第27話 犬にも席があります
一度家へ戻ると、ドンは玄関で待っていた。
首には、ポールから届いた青い布が結んである。
招待客であることを、自分でも分かっているような顔だった。
「お待たせしました」
私が言うと、尻尾が壁を叩いた。
ニナが厚い膝掛けを持ってきた。
「足元へ。お二人分です」
「ありがとうございます」
私は受け取った。
彼女は私のドレスを確かめ、裾を留める細い紐を持ってきた。外套の内側で少し持ち上げれば、道の泥に触れない。
「ここまでしていただくと、どこへでも行けそうです」
「どこへでもは、お控えください」
ニナは笑わずに言った。
ロラン様が横で笑った。
「妻は、行きますからね」
「旦那様も御一緒でしょう」
彼も黙った。
私は今夜、ニナが一番強いと思った。
通りへ近づくと、馬車は歩くほどの速さになった。
灯りを見に来た人で賑わっている。焼いた木の実の匂いと、温かい酒の匂いが窓から入ってきた。
ドンが鼻を上げた。
「食事ではありません」
ロラン様が言った。
犬は聞かなかった。
私も、少し聞かないことにした。
「先に何か食べましょう」
「賛成です」
馬車を通りの端で降り、近くの屋台で温かい包み焼きを買った。
中身は玉葱と肉だった。
私は外側の布を少しずつ下げて齧った。熱い汁が出そうになり、慌てて口を離す。
「また、急いでいます」
ロラン様が言った。
「舞踏会の晩餐を逃しましたから」
「こちらの方が、食べたい顔をしています」
私は否定しなかった。
彼の方を見ている間に、ドンの鼻が近づいた。
ロラン様がすぐに引き戻した。
「それは妻のものです」
犬は不満そうに座った。
私は食べ終えた端の、味の付いていない生地をほんの少し取った。
「こちらを」
「甘やかしています」
「私がしたいので」
彼が私を見た。
自分の言葉を使われたと分かり、笑った。
*
劇の場所には、長椅子が六つ並んでいた。
後ろに立つ人もいて、思ったより賑やかだった。小さな舞台は荷車を二台合わせて作り、赤い幕を吊ってある。
ジル氏が、舞台の横で子供の帽子を直していた。
私たちを見ると、片手を上げた。
「間に合いましたね」
「ええ。客はどちらへ?」
「空いているところへ。今なら前が少し」
私たちは前から二列目に座った。
ドンはロラン様の足元へ伏せた。私の足に座ろうとしたが、夫の膝掛けに負けたらしい。
「本日は、そちらですね」
「私の席が狭くなっています」
彼は犬を見下ろした。
私は膝掛けの半分を彼へ渡した。
「ご一緒に」
肩が触れた。
舞踏会の椅子より小さく、冷たい風も来る。
それでも、私はここがよかった。
リゼットが弟と現れた。
弟は姉より背が高く、落ち着かない顔で辺りを見ている。
「彼の好きな方も来るの」
リゼットが小声で教えた。
私は弟を見た。
彼は真っ赤になった。
「姉さん」
「言わなくても分かるわよ。帽子を四度直しているもの」
私は笑った。
ロラン様が、真面目な顔で言った。
「五度目は、相手に直してもらうといい」
弟が目を丸くした。
私は彼の腕をつついた。
「急に難しい助言をしないでください」
「経験から」
私は顔を逸らした。
リゼットが笑った。
「そちらのお二人は、もう十分よ」
開演まで少し時間があったので、私は舞台の横を覗いた。
子供たちは緊張していた。大きな商人の帽子を被った少年が、何度も同じ台詞を呟いている。
ポールは、小さな鳥の役だった。
「犬、来た?」
「ええ。あそこ」
彼は身を乗り出して、ドンを見つけた。
それだけで少し元気になった。
「ぼく、あとで鳴く」
「楽しみにしています」
「おくさまより、上手か分からない」
私は彼を見た。
「私の声を、誰から?」
「先生。犬が返事したって」
話は、こんなところまで届いていた。
私は膝を曲げ、彼の目の高さになった。
「私は鴨でしたから。違う鳥なら、比べられません」
「ぼく、森の鳥」
「では、貴方が専門家です」
ポールは頷いた。
その横で、商人役の少年が急に口を押さえた。
「気持ち悪い」
ジル氏がすぐに屈んだ。
熱はないようだったが、顔が白かった。緊張で朝からほとんど食べていないという。
私はマルセル氏を呼び、後ろへ下がった。
勝手に何とかすると言わなかった。
それでも、じっと見ているのは難しかった。
席へ戻ると、ロラン様が立ち上がりかけた。
「何か?」
「商人の子が、気分を悪くして」
彼は舞台の方を見た。
私は座った。
「先生が見ていらっしゃいます」
「そうですか」
彼も座った。
私たちは待った。
やがて、マルセル氏が舞台へ出た。
「少しお待ちください。商人が、欲張りすぎて腹を壊しております」
客席で笑いが起きた。
私はほっと息を吐いた。
誰かが、上手く場をつないでいる。
私が立たなくても、世界は止まらなかった。
*
しばらくして、ジル氏が私たちのところへ来た。
「旦那様、少しお願いが」
ロラン様が顔を上げた。
「何でしょう」
「幕の上の紐が、金具へ掛かってしまいまして。私ではあと少し届かず」
彼はすぐ立った。
「それなら」
私は犬を預かった。
ロラン様は舞台の横へ行き、腕を伸ばした。
黒い上着の男が、赤い幕の後ろで紐と格闘する。
私はその姿を見て、どうしようもなく好きだと思った。
大きな挨拶をしない。
できることを頼まれたら、袖を少し汚す。
しかも、こちらを見ている私に気付くと、格好をつけようとして紐をもう一度引っかける。
私は笑ってしまった。
「見ないでください」
遠くから声が来た。
「見ています」
答えると、周りの人も笑った。
彼は苦笑し、今度こそ紐を外した。
小さな拍手が起こった。
戻ってきた彼の袖に、赤い繊維が付いていた。
私は摘まんで取った。
「お上手でした」
「また、比較がありますか」
「いいえ」
私は彼の肩へ少し寄った。
「私の旦那様だと思うと、嬉しかっただけです」
彼はしばらく黙った。
その間に、舞台の鈴が鳴った。




