第28話 壺の中の大人物
幕が上がると、商人は椅子に座っていた。
先ほど顔を白くしていた少年が、大きな帽子を被り直し、膝に帳面を載せている。
「私は、たいへん忙しい」
最初の台詞だった。
小さな鳥役のポールが、舞台の端から尋ねた。
「何をしているの?」
「忙しいと言っている」
客席で笑いが起きた。
少年の肩から、少し力が抜けた。
「忙しいと、人が代わりに働く。だから、私は忙しい」
私はロラン様を見た。
彼もこちらを見た。
私たちは、何も言わなかった。
言わなくても、十分だった。
次に、旅の壺売りが出てきた。
大きな壺は籠に布を巻いたものらしい。持ち上げる時に軽そうに揺れたけれど、商人は重そうな顔をした。
「これは、声をしまう壺です」
「声を?」
「売りたい言葉を、入れてください」
商人は壺へ向かって叫んだ。
「皆のためだ!」
舞台の後ろから、同じ声が返ってきた。
「皆のためだ!」
私は唇を噛んだ。
ロラン様の肩が揺れている。
「もう一つ」
壺売りが言った。
「私が教えた!」
「私が教えた!」
今度は客席の年配の男が、大きく笑った。
誰にでも、思い当たる人がいるらしい。
商人は気に入り、声を次々に売った。
先に払ってくれ。
後で払う。
私を信じろ。
それは私の責任ではない。
壺の中が、忙しくなっていく。
やがて商人は、喋ろうとして声が出なくなった。
少年は口を大きく開け、手を振った。
鳥のポールが首を傾げる。
「静かだね」
商人は怒って足を踏んだ。
「静かな方が、いいこともあるね」
ポールは真剣な顔で言った。
私はついに笑ってしまった。
ロラン様が私の背へ手を当てた。
「息をしてください」
「貴方も、笑っています」
「ええ」
舞台の商人は、壺を買い戻そうとした。
けれど財布を開くと、入っているのは紙ばかりだった。
支払うと約束した紙。
誰かに払わせると書いた紙。
自分を褒めた紙。
壺売りが一枚持ち上げた。
「これは、お金ではありません」
商人は胸を張った。
壺の中から声がした。
「私を信じろ!」
笑い声が、冷たい空気へ広がった。
*
劇の途中で、風が強くなった。
幕の端が膨らみ、鳥の帽子が少しずれた。
ポールが手で押さえる。
商人役の少年が、台詞を一行飛ばした。
壺売りが止まった。
私も息を止めた。
少年は客席を見た。
たぶん、頭の中が真っ白になったのだろう。
ポールが、鳥の声を出した。
短く、鋭く。
ドンが顔を上げた。
私は首輪を握った。
ポールがもう一度鳴いた。
ドンが吠えた。
舞台も客席も、一瞬止まった。
それからポールが言った。
「壺、犬の声も売ってる!」
客席が沸いた。
商人の少年が笑ってしまい、それで次の台詞を思い出した。
「犬でもいい、何かくれ!」
壺売りが胸を張った。
「では、吠えて働いてください!」
即興だったのか、元からの台詞なのか、もう分からなかった。
私は笑いながらドンを撫でた。
「お客様なのに、出演なさって」
ロラン様は顔を伏せていた。
「私より上手いですね」
「貴方も鳴きます?」
「今夜は、遠慮します」
最後に商人は、荷物を運んで小銭をもらった。
そのお金で壺を買い戻す。
壺の中から、売った言葉が一斉に聞こえた。
皆のため。
私が教えた。
私を信じろ。
商人は耳を塞いだ。
鳥が、そっと尋ねた。
「自分で聞くと、うるさいね」
そこで、幕が閉じた。
一拍の静けさの後、拍手が起きた。
私は手が痛くなるほど叩いた。
子供たちが幕の前へ出てくる。商人の少年は、まだ少し顔が赤かったが、もう青くはなかった。
ポールがドンを見つけて手を振った。
犬が尻尾を振った。
ロラン様も、しっかり拍手していた。
*
終演後、私たちは少しだけ舞台の横へ行った。
「面白かったです」
私が言うと、商人の少年は帽子を抱えて頭を下げた。
「途中、忘れました」
「分かりませんでした」
「本当に?」
「犬が全部持っていきましたから」
彼が笑った。
ポールはドンの前へしゃがみ、真面目にお礼を言った。
「ありがとう」
ドンは彼の手を嗅いだ。
「パンは、今日はない」
犬は少し残念そうだった。
ジル氏が、その様子を見て笑っていた。
ロラン様が彼へ言った。
「よい舞台でした」
「幕を上げていただけましたので」
「私の功績にしないでください」
ジル氏が一瞬止まった。
それから、ゆっくり笑った。
「では、皆で」
「ええ」
私は二人を見ていた。
五年前の紙は、消えない。
でも、今夜の幕も、確かにここにある。
マルセル氏は子供たちを集め、温かい飲み物を配った。
去年のように寒い場所で長く待たせないため、終わったらすぐ室内へ移す手筈だった。保護者たちが上着を持ち、名前を呼んでいる。
私たちは邪魔にならないよう、通りへ戻った。
リゼットが追いついてきた。
「弟、うまくいったわ」
私は彼女の後ろを見た。
弟は若い娘と並んでいた。帽子は、少し斜めになっている。
「直してもらったの?」
「ええ。貴女の旦那様のせいよ」
ロラン様が満足そうにした。
「役に立ちましたか」
「一生、言うつもりでしょう」
リゼットが言った。
私は彼の腕を取った。
「言わせません」
「厳しい妻ですね」
「覚えておきますので」
皆で笑った。
通りの灯りは、まだ燃えていた。
私は歩きながら、壺の最後の台詞を思い出した。
「自分で聞くと、うるさい」
ロラン様が頷いた。
「伯父に贈りたいですね」
「壺を?」
「鏡でもよいかもしれません」
「鏡では、声が出ません」
「では、貴女が真似を」
私は彼を見た。
「私を、伯父様の壺になさるおつもり?」
彼は真面目な顔で首を振った。
「いえ。私の狐でいてください」
私は歩幅を少し乱した。
今夜、三度目に彼の肩へもたれた。
彼はもう、何も言わなかった。




