第八話 迷い猫の行方
こちらは再掲載版です。
第一巻は全40話完結済みです。
初めての投稿でしたので、読みやすさを意識し、話数の区切りや改行を一部見直しています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
「探すって言ってもな……」
薬舗の前で、シャロウは人の行き交う通りを見渡した。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、店を開けた商人たちの声が飛び交っている。道の端を茶色い猫が素早く横切ったが、探している猫とは毛色が違った。
「こんな街の中から、どうやって猫一匹を見つけるんだよ」
「ルゥが行きそうな場所を、順番に探すの」
隣に立つ有紗は、迷いなく答えた。
その腕には、リネットから渡された柔らかな布が抱えられている。見つけたルゥが怪我をしていた時や、怯えて暴れた時に包むためのものだった。
「当てはあるのか?」
「まずは、いつも座ってる裏口。それから薬草倉庫の周り。隣のパン屋さんにも時々行くよ」
「店主がもう探してるんじゃねえのか」
「探したって。でも、ルゥは狭いところに隠れるのが上手だから」
「余計に見つかる気がしねえな」
シャロウは小さく息を吐いた。
今朝まで、自分が猫を探して街を歩くことになるとは思ってもいなかった。
◇
「届かない」
朝食の席で、紫音が低く呟いた。
有紗が匙を持ったまま顔を上げる。
「何が?」
「試薬です。昨日届く予定でした」
紫音の前には、空になった小瓶と実験工程の記録が並んでいる。朝食中だというのに、既に頭の中では今日の作業を組み立てているらしい。
「一日くらい待てよ」
シャロウがパンをちぎりながら言った。
「一日遅れれば、その後の工程もすべて一日ずれます」
「一日ずれるだけだろ」
「その一日を取り戻すために、後日すべての予定を調整しなければならないのです」
「面倒くせえな」
「あなたには関係がないから、そう言えるのです」
紫音が記録へ目を戻したところで、リネットが食堂へ入ってきた。
手には、一通の手紙を持っている。
「先ほど、薬舗から届きました」
紫音は手紙を受け取ると、すぐに封を開いた。短い文面へ目を走らせた紫音の眉が、僅かに寄る。
リネットは有紗へ視線を向けた。
「薬舗のルゥが、帰ってこないそうです」
有紗の顔色が変わった。
「ルゥが?」
「はい。昨日の朝から姿が見えず、店主は仕事を放り出して探しておられるとか」
「昨日の朝から……」
有紗は心配そうに胸元で手を握った。
紫音は手紙を読み終えると、机の上へ置いた。
「それで、試薬を届ける余裕もないのですね」
「治療院へ納める薬にも、遅れが出ているそうです。近隣のお店の方々も、交代で捜索を手伝っていらっしゃるとか」
シャロウは紫音と有紗を交互に見た。
「猫一匹で大騒ぎだな」
「シャロウ」
有紗が、明らかに不満そうな顔をした。
「ルゥは一匹しかいないよ」
「いや、そういう意味じゃねえよ」
「昨日から帰ってないんでしょう? お腹が空いてるかもしれないし、怪我をして動けないのかもしれない」
有紗は食事の途中だった匙を置いた。
「探しに行かないと」
「有紗」
紫音が呼び止める。
「あなた一人では行かせられません」
「でも、紫音くんは実験を止められないでしょう?」
「ええ」
紫音の視線が、シャロウへ移った。
「シャロウ。依頼です」
「嫌な予感しかしねえな」
「有紗に同行し、ルゥを探してください」
「やっぱりかよ」
シャロウは眉を寄せた。
「俺はその猫を知らねえぞ」
「ルゥの特徴や習性は、有紗が把握しています。あなたには護衛と、必要な作業をお願いします」
「必要な作業って何だ」
「猫が高所や瓦礫の隙間へ入り込んでいた場合、あなたの方が対処できるでしょう」
「結局、猫を探すこいつの番犬じゃねえか」
「概ね、その認識で構いません」
「構うだろ」
有紗は少し遠慮がちに、シャロウを見た。
「一緒に探してくれる?」
シャロウは一度、紫音へ視線を向けた。
紫音が研究を中断する気配はない。リネットも薬舗の代わりに仕事へ出られるような状況ではなさそうだった。
「……お前一人じゃ行かせられねえだろ」
有紗の表情が明るくなる。
「ありがとう、シャロウ」
シャロウは椅子から立ち上がり、壁に掛けてあった外套を取った。
「最後に見た場所から確認するぞ。店主にも直接話を聞く」
「うん!」
有紗もすぐに席を立ち、出かける支度を始めた。
◇
――そして現在。
いつもなら朝から開いている薬舗は、半分だけ雨戸が下ろされていた。
扉には、急いで書かれたらしい一枚の紙が貼られている。
『飼い猫を探しています』
その下には、白い猫の簡単な絵が描かれていた。
右耳と尻尾の先だけが黒く、首には青緑色の紐をつけている。
有紗はしばらくその絵を見つめたあと、薬舗の脇へ回った。
「裏口はこっちだよ」
薬舗と隣家の間には、人一人がようやく通れるほどの細い路地が伸びていた。乾燥を待つ薬草の籠や空の木箱が積まれ、朝の光を遮っている。猫一匹なら潜り込めそうな隙間はいくらでもあった。
シャロウは有紗のあとへ続きながら、外套の裾を持ち上げた。
「ルゥ」
有紗が、いつもより少し柔らかな声で呼ぶ。
返事はない。
有紗は裏口の脇に置かれた籠を一つずつ覗き込んでいった。
シャロウも積み上げられた木箱の隙間へ目を凝らす。
「まずはここを全部見る。それから薬草倉庫だったな」
「うん」
「お前は呼びながら探せ。高いところと、手が届かねえ場所は俺が見る」
シャロウは有紗より先に、薄暗い路地の奥へ足を踏み入れた。
「ルゥ」
有紗は籠の陰へ呼びかけた。
少し待ってみても、返事はない。
シャロウは積まれた木箱を一つ持ち上げ、その下を覗き込んだ。乾いた土の上を、小さな虫が慌てて逃げていく。
「こっちにはいねえな」
「うん……」
有紗は、閉じられた裏口へ目を向けた。
いつもなら、ルゥはここで日向ぼっこをしている。薬舗を訪れた有紗を見つけると、青緑色の首輪を揺らしながら近寄ってきた。
その姿がないだけで、狭い路地がひどく寂しく見えた。
「次は薬草倉庫だったな」
「うん。裏の通りを抜けたところ」
二人は薬舗を離れ、その裏手に建つ倉庫へ向かった。
扉の脇や床下、積まれた麻袋の間まで調べたが、白い毛の一本も見つからない。
隣のパン屋を訪ねると、店主の女性は申し訳なさそうに首を横へ振った。
「昨日は来ていないねえ。いつもなら、パンが焼き上がる頃には裏口に座っているんだけど」
「昨日の朝、何か変わったことはなかった?」
有紗が尋ねると、店主は腕を組んで考え込んだ。
「そういえば、薬舗の前で荷車の荷が崩れたよ。樽が落ちて、随分と大きな音がしてね」
「ルゥ、大きな音が苦手なの」
「その直後だったかな。白いものが裏通りへ走っていくのを、うちの子が見たと言っていたよ」
「どっちへ行ったか分かる?」
「古い倉庫が並んでいる方だと思う。今はほとんど使われていない場所だけどね」
有紗はすぐにシャロウを見上げた。
「行ってみよう」
「待て。走るな」
古い倉庫街へ向かおうと店を飛び出した有紗の肩を、シャロウが後ろから掴んだ。
「古い倉庫なら、床が抜けてる場所もあるかもしれねえ。俺より前に出るなよ」
「分かった」
返事だけは素直だった。
それでも足取りは明らかに速い。有紗の後ろを歩きながら、シャロウは小さく息を吐いた。
◇
古い倉庫が集まる一角は、賑やかな通りから少し離れた場所にあった。
使われなくなった荷車や割れた木箱が壁際へ寄せられ、建物の扉には錆びた錠が垂れ下がっている。
人の気配はほとんどない。
風が通り抜けるたび、外れかけた板戸が低い音を立てた。
「ルゥ」
有紗が呼ぶ。
返事はなかった。
二人は一棟ずつ、建物の周囲を確かめていった。
シャロウが外れかけた板を持ち上げ、有紗がその奥を覗き込む。壊れた樽の中や、積み重なった木材の下、半分開いたままの物置も調べた。
何度名前を呼んでも、聞こえてくるのは風の音ばかりだった。
「本当にこっちへ来たのか?」
「来てると思う」
「根拠は?」
「ルゥなら、人が少なくて暗い場所を選ぶから」
有紗は足を止め、周囲を見回した。
倉庫の中でもひときわ古い建物が、奥まった場所に建っている。
扉は僅かに開き、その向こうには深い暗がりが覗いていた。
「……あそこ」
「俺が先に見る」
シャロウは有紗の前へ出ると、扉へ手を掛けた。
湿った木が擦れ、低い音を立てながら開いていく。
倉庫の中には、古い布や空の木箱が無造作に積まれていた。割れた窓から細い光が差し込み、舞い上がった埃を白く照らしている。
シャロウが床の状態を確かめながら、慎重に中へ入った。
有紗もその後ろに続く。
「ルゥ」
有紗の声が、薄暗い空間へ響いた。
しばらく待っても、何も聞こえない。
「ルゥ。いるの?」
もう一度、呼びかける。
その時。
「にゃ」
奥の方から、小さな声がした。
続いて、
「にゃあ」
二度目の声が、僅かに高く響く。
「ルゥ!」
有紗が声の方へ駆け出した。
「だから走るなって言ってんだろ!」
シャロウもすぐに後を追う。
声がしたのは、崩れかけた棚と壁の間だった。
差し込む光の届かない暗がりに、白い猫が小さく丸くなっている。右耳と尻尾の先だけが黒く、首には青緑色の紐が見えた。
「ルゥ……!」
有紗はその場へしゃがみ込み、そっと両手を伸ばした。
ルゥは怯えたように一度身を縮めたが、有紗の声を聞くと、もう一度小さく鳴いた。
「大丈夫。迎えに来たよ」
有紗が抱き上げると、ルゥは抵抗せず、その胸元へ顔を埋めた。
「怪我はなさそうか?」
「うん。少し汚れてるけど、大丈夫みたい」
有紗は安堵したように笑い、持ってきた布でルゥの身体を包んだ。
そこでようやく、猫のすぐ傍に誰かがいることに気づいた。
壁に背を預けるように、一人の青年が座り込んでいる。
深い黒色の外套に身を包み、頭にはフードを被っていた。ずれた布の隙間から、濃い紫色の長い髪が覗いている。
片膝を立てたまま、胸元を強く押さえていた。
その傍には、小さくちぎられたパンが置かれている。
「ルゥにくれたの?」
猫を抱いたまま、有紗が尋ねた。
青年はゆっくりと顔を上げた。
白い肌にはほとんど血の気がなく、額には細かな汗が浮かんでいる。それでも、整った顔には穏やかな微笑が作られていた。
「ええ。ですが……警戒されてしまったようで」
「ルゥ、知らない人からはあんまり食べないの」
「賢い猫ですね」
青年はそう答えたが、言葉の終わりに小さく息を詰めた。
そこでようやく、有紗は彼の顔をよく見た。
「具合が悪いの?」
「大丈夫です。少し、休んでいただけですので」
「休んでる顔じゃねえだろ」
後ろから、シャロウが低い声で言った。
青年は苦笑するように目を伏せた。
「いつものことです」
「いつもって……」
有紗が眉を下げる。
「心配には及びません」
青年は壁へ手をつき、立ち上がろうとした。
だが、膝に力が入らない。
身体が大きく傾いた。
「危ない!」
有紗はルゥを片腕で抱え直し、空いた手で青年の腕を掴んだ。
触れた瞬間。
白金の光が、有紗の指先から溢れた。
「え……?」
光は細い糸のように青年の腕を伝い、外套の下へ吸い込まれていく。
青年の身体が大きく強張った。
押し殺していた息が、震えながら吐き出される。
「これは……」
苦痛に歪んでいた表情が、僅かにほどけていった。
浅く乱れていた呼吸が、少しずつ深くなる。胸元を押さえていた指からも、ゆっくりと力が抜けていく。
その代わりに、有紗の手を両手で包み込んだ。
「え?」
逃がさないように、強く握り締める。
青年の瞳が揺れた。目の前の有紗ではない、遠い誰かを見ているようだった。
「おい!」
シャロウが咄嗟に二人の間へ手を伸ばした。
だが青年は、有紗の手へ額を寄せるように身を屈めた。
長い髪が、フードの内側から滑り落ちる。
その唇から、掠れた声が零れた。
「……レア、様……」
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