第29話 好きな方が負ける夜
雪は、帰り道に降り始めた。
最初は、灯りの灰かと思った。
ロラン様の肩に白いものが止まり、溶けずに残ったので、私は顔を上げた。
「雪」
彼も空を見た。
細かな雪が、星の灯りを通り過ぎていた。
ドンが鼻を上げ、くしゃみをした。
「綺麗ですね」
私が言うと、ロラン様は私の外套の襟を寄せた。
「冷えます。馬車まで急ぎましょう」
「もう少し、見ていては?」
彼は私の顔を見た。
たぶん、断りたい顔だった。
でも私は、その顔に少し甘えた。
「少しだけ」
「……手が冷たくなったら、すぐに」
「はい」
私は彼の腕へ両手を回した。
彼はため息をつき、でも歩くのをやめた。
広場の灯りの下で、私たちは雪を見た。
踊りの後で温まった体が、少しずつ冷えていく。彼の腕の温かさだけが、はっきりしていた。
「お願いを聞いてくださいますね」
「聞かないと、もう一度おっしゃるでしょう」
「よく御存じで」
「妻ですので」
私は笑い、彼の肩へ頬を寄せた。
髪に雪が付いた。
彼の指が、そっと払った。
少しのつもりが、指先は冷たくなった。
私は黙っていた。
ロラン様は気付いた。
「行きましょう」
「まだ」
「約束です」
私は彼を見た。
声は穏やかだったが、今度は動かなかった。
私は小さく息を吐いた。
「分かりました」
「御不満そうですね」
「好きなものを、途中でやめるのは苦手です」
「私もです。ですから、貴女を冷やしたくありません」
私は返せなかった。
彼は私の手を自分の外套の内側へ入れ、そのまま歩き始めた。
*
馬車の待つ場所へ戻ると、車輪の近くで御者が屈んでいた。
雪のせいではない。道の石に当たり、留め金が緩んだらしい。
すぐには動かせないので、別の馬車を呼ぶと言う。
「どれくらい?」
ロラン様が尋ねた。
「半刻ほどは」
私は口を開きかけた。
広場へ戻れる、と。
彼が先に私を見た。
「暖かいところへ」
「まだ何も」
「分かります」
私は少し笑った。
見抜かれるのは、腹立たしくて、心地よかった。
近くの食堂は混んでいた。
犬を連れているので入口でためらうと、女主人が奥の壁際を示した。
「静かにしていられるなら」
私はドンを見た。
彼は、静かに食べ物を見ていた。
「たぶん」
「正直だね」
女主人は笑い、床へ布を敷いてくれた。
私たちはそこへ犬を伏せさせ、小さな卓に座った。
温かい香草茶と、豆の煮込みを頼む。
晩餐を逃した夜に、二度目の食事になった。
「食べすぎでは?」
私が尋ねると、ロラン様は匙を渡した。
「寒いので」
「便利なお言葉」
「今夜だけは」
私は匙を受け取った。
豆は熱く、柔らかかった。
彼は私が急いで食べないか見ていたので、わざとゆっくり冷ました。
「ご満足?」
「ええ」
私は舌を出しそうになって、やめた。
人前だった。
しばらくすると、劇を見ていた若い婦人が声をかけてきた。
帽子を直した娘の母親だった。リゼットたちと一緒に、別の卓へ座ったらしい。
「先ほどは、幕を」
彼女はロラン様へ微笑んだ。
「うちの息子も出ておりましたので。助かりました」
「届いただけです」
「素敵な方ね。奥様、お幸せでしょう」
「ええ」
私は答えた。
その人は悪くなかった。普通のお礼で、普通の笑顔だった。
でも、ロラン様の方だけを向いて話しているのが、少し気になった。
「御親切で、頼もしくて」
「親切ばかりではありませんよ」
口から出た。
ロラン様が私を見た。
婦人も驚いた。
私は、続きを探した。
「私のお菓子を、半分取ります」
一瞬の沈黙の後、婦人が笑った。
「それでは、仕方がありませんね」
彼女はもう一度お礼を言い、戻っていった。
ロラン様が私を見ていた。
私は豆を食べた。
「半分、でしたか」
「時には」
「私が差し上げる方が多いような」
「細かい方ですね」
彼は黙った。
それから、少し嬉しそうに笑った。
私はその顔が一番嫌だった。
今、自分がどんな顔をしているか、分かってしまうから。
*
「妬いてくださいました?」
馬車が来て、乗り込んでから彼は尋ねた。
ドンは足元で丸くなり、もう眠そうだった。
「いいえ」
「では、あの方の知らない私を、お教えになりたかった?」
私は彼を睨んだ。
彼は穏やかだった。
「貴方は、本当に性格がよくありません」
「伯父から、お聞きでしょう」
「確認が終わりました」
「結果はいかがでしたか」
私は彼の腕を引いた。
隣へ、もっと近くへ。
「御自分でお考えください」
彼は私を抱き寄せた。
私はその胸へ顔を伏せた。
「あの方が嫌なわけではありません」
「ええ」
「貴方が誰にでも、あんなふうに見えるのが」
言いながら、ますます恥ずかしくなった。
彼が私の髪へ口づけた。
「私は、貴女ほど誰かに見られたいと思ったことがありません」
私は顔を上げた。
「よいところも、悪いところも。見つけて、何か言ってほしい」
「嫌なことを言うかもしれませんよ」
「知っています」
私は彼の胸を軽く押した。
彼が笑い、その手を取って口づけた。
「それでも、貴女がいい」
私は目を閉じた。
負けた。
完全に負けた。
「私もです」
小さく答えた。
彼はそれ以上、からかわなかった。
家に着いた時、雪は少し積もっていた。
玄関の青い灯りが、まだ点いている。
私は馬車を降り、彼と一緒にその灯りを見上げた。
「帰る場所が、分かりますね」
「羅針盤がなくても」
私は笑った。
彼の手は温かかった。
ドンが先に扉へ向かい、私たちを急かした。
今夜一番真面目に帰りたがっていたのは、犬だった。




