第七話 いつもの場所
こちらは再掲載版です。
第一巻は全40話完結済みです。
初めての投稿でしたので、読みやすさを意識し、話数の区切りや改行を一部見直しています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
旧排水路の入口が完全に塞がったのは、シャロウが研究棟へ来てから九日目のことだった。
崩れかけていた石壁は新しい石材で補強され、魔獣が通り抜けていた隙間も残されていない。
紫音は壁を一通り確認すると、手にしていた記録板へ印をつけた。
「これで、少なくとも同じ場所から侵入することはありません」
「なら終わりだな」
シャロウは壁から背を離し、腰に差した剣の位置を確かめた。
「どこへ行くの?」
有紗が尋ねる。
「研究棟に戻るんでしょう?」
「荷物を取ったら出る」
「今日?」
「ああ」
有紗の表情が、僅かに曇る。
「お昼ごはんは?」
「食ってから出る」
「それは食べるんだね」
「悪いか」
「ううん」
有紗は少しだけ笑った。
最初のように、今すぐ立ち去ろうとはしなくなっている。
それでも、シャロウにとって研究棟は、仕事が終われば離れる場所でしかないのだろう。
「戻る場所は?」
「決めてねえ。仕事がありゃ、そこへ行く」
何でもないことのように答えられ、有紗は黙った。
それでも、シャロウから目を逸らさない。
「でも、ここにいる時は……少し楽しそうだったから」
「俺が?」
「うん。ごはんを食べてる時とか、紫音くんと言い合ってる時とか」
「後のは楽しくねえ」
「そうなの?」
「当たり前だろ」
有紗は小さく笑った。
「じゃあ、リネットのごはんを食べてる時だけ?」
「それも別に」
「でも、いつもいっぱい食べるでしょう?」
「うるせえな」
シャロウは顔を背けた。
紫音は二人のやり取りを聞きながら、記録板を閉じる。
「ちょうどよい機会です。シャロウに、別件の相談があります」
「別件?」
「研究に必要な薬草を採取していただきたいのです」
紫音は鞄から折り畳んだ地図を取り出し、近くの石台へ広げた。
「北方の山地に自生する月白草です。王宮から採取予算が下りています」
「どの辺だ」
「この一帯です。険しい山道が続くうえ、王宮の査定では往復七日。危険度は上級に分類されています」
「七日?」
シャロウが地図を引き寄せる。
「東側から入れば、一日で着くぞ」
「道があるのですか?」
「獣道ならな。月白草の群生地までは、そこから半日もかからねえ」
「報告書では、魔獣の生息域を通過するとあります」
「この時期は谷の反対側へ移ってる。よほど運が悪くなきゃ、何も出ねえよ」
紫音は僅かに眉を寄せた。
「王宮の調査報告と、随分違いますね」
「机の上で山を見てる奴には分かんねえだろ」
「採取条件もあります。根を傷つけず、花が開く直前のものを十株。鮮度を保った状態で持ち帰ってください」
「それだけか」
「それだけ、とは?」
紫音が提示した報酬額を告げる。
シャロウが黙った。
もう一度、地図へ目を落とす。
「……草を摘んで帰ってくるだけで、この額か?」
「王宮が定めた正規の報酬です」
「何か裏があるんじゃねえだろうな」
「ありません」
「本当に、十株でいいんだな?」
「はい」
シャロウは地図を折り畳んだ。
「受ける」
「随分と早いですね」
「受けねえ理由がない」
有紗の顔が明るくなる。
「じゃあ、また研究棟に帰ってくるんだね」
「薬草を届ける必要があるからな」
「うん。待ってるね」
あまりにも自然に言われ、シャロウが一瞬だけ黙る。
「……仕事だぞ」
「分かってるよ」
「ここに住むわけじゃねえ」
「うん」
「採ってきたら、また次へ行くかもしれない」
「その時は、その時だね」
有紗は笑った。
「でも、今は帰ってきてくれるでしょう?」
「……ああ」
小さな返事だった。
紫音が地図の写しをシャロウへ渡す。
「出発はいつにしますか」
「明日の朝」
「準備に必要なものは?」
「食料だけでいい」
「七日分ですか?」
「四日で戻る」
「王宮の想定では七日ですが」
「俺に王宮の想定を押しつけんな」
シャロウは地図を外套へしまった。
「帰ったら、すぐ報酬を払えよ」
「成果を確認した後です」
「細けえな」
「当然です」
「有紗」
「なあに?」
「こいつ、俺がいない間に三ミリ単位で薬草を測り始めねえだろうな」
「紫音くんなら、するかも」
「しません。品質を確認するだけです」
二人の声を聞きながら、有紗は楽しそうに笑った。
シャロウは仕事を受けただけだった。
研究棟へ残ると決めたわけではない。
それでも翌朝、彼が出発する時には、客室の鍵を机の上へ置いていかなかった。
最初の依頼は、四日の予定が三日で終わった。
シャロウが持ち帰った月白草は、十株すべて傷ひとつなく、紫音が求めていた状態よりも鮮度が良かった。
それから、ひと月あまり。
窓から入る風からは、いつしか冬の冷たさが薄れていた。
シャロウは何度も研究棟を出ては、依頼を終えて戻ってくるようになった。
川沿いの崖では足場が崩れ、小型魔獣の討伐では返り血を浴び、護送依頼では三日間ほとんど眠れなかった。
それでもシャロウに言わせれば、
「これで高難度なら、王宮の奴らは外を歩けねえだろ」
という程度の仕事だった。
依頼は紫音を経由して届き、報酬はどれも、相場を知らないシャロウが不安になるほど高かった。
研究棟には寝床があり、食事も出る。
必要な道具や情報も揃っている。
自由に仕事を選び、終われば報酬を受け取り、また好きな場所へ出ていける。
シャロウは早々に、研究棟から立ち去る理由を失った。
◇
最初の頃、シャロウは食事のたびに、壁際に置かれた予備の椅子を食卓へ引き寄せていた。
けれど、いつの間にか食堂には、椅子が一脚増えていた。
食卓の、いつも同じ場所に。
長い依頼へ出る前も、帰ってきた夜も、その椅子は同じ場所にあった。
誰がそこへ置いたのか、シャロウは聞かなかった。
今朝も彼は、その椅子へ当然のように座っていた。
もう壁際の予備椅子へ目を向けることもなかった。
「……シャロウが来てから、食費が随分増えましたね」
紫音が、食費の記録へ目を落としたまま呟いた。
「食いすぎだって言いてえのか」
シャロウは四切れ目のチーズフォカッチャを手にしたまま、紫音を睨む。
「事実を確認しているだけです」
「その顔で言っても説得力ねえぞ」
リネットは空いた皿を重ねながら、何でもないことのように口を挟んだ。
「ですが、自立しているという面では、シャロウ様が一番です」
「……え?」
「……私よりもですか?」
有紗と紫音が、揃って目を丸くする。
「はい」
リネットは迷いなく頷いた。
「重い荷物を運んでくださいますし、棚や扉の修繕もしてくださいます。薪割りや高い場所での作業も、私一人では難しいものですから」
「ついでにやってるだけだ」
「それでも、大変助かっております」
リネットはそこで、紫音へ視線を向けた。
「紫音博士にお願いした、廊下の電球の交換は――三年経った今も、切れたままですし」
「……三年?」
有紗が驚いて紫音を見る。
「日中は窓から十分な光が入ります」
「夜間は暗うございます」
「研究に支障はありません」
「生活には支障がございます」
「そうでしょうか」
「ございます」
リネットの返事は即答だった。
朝食を終えると、有紗はいつものように検査室へ向かった。
魔力測定器へ手を置くと、淡い光が目盛りを駆け上がった。
紫音は慣れた手つきで測定範囲を切り替え、数字を書き留める。
有紗は小さな欠伸を噛み殺しながら、それが終わるのを待っていた。
検査を終えた有紗は、記録を片づける紫音を残し、隣の作業室へ向かった。
卓上には、シャロウが川沿いの崖から持ち帰った鉱石が並んでいる。
有紗はその一つを手に取り、光へ透かした。
「これ、川の近くにあったの?」
「崖だ」
「高いところ?」
「落ちたら死ぬくらいにはな」
「見てみたい」
「やめとけ」
「どうして?」
「今の話を聞いて、何で行きたくなるんだよ」
◇
その日の午後。
「シャロウ様。こちらへ棚を一つ作っていただけませんか?」
リネットに呼ばれ、シャロウは薬品庫へ向かった。
壁際には箱や瓶が積み上げられ、足元まで物が溢れている。
「棚くらい買えばいいだろ」
「注文してから届くまで、二か月ほどかかるそうです」
「二か月?」
「紫音博士にお願いしてから、すでに半年が経っております」
「また放っといたのか」
少し離れた机で書類を書いていた紫音が顔を上げる。
「研究の優先順位が高かっただけです」
「生活の優先順位が低すぎんだろ」
シャロウは呆れたように息を吐き、壁際に置かれていた余り木材を確認した。
「この板、使っていいのか」
「研究器具の梱包に使われていたものですので、構いません」
「工具は?」
「倉庫にございます」
リネットが答えるより早く、シャロウは作業へ取りかかった。
板を切り、表面を削り、寸法を合わせる。
粗雑に見える動きには無駄がなく、組み上がった棚は、最初からその場所にあったかのように壁へ収まった。
「できたぞ」
「ありがとうございます。大変助かります」
リネットが棚を確認し、満足そうに頷く。
その横から、紫音が細い測定器を取り出した。
「シャロウ!」
「何だよ」
「棚が三ミリ傾いていますよ!」
「三ミリで何が変わるんだよ!」
「薬瓶が僅かに右へ寄ります」
「自分でやれよ!!!」
「私が手を怪我したらどうするんですか?」
「だったら文句言うな!」
研究棟に、シャロウの声が響いた。
有紗は扉のそばで、口元を押さえながら笑っていた。
「何笑ってんだ」
「だって、二人とも仲良くなったなと思って」
「なってねえ!」
「なっていません」
シャロウと紫音の声が重なる。
「ほら、息ぴったり」
「有紗」
「違ぇよ」
有紗はますます楽しそうに笑った。
シャロウはぶつぶつと文句を言いながら、棚の脚へ薄い板を一枚挟んだ。
紫音がもう一度測定する。
「これで水平です」
「次から自分でやれ」
「危険ですので、お断りします」
「何が危険なんだよ」
シャロウは呆れたように笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、有紗はそれを見逃さなかった。
「シャロウ」
「何だ」
「笑顔が増えたね」
シャロウの表情が止まる。
「……笑ってねえ」
「今、笑ってたよ」
「あいつが面倒すぎて呆れただけだ」
「それでも、前より楽しそう」
有紗は何の含みもなく言った。
「最初に会った時は、ずっと怖い顔してたでしょう?」
「お前が勝手についてきたからだ」
「今は、怖い顔をしてても前ほど怖くないよ」
「どういう意味だ」
「シャロウが本当は優しいって、分かったからかな」
シャロウは何かを言い返そうとした。
けれど、ちょうど言葉が見つからなかったらしい。
「……勝手に決めんな」
「うん」
有紗は素直に頷く。
「でも、笑顔が増えたのは本当だよ」
シャロウは顔を背け、使い終えた工具を片づけ始めた。
耳が僅かに赤くなっていることには、誰も触れなかった。
◇
研究棟への依頼は、一件をこなすたびに増えていった。
紫音博士の研究棟へ頼めば、現場仕事まで何とかしてくれる。
そんな評判が、王宮の研究部署や治療院の間で広がり始めていた。
「次の依頼です」
夕食後、紫音が一通の書類をシャロウへ差し出す。
「今度は何だ」
「南方の湿地に自生する薬草の採取です」
「湿地なら三日だな」
「王宮の予定では九日です」
「どんな道を通るつもりなんだよ」
シャロウは依頼書を受け取り、報酬欄へ目を落とした。
「……また、この額か」
「危険手当が含まれています」
「あそこに危険な魔獣はいねえぞ」
「あなたにとっては、でしょう」
紫音は淡々と答えた。
「危険度は、一般的な採取者を基準に定められています。あなたが容易に往復できるからといって、査定が誤っていることにはなりません」
シャロウが紫音を見る。
「……お前、そういう理屈つけるの上手いな」
「正確に運用しているだけです」
「意外と悪い奴だな」
「心外です」
有紗が二人の間から依頼書を覗き込む。
「シャロウ、またお出かけするの?」
「ああ」
「何日くらい?」
「三日。遅くても四日だ」
「そっか」
有紗は少しだけ寂しそうにしながらも、笑った。
「じゃあ、帰ってくる日の夕飯、リネットに何を作ってもらうか考えておくね」
「別に、何でもいい」
「お肉がいい?」
「何でもいいって言ってんだろ」
「魚?」
「肉でいい」
「やっぱりお肉なんだ」
有紗が笑う。
シャロウは依頼書を畳み、外套の内側へしまった。
◇
三日後の夜。
研究棟の玄関が開いた。
土と雨の匂いをまとったシャロウが、大きな荷物を肩へ担いで入ってくる。
食堂から椅子を引く音がした。
「シャロウ!」
有紗が廊下へ駆けてくる。
「おかえり!」
シャロウは足を止めた。
濡れた前髪から、雫が一つ落ちる。
有紗は何の疑いもなく、返事を待っていた。
シャロウは口を開きかけ、視線を逸らした。
「……ただいま」
有紗が瞬きをする。
有紗は、その言葉を確かめるようにもう一度笑った。
「うん。おかえり」
シャロウは居心地悪そうに濡れた髪を掻いた。
「……飯、残ってるか」
「もちろん!」
有紗は食堂へ戻りかけて、途中でもう一度振り返った。
シャロウは荷物を床へ下ろし、自分で作った外套掛けへ濡れた外套を掛けている。
食堂へ入ると、増えた椅子の前には、最初から一人分の料理が用意されていた。
シャロウは何も言わず、その席へ腰を下ろした。
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