第14話 狐の声が聞きたい
仮面の音楽会の当日、ドンは銀色の紐を飲み込もうとした。
「それは食べ物ではありません」
ニナが言い、ピエールが右へ回り、私が左から呼びかける。
犬は完璧に人の配置を読んで、真ん中を走り抜けた。
その先にいたロラン様が、紐の端を掴んだ。
「離しなさい」
ドンは離さない。
「今夜はお客様が来ます」
ますます離さない。
「貴方の寝床は、台所にも用意してもらっていますよ」
私が言うと、耳だけが動いた。
ロラン様がこちらを見た。
「台所?」
「ジルさんが仮面を届けてくださった日に、話しておいたのです。お料理の匂いがする方が静かにしていると思って」
台所という言葉をもう一度聞いて、ドンは紐を離した。
ロラン様の手に、濡れた銀の端が残った。
「誰よりも招かれる場所を選んでいますね」
「見習いたいものです」
私が言うと、ニナがうっかり笑った。
広間の卓には六つの仮面が並んだ。孔雀、笑った月、眠そうな獅子、それから鼻先の曲がった鳥が三種類。ジル氏は「種類を決めると、実物に叱られそうなので」と言っていた。
細かな支払いの話は、数日前に済んでいた。
彼が請求書を持ってきた日、ロラン様は長く客間にいた。私が見たのは、帰り際にジル氏が大きな鞄を肩へ掛け直し、次に頼む時は早めに言ってください、と言ったところだけだ。
今日は、仮面に小さく縫い付けられた彼の名を見て、私は嬉しくなった。
「お客様が欲しがったら、お教えしていいそうです」
「もちろん」
ロラン様が月の仮面を持ち上げた。
「これは、誰かに似ています」
「言わない方が」
「貴女も思ったのですか」
「言えば着ける方がいなくなりますもの」
ふくよかに笑う月は、伯父様が自分を善人に見せようとする時の顔に少し似ていた。
私たちは、そっと真ん中へ置いた。
夕刻、最初に来たのはリゼットだった。青い仮面を自分で縫い直してある。
「どう?」
「素敵」
「母の古いもの。鼻が合わなくて、少し削ったの」
「私の鼻を貸しましょうか」
「貴女はどこも貸さずに済む家へ来たのよ。大事に使って」
笑い合っていると、ロラン様が彼女の上着を受け取る人を呼んだ。
「今夜はお父上も?」
「弟と賭け事をしています。薬を飲んだら一勝くれるそうで」
「有利な条件ですね」
「飲む前にもう一勝要求したらしくて。元気になってきた証拠です」
ロラン様が笑って奥へ行った後、リゼットは私の耳へ囁いた。
「ちゃんと覚えてくださる方なのね」
私はそれだけで、ずいぶん誇らしくなった。
十八脚の椅子は、やがて全て埋まった。
子爵は今回、人の姿で来た。夫人が尾羽を畳むのに二人必要だったと告げ、しばらく鶏は禁止になったのである。
「でも鳴けるのですよね」
私が尋ねると、彼は自信を持って頷いた。
「目覚まし代わりになるよ」
「我が家では、今後一切ならなくて結構です」
夫人が即答した。
オクターヴ氏は、約束どおり本を持たずに来た。獅子の仮面を選んで、「眠くなっても分からない」と言った。ロラン様が「声を掛けません」と答え、二人の間に笑いが生まれた。
私は玄関の時計を見た。
招いた人は、もう全員来ていた。
誰かが足りない気がしたのは、いつも数えるべき人の中に伯母がいたからだった。
「ヴィヴィアン」
ロラン様が私の背中へ手を添えた。
「始めましょう」
私は頷いた。
*
音楽は、窓の外へもこぼれた。
孔雀だった婦人が今日は素顔で歌い、子爵夫人が伴奏をした。二曲目は皆が知っている歌だったので、最後の一節だけ客も一緒に歌った。ロラン様の声は低く、私の耳のすぐそばで響いた。
「歌えるのですね」
「歌うだけなら」
「踊るよりお得意です」
「比較をされると、自信がなくなります」
私は彼の指を、一度だけ握った。
休憩には、客が好きな仮面を交換した。眠い獅子が子爵へ渡り、子爵はさらに眠そうな顔をした。オクターヴ氏は月を選んだ。
ロラン様が咳をした。
「何か?」
「よくお似合いで」
「何か言われていない気がしますね」
「どうか、そのままで」
私は窓の方を向いた。こんなことで笑ってはいけないと思うほど、おかしくなる。
リゼットが曲がった鳥を着けて横に来た。
「貴女、今夜は何もしないの?」
「お客様が帰れるように扉を開けます」
「それだけ? 昔、私の弟にやってみせたでしょう」
私は彼女を見た。
「どれを」
「籠の中の仔猫」
近くにいた子爵夫人の目が光った。
「聞きたいわ」
「たいしたものでは」
「猫なの?」
ロラン様がいつの間にか来ていた。
私は彼を見た。彼も私を見た。
夫人がその間を面白そうに見比べた。
「何かあるのね」
「ありません」
私たちの声が重なった。
それが一番よくなかった。
結局、私は広間の真ん中で狐の仮面を着けた。
「狐は、どう鳴くか分かりません」
「では、別のものを」
子爵が朗らかに答えた。気楽なものである。
私は目を閉じ、母の声を思い出した。夜、布団の端を持ち上げる時の声。もう一匹いるわよ、と囁いて、私の背中へ小さな手を忍ばせる。
私は、仔猫の声を出した。
最初は静かな声。それから、箱の中で仲間を探すようにもう一度。
広間の奥で、ニナが目を丸くした。
誰もすぐには笑わなかった。
私は慌てて、仔猫に答える犬の声を出した。さらに、間違えて起きた鴨が文句を言う。
子爵が吹き出した。
釣られて、広間のあちこちで笑い声が起こった。
私は鴨をもう一度鳴かせた。今度は眠い犬が、仕方なさそうに応じた。
台所の方から、本物のドンが吠えた。
それが最後だった。子爵夫人が顔を覆い、リゼットは椅子の背を掴んで笑った。
「返事が来たわ」
「もう一度呼んで」
私は首を横に振った。頬が熱くて、仮面の内側にこもっている。
ロラン様がこちらへ来た。
「これ以上は、本物が来ますので」
「猫さんは何を?」
夫人が尋ねる。
彼は私の手を取った。
「狐を回収します」
また笑いが起きた。
私は彼に引かれるまま、窓辺まで歩いた。
「お嫌でした?」
広間の声に紛れるくらいで尋ねる。
彼はすぐには答えなかった。
「とても可愛かったです」
私は口を閉じた。
そんな言葉で来るとは、思わなかった。
「ですから、少し困りました」
「貴方は、いつも困っていらっしゃる」
「貴女に関しては」
彼の親指が、手袋越しに私の指を撫でた。
「私の方を見ましたね。始める前に」
「……見ました」
「それで我慢しました」
「何をですか」
「連れて帰るのを」
「ここ、我が家です」
「もっと奥へ」
私は扇を開いた。
仮面と扇があって、本当によかった。
*
客を送り出したのは、日付が変わる前だった。
鶏にならなかった子爵は、別れ際だけ立派に鳴いた。外で待つ馬が驚き、夫人は「もう十分です」と告げた。
リゼットは私を抱き締めて、「また呼んで」と言った。
招いた人からそう言われるのは、伯母の屋敷でも何度も聞いた。
でも、私へ言われたのは違う。
最後の馬車が去った時、私は扉の前で大きく息を吐いた。
「また、しましょう」
「ええ」
ロラン様が扉を閉めた。
「次は、貴方も何か」
「十分働きました」
「狐を回収しただけです」
「重要な役目です」
彼は私の仮面の紐を解いた。
髪が少し引かれて、私は目を細めた。彼の指がゆっくりほどいて、狐の顔を手の中へ移す。
「まだ熱いですね」
「たくさん笑ったので」
「ええ」
彼は私の頬へ唇を触れた。
「今夜の客で、一番得をしたのは私です」
「主催です」
「それも悪くありません」
私の背中へ腕が回った。私は彼の上着を掴んだ。
「ドンを呼ばないでね」
「もう声は出しません」
「それは、少し残念です」
私は彼の胸を叩いた。
猫の仮面が、彼の手から滑りかけた。
私たちはそれを二人で受け止めて、また笑った。




