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冷遇された令嬢の政略結婚、旦那様と悪口の趣味が合いすぎます  作者: 星舟能空


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第02話 悪党の家にあるもの

 侯爵家の馬車には、本当にクッションがあった。

 三つもあった。

 私は一つを背へ、一つを腰へ当て、最後の一つを膝の上に置いた。


「足りますか」

「これ以上あると、私が荷物のようになります」

「それはいけませんね。先ほど否定したばかりです」


 向かい側の夫は帽子を膝に置いていた。

 宴の広間では整っていた髪が、右の耳の上だけ少し跳ねている。風のせいか、帽子のせいか。私が見ていると気づくと、彼は窓の外へ目を移した。

 横顔には、まだ笑った名残があった。


 私の膝の上には、花束も乗っていた。

 白い薔薇と銀色の葉。

 伯母が決めた花束だ。ジュリエットの婚礼で使ったものによく似ていた。あの時は私が花屋へ三度足を運び、今日はエマが足を運んだ。

 誰かの代わりに行かなくてよいというだけで、今日の私は随分と楽だった。


「屋敷について、先にお伝えしたいことがあります」


 夫が姿勢を正した。

 私もクッションの中で背を伸ばした。

 来た。

 婚礼が済むまでは親切にしていたけれど、家には愛人がいるとか、妻には決まった用途があるとか。伯母が好んで集める噂話には、馬車で告げられる秘密がとても多かった。


「西の階段の四段目が鳴ります」


 私は彼を見た。


「明日、職人が直す予定です。それまでは、夜に通ると驚かれるかもしれません」

「……はい」

「それから私の部屋の向かいが書斎です。夜に灯りがついていても、緊急の仕事とは限りません」

「限らない?」

「眠くならないので本を読んでいることもあります」


 普通だった。

 普通すぎて、かえって次が怖かった。


「最後に」

「はい」

「犬がいます」


 私は花束を持ち直した。


「犬」

「白い、少し大きな」

「噛むのですか」

「いいえ。ただ、人が座る場所を自分で決めます」


 私はしばらく夫を見つめ、それからとうとう聞いた。


「重大なお話は、それだけですか」


 夫の眉がわずかに寄った。


「犬がお嫌いでしたか」

「そうではなくて」


 言いかけて、私は困った。

 愛人がいますか、と尋ねるべきだろうか。

 初対面で雨の有無を確かめた男へ、結婚初日に。


「奥様」


 急に呼ばれて、私は背筋を伸ばした。


「はい」

「言いかけたことを取り消す時、毎回その顔をなさいますか」

「どの顔でしょう」

「食べる前に、梨の調理時間を推測するような顔です」


 私は窓を見た。

 ガラスに映る自分は、確かに何かに耐えている顔をしていた。


「……その、家に、私のほかに親しい女性がいらっしゃるのかと」


 夫はすぐには返事をしなかった。

 その沈黙で、私はクッションを握った。


「女中頭のニナとは、私が九歳の頃からの付き合いです」

「そういう意味では」

「承知しています。いません」


 私はゆっくり指を離した。


「ただ、あなたが気にされているのが伯父の話なら、説明はできます」

「聞いてもよろしいのですか」

「私の話でしょう」


 当たり前のように言う。

 伯母は、自分について尋ねられると、あなたには関係ありません、とよく言った。

 家族に関係がないことと、家族だからすべきことは、伯母が決めた。


「三年ほど前、伯父が知り合いの女性を、私の屋敷に住まわせようとしたことがありました」

「まあ」

「私はその方と一度も会ったことがありませんでした。女性も、私に招かれたと思って来ていた。ですから、当座の宿を用意しました」

「それで、女性を追い返した冷酷な侯爵という評判に?」

「女性には礼を言われました」

「どなたがお怒りに」

「伯父です。部屋を空けてほしかったそうで」


 馬車が石畳の継ぎ目を踏んだ。

 私は一度揺れて、それから遅れて意味を理解した。


「……伯父様のお宅の、お部屋を」

「ええ」

「次の方のために?」


 夫が、ほんの少しだけ顎を引いた。


「そこまでは聞きませんでした」

「お優しいのですね」

「臆病なのです。続きを聞くと、断る仕事が増えそうでしたから」


 笑ってしまった。

 今度は、誰にも隠さず笑った。


 夫は私を見ていた。

 長く見られると、頬のあたりが落ち着かなくなる。

 私は花束の葉を直した。


「私の方も、何かお聞きになりたいことはありますか」

「あります」


 夫はすぐに答えた。


「今夜は、何を召し上がりたいですか」


 窓の外では王都の夕暮れが流れていた。

 屋台の男が鉄板を片づけ、赤い服の子どもが母親へ駆けていく。

 私はもう実家の食卓へは戻らない。

 今さら、そのことが胸に落ちた。


「さっき、あんなにいただいたばかりです」

「あなたはほとんど召し上がっていません」

「見ていたのですか」

「隣でしたから」


 隣にいた人は、これまでにもいた。

 私は少し考えた。


「温かいスープが」

「具は」

「じゃがいも。できれば、潰していないものが」


 伯母はなめらかなスープを好んだ。何も噛まなくてよい食べ物は、話す人に都合がよい。


「パンも、一ついただければ」

「承知しました」


 何でもない注文だった。

 それなのに、言い終えた後でほっとした。


 *


 侯爵邸の玄関には、人と犬が並んで待っていた。

 犬は人より先に迎えてくれた。

 大きい。

 少し大きな、という夫の説明を訂正するには、犬があと二頭ほど必要だと思った。

 白い犬は私の花束へ鼻を寄せ、すぐに興味をなくした。次に夫の手を嗅ぎ、もっとすぐに興味をなくし、最後に私の裙へ鼻をつけた。


「ドン、そこまで」


 夫が言った。

 犬は座った。

 私の靴の上に。


「人の座る場所を決めるというのは」

「今日から少し悪化したようです」


 灰色の口髭を生やした執事が、深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ、旦那様。奥様、ようこそおいでくださいました」


 バジルという名だった。

 隣にいた女中頭ニナは、私の腰へ目を留めた。

 銀貨のせいで衣装が少し浮いている。

 私は先回りして言った。


「ここの縫い目を、後で自分でほどきます。針仕事の道具をお借りできますか」

「すぐにご用意いたします」


 どうしてですか、と聞かれなかった。

 この家は、人が聞かれたくないことを察するのが得意なのかもしれない。

 あるいは、私がまだ見知らぬ花嫁だから遠慮されているだけか。

 どちらか分からないうちは、喜びすぎないことにした。


 部屋は二階だった。

 西の階段では、夫が先に四段目を踏んだ。

 ぎ、と鳴った。


「これです」

「確かに」


 二人で階段の音を聞いているところを、ニナが少し不思議そうに見ていた。


 用意された部屋は、伯母の屋敷の私の部屋の三倍ほどあった。

 窓が二つ。暖炉。机。肘掛椅子。寝台。

 家具は新しくなかったけれど、よく磨かれている。机の上には小さな花瓶が一つだけあった。花は黄色かった。


「白で揃えた方がよろしいかと存じましたが」


 ニナが言った。


「庭に、よい黄水仙がございましたので」

「黄色が好きです」


 口から、すぐに出た。

 ニナは微笑んだ。


「では、よろしゅうございました」


 これで終わった。

 ジュリエットには黄色が似合わないから別の色にしましょう、とは誰も言わない。


 夫は敷居のところで足を止めていた。


「隣が私の部屋です。呼鈴もありますが、急ぐ時は壁を叩いてください」

「聞こえるのですか」

「大抵は」

「壁が薄いのですか」


 夫が黙った。

 私も黙った。

 ニナが花瓶を直すふりをした。


「声を張らなければ、普通の会話は聞こえません」


 夫は、慎重に言った。

 私はお礼を言うべきか迷った。


「……安心しました」

「ええ」


 夫は一礼して部屋を出ていった。

 礼拝堂の時より、少し速かった。


 ニナが、戸が閉まってから私を見た。


「お召し替えをいたしましょうか」

「お願いします」


 花嫁衣装を脱ぐと、肩がひどく軽くなった。

 銀貨を縫い込んだところは、自分でほどいた。ニナは鏡台の上に小皿を置いてくれた。

 四枚の銀貨は、皿に入ると、逃げ賃というより洗濯で見つかった小銭のように見えた。

 それでも私は鞄にしまった。

 今日、親切にされたことと、明日も帰り道があることは、別々に持っていていいと思った。


 *


 夕食は小さな部屋で取った。

 長い食卓ではなく、二人と大皿でちょうど埋まる丸い卓だった。

 じゃがいものスープから湯気が上がっていた。

 パンは二つずつ。

 夫の皿には肉の薄切りが添えられていたが、私の前にも同じ皿が置かれた。


「必要な分だけ、お取りください」


 ニナが言った。

 私は肉を一切れ取った。

 その一切れを取ったことを、誰も話題にしなかった。


「いかがです」


 夫に聞かれ、私はスープを飲み込んだ。


「じゃがいもです」

「そう注文しましたから」

「まだ、じゃがいもです」


 夫は匙を止めた。

 梨のことを思い出したのだろう。

 私たちは少し笑った。


 食事の途中で、執事が盆を持って入ってきた。

 一通の手紙が乗っていた。

 伯母の封蝋だった。


「本日中に奥様へお渡しするようにと、お届けが」


 私は匙を置いた。

 指の先が、勝手に冷えた。


 中には明後日の茶会で使う客の一覧が入っていた。

 人の名前と、話してはいけない話題。

 伯母自身の字で、末尾に一行あった。


 あなたがいないと不便です。明日の午前、九時までに来なさい。


 私は、一度だけ読み直した。

 嫁いだ。

 別の家の人間になった。

 そう思っていたのは、私だけだったのかもしれない。


「困り事ですか」


 夫の声がした。

 私は紙を折ろうとしたが、途中でやめた。


「明日、伯母の家へ行かなくてはならないようです」

「なぜ」

「茶会の準備を」


 夫は私の手元を見た。

 見せてほしいとは言わなかった。

 私は自分から紙を卓の中央へ置いた。


 読み終えた彼は、何も言わずにパンをちぎった。

 怒らないのかと思った。

 私の伯母の話だから、彼には関係がないのかもしれない。

 そう思って少しがっかりした自分に、もっとがっかりした。

 まだ、一日しか経っていない。


「明日の午前は、予定があります」


 夫が言った。


「初めて聞きました」

「今、作りました」


 私は顔を上げた。


「何をするのですか」

「あなたが嫌でなければ、庭を案内したい。まだ見ていただいていません」

「それは、明日でなくても」

「茶会の準備は、あなたでなくても」


 言葉が止まった。

 夫は続けなかった。

 私が返事をするのを待っていた。


 私は手紙を見た。

 あなたがいないと不便です。

 便利だったのだ、私は。

 それを必要とされているのと取り違えるほど若くはないのに、体だけはまだ九時に出かける支度を始めようとしている。


「庭に、黄水仙はたくさんありますか」

「あります」

「では、見たいです」


 夫はうなずいた。

 それからバジルに、紙と筆記具を頼んだ。

 執事が新しい紙を持ってくるまで、私はスープをもう一口飲んだ。

 まだ温かかった。


 返事は、私が書いた。


 明日は予定がございますので、伺えません。


 それだけではあまりに短く見えて、何かを足そうとした。

 体調が。侯爵様が。新しい家の仕事が。

 どの理由なら、怒られずに済むだろう。


「そのままで十分です」


 夫が言った。

 私は、婚約の席でもらった新しい姓を末尾に書いた。

 ヴィヴィアン・ド・ヴェルヌ。

 まだ自分の字に馴染まない。

 乾くまで待っていると、夫が小皿を寄せた。

 小さな杏の焼菓子が二つあった。


「今日は甘い物も、ほとんど召し上がっていませんでした」

「梨を」

「あれを数に入れるのはお気の毒です」


 私は焼菓子を一つ取った。

 柔らかくて、酸っぱくて、ちゃんと甘かった。


 家の外へ出てきたのは昼だった。

 本当に出てこられた気がしたのは、その小さな菓子を食べ終えた時だった。


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