。
手には、小さな箱を持っていた。
「遅い時間に、すみません」
「いいえ」
私は脇へ退いた。
彼は敷居を越えたが、寝台の方へは行かなかった。暖炉のそばの椅子を見る。
「座っても?」
「ご自分の家ですのに」
「あなたの部屋ですから」
私はまた返事に困った。
この人は時々、こちらが持っていると思っていなかった物を指して、それはあなたの物でしょう、と言う。
椅子は二つあった。
私は夫と向かい合って座り、膝の上で手を重ねた。
夫が箱を差し出した。
「指輪の箱です。昼は預かっていました」
開けると、中は空だった。
指輪は私の指にはまっているのだから、当然だ。
私は空の箱を見て、なぜか笑いそうになった。
「これを、お届けに?」
「半分は」
残り半分があった。
私は箱を閉じた。
「あと半分は、明日のことです」
夫は一度、暖炉へ目をやった。
炎の光が横顔の鼻筋を照らした。礼拝堂では真っ白な光の中にいた人が、今は少し赤い。
「庭へ行くという約束を、断る口実にしてしまったかもしれません」
「口実には、なりましたね」
「見たくなければ、変えられます」
私は夫の顔を見た。
言い方が慎重だった。
夕食の席では、今作った予定だとあんなに簡単に言ったのに。
「ロラン様」
「はい」
「私を、庭にお誘いになったのではないのですか」
「そのつもりです」
「では、お断りされたくない顔をなさってもよろしいのでは」
夫が黙った。
私も黙った。
言いすぎた。
結婚した日の夜に、こんなことを言っていいわけがない。次に謝るなら、謝る前に一呼吸、と私は頭の中で唱えた。
「では、訂正します」
夫がこちらを向いた。
「明日の朝、私と庭へ来ていただけると嬉しい」
私は、閉じたばかりの箱を開けた。
また閉じた。
何も入っていない箱なのに、とても役に立った。
「……参ります」
「ありがとうございます」
返事をした後で、胸が遅れて騒ぎだした。
さっきは、ただ黄水仙を見たかった。
今は、黄水仙を見ている私をこの人が見るのだと思った。
同じ予定なのに、難しさが違う。
夫は立ち上がらなかった。
私も立ち上がれなかった。
暖炉の薪が小さく爆ぜる。
それ以外に話題が見つからない。
「壁は」
私が先に口を開いた。
「思ったより、聞こえますね」
「……今は、大きな声を出しました」
「そうでしたね」
もう壁の話はやめよう。
そう思うのに、頭の中に次の話が来ない。
「初めての部屋で、眠れないかもしれませんが」
夫が言った。
「夜中でも、呼んで構いません」
「侯爵様がお眠りでしたら?」
「起きます」
「大変では」
「昼寝をします」
私は顔を上げた。
彼はほんの少し笑っていた。
つられて、私も笑った。
「昼寝をなさるのですか」
「します。椅子で本を読んでいると、勝手に」
「想像がつきません」
「バジルなら、非常に詳しく説明できます」
夫が椅子から立ち上がった。
私は、ほっとしたような、何か言い足りないような、複雑な気持ちで見送った。
戸のところで、彼が振り返った。
「今日、疲れたでしょう」
優しい言い方をされると、かえって返事が遅くなる。
伯母の声を聞いている時の方が、私はずっと言葉が上手だった。
「少し」
「ゆっくりお休みください、ヴィヴィアン」
名前だけを呼ばれた。
返事をする前に、戸が静かに閉まった。
私は暖炉の前へ戻った。
椅子の座面は、夫が座っていたところだけ浅く沈んでいた。
初夜というのは、もっと恐ろしく、もっと決められたことが多いのだと思っていた。
そうではなく、私は空の指輪の箱を持って、明日の庭を楽しみにしていた。
しばらくして、隣の壁から小さな咳払いが聞こえた。
一回。
少し間を置いて、もう一回。
私は自分の口を手で押さえた。
聞こえています、と言ってはいけない気がした。
*
朝の庭には、泥があった。
花嫁を案内する庭にはもう少し乾いた場所を選ぶものではないかと思ったが、夫は門のところで非常に困った顔をしていた。
「昨日は、ここまででは」
夜明け前に雨が降ったのだ。
私は土を見た。
黄水仙は少し奥で咲いている。
間には、靴を食べそうな茶色の道があった。
「長靴があります」
夫が言った。
バジルが、待っていましたという顔で包みを差し出した。
私の靴より一回り大きな、短い革の長靴だった。
「奥様のお履物の大きさを、ニナから」
「ありがとうございます」
玄関脇の腰掛けで履き替えた。
少し大きいが、歩ける。
立ち上がると、白い犬のドンが私の靴先を嗅ぎに来た。
「これは食べ物ではありません」
私が言うと、犬は一度だけ尻尾を振った。
分かっているが念のため、という態度だった。
夫も長靴を履いた。
裾を少し折り上げたところに、昨日までは見えなかった生活が覗いた気がして、私は目を逸らした。
人の足首を見て照れたのは、初めてだった。
黄水仙の植わった一角には、石の腰掛けがあった。
木の枝から落ちた水滴が、時々花を揺らす。
派手な庭ではなかった。
客を驚かせるための花壇はなく、歩く人の目の高さに小さな変化があった。低い常緑の茂み。古い井戸。枝を誘引した梨の木。
「あれは、食べられるのですか」
私は梨の木を指した。
「秋には。まだ先ですが」
「煮る前に、教えてください」
「覚えておきます」
夫は石の腰掛けを手で触り、湿っていると分かると上着を脱ぎかけた。
「待ってください」
私は彼の袖をつかんだ。
思ったよりしっかりした腕だった。
「その上着は、座布団にするためのものではありません」
「ですが」
「座らなければよいのです」
夫が腰掛けを見た。
それから私を見て、上着を戻した。
「気がつきませんでした」
「普段もそのように、何でもご自分の服を敷いて解決していらっしゃるのですか」
「普段は、自分が濡れて座るので」
不器用な人だ。
私は笑った。
こんなふうに笑っていても、夫は機嫌を悪くしなかった。
犬が道の向こうへ駆けていった。
鼻を低くして、何かを探している。
若い庭師が手を振り、その後で慌てて手を下げた。
「おはよう、トマ」
夫が言った。
若い庭師は頭を下げた。
袖に泥がつき、首筋が赤い。私を見て、どう呼べばよいのか迷っている顔だった。
「奥様です」
夫が紹介した。
「見れば分かると思いますが」
私が小声で言うと、夫は同じくらい小さな声で答えた。
「私も、もっとよい紹介を考えるべきでした」
庭師が聞こえなかったふりをしてくれた。
黄水仙の中に、小さく折れた花が一本あった。
トマはその花を摘み、私に差し出そうとして、途中でやめた。
「失礼しました。これは茎が」
「いただけますか」
彼が顔を上げた。
私は短い花を受け取った。
「部屋の小さな花瓶なら、このくらいがちょうどよいと思います」
トマは、急に若く見える笑い方をした。
夫は何も言わなかった。
ただ、私の手の中の花を見ていた。
道の先で、ドンが吠えた。
続いて、誰かの叫び声がした。
私たちは顔を見合わせた。
走ってきたのは、まだ少年らしさの残る従僕だった。
片手に帽子を持ち、もう片方の手で白い犬の首輪をつかもうとしている。
ドンは楽しそうだった。
その口には、手袋があった。
「申し訳ございません、旦那様、奥様。お荷物をお持ちした際に」
「ピエール、追いかけない方が」
夫が言い終える前に、ドンがこちらを見た。
挑戦を受けたと思ったらしい。
大きな白い体が、泥を蹴った。
私は片手に黄水仙を持ったまま、しゃがんだ。
口の中で舌を丸め、小さく鳴いた。
きゅ、と。
犬が止まった。
夫も止まった。
庭師も従僕も止まった。
私はもう一度、子犬の声を出した。
ドンは完全に困惑した。
手袋をくわえたまま私へ近づき、膝のあたりを嗅いだ。
私は空いている手で犬の顎の下を撫でた。
「お返しなさい」
普通の声に戻して言った。
手袋が、ぽとりと落ちた。
ピエールが拾った。
見事に濡れていた。
私は立ち上がり、夫と目が合った。
「……母に教わったのです」
説明するつもりはなかったのに、言ってしまった。
「小さい頃に」
夫は笑っていなかった。
それがかえって恥ずかしかった。
「なるほど」
彼は真面目にうなずいた。
「伯父には聞かせられませんね」
「なぜですか」
「あなたの取り扱いに、私が犬以下だと知られるので」
先に笑ったのは、ピエールだった。
笑ってから青くなった。
夫は彼の手の中の手袋を見た。
「乾かしておいてくれればいい。今度から、ポケットに」
「はい。申し訳ございません」
少年が走っていった。
私たちは、花壇の脇でまた二人になった。
犬は私の足に寄りかかっていた。
「昨夜、咳をしていらっしゃいましたね」
言ってから、しまったと思った。
夫の目がわずかに動いた。
「聞こえましたか」
「少し」
「風邪ではありません」
「そうですか」
私は手の中の花を見た。
夫も花を見た。
二人とも、花を見る必要があるようだった。
「あの」
夫が言った。
「先ほどの声は、ほかにも種類があるのですか」
「……ありますけれど」
「どんな」
「鴨と、猫と、伯母が気に入らない物を見つけた時の音」
夫が顔を逸らした。
肩が一度揺れた。
私は、自分の胸がじわりと温かくなるのを感じた。
機知を誰かへ渡すためではない。
私が笑わせたかった人が、私の目の前で笑っていた。
屋敷の時計が九時を打った。
一度、二度、三度。
私は足を動かさなかった。
「お時間ですか」
夫が聞いた。
私は黄水仙を胸元へ寄せた。
「いいえ」
最後の鐘が鳴り終わるのを、二人で聞いた。
「今日は、ここにおります」




